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読書記録No.014(031028-)◆

ライフ・レッスン(エリザベス・キューブラー・ロス、 デヴィッド・ケスラー、角川文庫、060308)

死の淵に追いやられた人から学べる生のレッスン、ということで、15のレッスンが挙げられています。「ほんものの自己」・愛・人間関係・喪失・力・罪悪感・時間・恐れ・怒り・遊び・忍耐・明け渡し・許し・幸福のレッスンです。

この中で、喪失のレッスンが一番心に響きました。人生においてわたしたちが得るもの、所有するものはすべて借り物だというのです。始まりがあれば終わりがある。失うことはつらいけれど初めからないよりは一度は手に入れて失うほうがいい。人や物は自分の目の前からいなくなっても大事なものは永遠に残る。そして、失うものは電話番号のメモから愛する人まで様々なものがあるけれど、すべての喪失に対して成長が伴い、また、喪失なくして成長もない、といいます。

喪失を経験したとき人は嘆きます。キュプラーロスの有名な「死の受容の5段階」否認・怒り・取引・抑鬱・受容はすべての喪失に対して適用できます。でも、各段階の長さには個人差があっていいし、後戻りすることもあるでしょう。準備ができてはじめて、嘆くことができる、嘆くことができない間は、否認という恩恵に浴しておけばいいとのことです。準備ができたら自然と感情がわいてきて、癒しのプロセスも始まるからと。

この章が心に響いたのは、つい先日、スノーボード事故で前の大学のたいせつな友人をひとり失ったからだと思います。国試直前でしたが、お通夜、告別式と出てきました。亡くなったということがうまく受容できなくて、遺影に写っているのは確かに彼なのに彼がどこかに隠れているだけのような気がして。まだ嘆く準備ができていなかったのです。その後話を聴いてくれる人の前で一度は泣きましたけれど、まだ受け入れきれていないのでしょう。準備ができるまでは否認が続いてもいい、そんなメッセージに慰められました。

これから(おそらく)病院で働くにあたって、わたしはたくさんの喪失を経験するのでしょう。担当の患者さんがひとりも亡くならないなんてことはないでしょうから。死にゆく人の手を取れる自分でありたいと思います。

始まりがあれば終わりがあるけれど、終わりがあれば始まりがあります。死にゆく人がいれば新しく生まれる人がいて。

1984年(ジョージ・オーウェル、060221)

怖い話でした。心の中まで監視される社会の話です。街中には至る所に「テレスクリーン」が置かれ一人ひとりの一挙一動を監視しています。いや、監視していないかもしれませんが監視している可能性があります。過去が変えられ現在が変えられ人々は「現在の情報」のみを手にします。1億4千万の長靴を作る予定が6200万しか作れなかったとしても、過去が変えられ「5700万の長靴を作る予定が」6200万も作れて我が国は非常に富んでいる、となるわけです。たとえ国民の半数に長靴が行き渡らなかったとしても。

戦争が常時続いています。人々を上流階級・中流階級・下層階級に分けたときに、中流階級・下層階級に生きるのに必要な最低限以外は渡らないようにするために。言葉もどんどんシンプルになっていきます。2+2=5です。「思考罪」という、政府に刃向かう考え、体制に反対する考えをもったという罪があるのですが将来は言葉が単純化され概念が貧困化することによって「思考罪」そのものが不可能になるだろうと予言されている、そんな社会です。

読み始めたときは、レイ・ブラッドベリの「華氏451度」を思い出しました。焚書が行われ人々の思考がどんどん貧困になっていく世界。しかし「華氏451度」のラストで示された希望が、この「1984年」では消え失せているように思います。主人公カップルの愛情(個人的な愛情自体「思考犯罪」です)が体制を破壊するかと思いきや、度重なる拷問に耐えきれず二人とも相手を裏切ってしまいます。そして「善良」な市民へと矯正され「体制」に従うようになるのでした。

2+2=4と叫ぶことが自由だ、と主人公は言いました。自分の頭で考える自由、考えるための言葉、氾濫する情報に振り回されて失いつつあるのではないかと心配です。

哲学的思考──フッサール現象学の核心──(西研、筑摩書房、040910)

400ページ近いハードカバーで、読むのになかなか骨が折れました。

この本で言われているのは、要するに、「みんなが共有できるような思考って、きっと、あるよね」ということなのだと思います。世の中、客観という言葉が示すように、「誰が見たってそれは正しい」ということは「ある」ことになっていますから、そんなことはわざわざ言わなくてもいいように思えるのですけれど、現代哲学は、そう考えてはきませんでした。「ものの見方、感じ方、考え方なんてものは、時代・文化にもよるし、個人のそれまでの経験にもよるし、人それぞれ、見ているものも感じているものも違うんだから、これが正しいっていう共通理解や、ここを目指そうよという共通到達目標(理想)、誰にとっても正しい真理だなんて、探すだけ無駄なんじゃないの」というのが、現代哲学から導き出される、それはそうかもしれないんだけどちょっとさみしいかもしれない、スタンスでした。

