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03月10日

みゆき→33雪渓寺→34種間寺→35清滝寺→喜久屋旅館(高知県土佐市)25km


団体さん

今日は日曜のせいか、どの寺も人が多かった。歩きや自家用車、自転車でやってくる人も多いけれど、最も目立つのは、大型バスで登場する団体さんである。

歩き遍路はしばしば、大型バスで巡拝する遍路をさして、「団体さん」と言う。団体さん、という言葉に、見下したような響きを聞くのは、私がひねくれているからだろうか。

団体さんは歩き遍路にとって、できれば遭遇したくない相手である。団体さんがやってくると、納経所では待たされるしお参りの際には大きな読経の声に引きずられるし、宿の予約はとりづらくなる。

でも、団体さん、という響きは、そういう、困ったな、という気持ちだけでなく、本来は歩くべきなのに、という気持ちを含んでいるように思う。歩くことができる、それはとてもラッキーなことであるはずなのに。彼らだって、きっと、できれば歩きたいはずなのに。

歩き遍路のしょっている業

私のように若い女が一人で歩いていると、しばしば、「えらいわね、一人で歩いて?」と、声がかかる。 えらい、という言葉は、もともと、つらいという意味だという。荷物を背負って歩くのは、楽ではない。たいへんだね、もしくは、よくそのたいへんな道を選択したねと、言われているのかもしれない。

優れているという意味で偉いなんてことはありえないと思う。たいへんかもしれないけれど、誰のためでもないのだから。あくまで、自らの選択である。

歩き遍路をするには、時間と体力とお金が要る。それに加えて、お大師さまのお導きが要ると言う人もある。 そういう業をしょっているということなのではないかと、私は思う。私の祖母はしばしば、「業がみてんと(なくならないと)死ねんけえねえ」と言う。それに近い。そうせざるを得ないのだ。

一生に一度のお願い

今日の宿、喜久屋では、再びT氏と同宿となった。

T氏によると、喜久屋のおかみさんは、「一生に一度だけ、必ずかなう」願いごとの仕方を知っているという。T氏ともども、その方法を聞いた。

その方法とはすなわち、36青龍寺の本堂・大師堂・恵果和尚の墓にお願いした後に、恵果和尚のお堂の横にある石を一つ持って同様にお願いし、裏返して落とす、というものであった。

おかみは続いて、その方法で「一生に一度のお願い」をかなえた人たちの話をしてくれた。末期ガンが消えた若い女性、てんかんの発作が起きなくなった子供、長い間待ち望んでいた子宝に恵まれた夫婦。どの願いにも、医療がかかわっている。そういえば寺の本尊には、医薬の仏、薬師如来がたいへん多い。2500年前、釈迦は、生老病死の四苦を説いた。きっと、今でもなお、これらは人間の苦しみの根幹を成しているのだ。


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