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03月11日

喜久屋→36青龍寺→民宿司(高知県須崎市)34km


辻説法

マメがとうとう固まったからか、筋肉痛がよくなったからか、今日はやけに調子がよかった。どこも痛くないというのが、こんなにありがたいとは知らなかった。

36青龍寺にお参りし、宇佐大橋を渡っていると、ごつい感じのお坊さんらしき人に声をかけられた。「なんでまわっとるんや?」「なんででしょうねえ。」尋ねると、36青龍寺と37岩本寺の間にある、岩不動の住職であるとのことだった。一人称は「坊さん」である。

「せっかく生まれてきたんだから、人間は修行せんといけん。そうせんと、輪廻からは脱出できん。縁あって人と人が出会い、例えばキミは坊さんに出会い、導かれたりするわけや。」彼はそういうと、この世のことわりについて、修行の方法について、歩きながら語りだした。ついて行くのに精一杯のところに、早口の土佐弁でたたみかけられるものだから、すべて理解したとは到底言えないものの、なかなか面白い話だった。

色即是空、空即是色

「キミお寺で般若心経を唱えるやろ」

「ハイ唱えます」

「色即是空、空即是色ってあるな」

「この世にいろんなものはあるけど、それらはすべて幻っていうか、本当には存在しないというか、そういうことでしょう」

「それは色即是空やな。空即是色はちょっと違う」

「繰り返しじゃ、なかったんですか」

「単なる繰り返しやない。もともとは空しかないわけやな。そこに、誰かの願いが発生する。するとそこに、色が出てくるんや。キミだって、空から、誰かの願いがあったことで、それならというわけで出てきたわけや。」

「願いって何を願ったんですか」

「それを忘れとるから困るわけやな。だから瞑想して、ずーっとさかのぼって、もともとあった自分を知らなければならないんや。」

六道輪廻

「どうして自分がここにいるのか、ってことですか」

「そういうことやな」

「わかったらどうなりますか」

「輪廻から脱出できる。輪廻っちゅうのは地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上やな。願いに気づくまで、これをぐるぐる回らんといけんわけよ。そいで、気づくことができるのは人間界におるうちだけや。死んでしもうたら、またぐるぐるたどり直しや」

「気づいたら出られるんですか。」

「おおそうや。よう戻ってきたな、って、きっと歓迎してもらえる。賢い人はもうみんな、抜けとるころやろな」

「今からでもだいじょうぶですか」

「そら、輪廻をまわるうちにためた知恵と、縁があればな。そいで、修行するわけや。現世のことだけにかかずらわっとったら、なんもできんうちに死んでしもうて、また輪廻に逆戻りや。それは困るやろ?」

この世のことわり

「ふうむ。過去にさかのぼる、というのが修行ですか」

「まあ、そやな。さらに、この世の仕組み、法というけどな、これを知らんといけん。直感も大事だけど理論もいるからな」

「どんな理論ですか」

「いろんなものが見えたりいろいろするのは、キミがいるから、ということや。眼鼻耳舌身意でいま、世界は捉えられているわけや。でもそれは、結局空やな。幻や」

「無眼鼻耳舌身意って、般若心経にありますね。さっきの、すべては空であるという話ですか」

「そうそう。悟りを開くというのは、一つにはそれがわかるということや。キリストが、荒野で見たという幻と一緒や。すべては自分が、見ているに過ぎない。そうすると、この世に起こるいろいろな現象の理由が見えてくる。縁起やな。理由がわかれば、しんどいこともたいしてしんどくないやろ」

空と存在

「坊さん」とは、8キロほど一緒に歩いたのちにお別れした。正確に言うと、「坊さん、ちょっと山に用事があるから」と、去っていった。どんな用事なのかはわからないけれど、山に用事、というのがなんだかしっくりくるひとだった。

空即是色ねえ、と、考えながらしばらく歩いた。空とは、エネルギーのかたまりみたいなものだろうか。空の変形としてこの世のすべてのものがある、そういうことだろうか。そんなことを考えていると、小腸断面の顕微鏡写真が頭に浮かび、離れなくなった。空と色の関係が、小腸自体と絨毛の関係のように思えてならないのだ。

小腸はおいておこう。広島大学の古東哲明教授は、この世で最も驚くべきもの、最も根本にあるものは、存在であるといった。存在と空というのは、対立概念に思えるけれど、私には、空即是色と古東教授の説が、同じことを言っているように思えてならない。


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