じゃあ、「でも客観ってあるよ」というのをどのように証明しているかというと、知覚から入ってくる情報が確信を伴っていること、そして、知覚から入ってくる情報が互いにつじつまが合っていることから、「みんな、自分と同じ立場にいたら同じように感じるであろう」客観世界があるはずだという確信が生まれる、この確信が、客観の存在を支えている、というのです。そして、誰にとっても正しい真理や、理想などというものは、はじめから存在しているものではなく、各人持っている経験・感覚・考えを互いに持ち寄って比べるところから、生み出されるのだというのです。こっちのほうがいいね、でも、この部分は取り入れたいよね、と。

著者(西研)は、「考えあう」こと──互いの考えを持ち寄ってああでもないこうでもないと議論し、それまで持っていた自分の考えを更新し、より確信の持てる考えに洗練していくこと──に、強い魅力を感じているのだと思います。「人それぞれですからね」とクールに構えていては、考えあうことはできません。人それぞれっていう言葉がはやっているけれど、でも、考えあうことは、できるはずだよね、そんな自問自答を徹底して行ったのが、この本でしょう。一歩一歩着実に進むその進み方が、好きです。

モモ(ミヒャエル・エンデ、岩波書店、040909)

ドイツから帰る飛行機の中で、そうだ読まなきゃ、と、思い出していました。子供のころから持っていた本です。たぶん中学生のころに、一度読んだことがあります。ここだ、と思ったクローゼットの隅に、予想通り放り込んでありました。

表紙には、

時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語
とあります。時間を盗むというのは、時間を節約させるということ。人がこれまで豊かに過ごしていた時間を無駄な時間として切りつめ、「生産的」な作業に従事することです。そうやって切りつめられた時間を誰にも気付かないようにかすめ取りながら、時間どろぼうは生きています。

そして、モモのほうはと言えば、時間をふんだんに持っている子どもでした。

モモに話を聞いてもらっていると、ばかな人にも急にまともな考えがうかんできます。モモがそういう考えを引き出すようなことをいったり質問したりした、というわけではないのです。彼女はただじっと座って、注意深く聞いているだけです。その大きな黒い目は、あいてをじっと見つめています。するとあいてには、自分のどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、すうっとうかびあがってくるのです。

◆◇◆◇◆

わたしは今まで、予定を詰めること、常にやるべきことがあること、そんな状態がよいと信じて生きてきました。「生産的」がキーワードで、「非生産的」な一日を過ごしてしまうと悔しく感じましたし、「生産的」な人々を仰ぎ見ては、うらやましく思っていました。

しかしドイツでは、少なくとも午後は本当に暇でした。「時間なら、いくらでもありますから」とほほえんで、各病室を尋ね歩きました。わたしにはふんだんに時間があって、それをどう使うかは自由で、その時間をわたしは、患者さんたちとおしゃべりして、ときにはクッキーやコーヒーをごちそうになって、過ごしたのでした。

ありあまる時間をありあまるままにともに過ごす、その豊かさに、はっきりとではないにせよ、気付いて帰ってきたのだと思います。

蹴りたい背中 (綿矢りさ、040226)

午後に一人、寝転がってぼんやりと読みました。読んでいると、細部に現れるとけ込めなさとかやるせなさとかそういうものが、ぐっさり突き刺さりました。気まずさの表現が特にうまくて、気まずさなんて共有したくも何ともないのに、一人称で語る主人公と一緒に、居心地悪くなってしまいました。高校生に戻ったような気分で。そういえば高校時代、そんな気まずさ、居心地の悪さをいつも感じていました。忘れたことにしていたけれどやっぱりきちんと覚えているんだなと、しばし昔の記憶に浸っていました。具体的なエピソードではなく、気分や雰囲気、風景を思い出しながら。

表現がうまい、と書きました。うまい表現にもいろいろあると思うのですけれど、この場合は、うまく言えない感情をうまく言えないままにそのまま表現してあるように感じた、ということを指します。ふと頭をよぎる違和感などの、基線のゆれみたいな細かい感情を、一つ一つすくい上げているなと。そういう細かい雑音は、まさにその瞬間には感じていても、あのときどうだったかな、と思い出すとき、また、それを他人に語るときには、ほとんど確実に切り捨てられてしまいます。だから、そういう雑音を削らずに伝えられると、思考回路を共有しているように感じてしまうのだろうと思います。

そして、比喩の使い方だとか、気持ちのどこを表現するかといったところで、ステレオタイプを使わなかったんだなということがしみじみわかる文章だと感じました。想像でものを書く場合、往々にして、これまでに確立されているはずの類型的行動を採用したくなるものだと思っているのですけれど、それが、使われているのかもしれないけれど一見気づかないほどに、丁寧に書き込まれているから、描かれている情景だとか、主人公の気持ちの動きとかが、リアルなんだろうなと。「らしさ」を拒絶している、とちょっと気取って書こうと思ったのですけれど、わざわざ拒絶しているわけでも、ないのかもしれないと、思い直しました。そういうリアルさは、柴田翔に通じていると思います。柴田翔の文章の魅力も、描写の丁寧さにあると、わたしは考えています。

主人公と共有してしまった気まずさが、まだ少し痛いです。とても面白いかと聞かれたらよく分からないのですけれど、力を持った小説だとは思います。

040224 「蛇にピアス」(金原ひとみ、040224)

読んでみました。第130回芥川賞受賞作、です。

ピアスに刺青、SM、アルコール依存・・・題材が過激だったので、はじめ読んだときには、ずいぶんびっくりしました。「いや、個人の自由といえばそうなんだけど、針はちゃんと新しいのを使っているのかな、そうしないと、肝炎などの病気にかかっちゃって、かっこわるいどころの話じゃなくなるよ」「女性はアルコール依存に陥りやすいんだよ、そんなアンニュイに浸るような甘いもんじゃないんだよ」これは、本筋とは関係ないです。

しかし、たとえば舌にピアスを開けるといった目立つ部分を取り去ってしまえば、普通の若者の、」普通の恋愛と普通の衝動が残る、そう思います。

普通の恋愛、と書きましたけれど、主人公のルイという女の子は、愛されるばかりですね。包み込まれかしずかれて慈しまれている、と言えばいいでしょうか。いつだって彼女のことを見ている恋人がいる。ルイ本人は、舌にピアスを開けてその穴を大きくすることだとか背中に龍と麒麟の刺青を彫ることだとか酒を大量に飲むことだとかに夢中で、さもなければ虚脱状態でぼんやりしていて、相手の方なんかろくに見ちゃいないのですけれど。でも、一方的に慈しまれている。ちょっとうらやましかったりします。

そして普通の衝動について。確かに、舌にピアスを開けるだとか刺青を背中一面に彫ってしまうなどといった身体改造自体は、「普通」ではないのかもしれません。でも、という表現に代表されるような、よくわからないけれど突き動かされてしまう、あるいは突き動かされそうになる、往々にして暗い衝動、というのはかなり普遍的なものだと思うのです。そういう衝動を表現するには、身体改造はむしろ適しているのではないかと思いました。実践する人が少ないだけに、たとえば身近の「やってる人」のイメージなどの、よけいな意味が付加されにくいからです。ルイをかわいがってしまう男性たちも、衝動に突き動かされてやっているのかもしれません。

衝動なんて持ち出してしまうと話なんてどうにでも作れる、とは言えるのですけれど、その現れ方がとても自然だ、というのは、きっと著者の力量なのだと思います。

千年の愉楽(中上健次、小学館文庫、031101)

熊野の「路地」で産婆をしてきたオリュウノオバの目から見た、路地、そして「高貴にして澱んだ血」を受け継ぐ「中本の一統」の男たちの物語です。「路地」とは、身も蓋もない言い方をすれば、おそらく被差別部落なのでしょう。時代は、よくわかりません。おそらく、昭和であると思われます。

オリュウノオバは毛坊主の礼如さんと夫婦です。産婆と坊主の組み合わせというのは、二人そろって生と死の門口にいるようで、過去から未来へと流れていく物語の立役者としてはこの上なく的確であるように思えます。 オリュウノオバは、路地の者すべての誕生に立ち会います。そして、いままでに路地で生まれ、また死んでいった者すべての、生年月日と命日をそらんじています。私生児だったり親があまりに貧しかったりして、闇から闇へ葬られた子のことも、彼女はすべて覚えています。

オリュウノオバは中本の一統の男たちについて語ります。中本の男たちは皆、男振りがよく女扱いがうまく、そして早死にです。彼らは、昔路地に流れ着いた高貴なものにはじまる、「高貴な腐り澱んだ血」を受け継いでいるといいます。中本の男たちは、その血のために滅びに向かうといいます。オリュウノオバが中本の男たちを気にかけるのは、彼らが美しく、そして長くは生きられそうにないゆえでしょうか。産婆であるオリュウノオバからしてみたら、この世とは相容れないというように早死にする中本の男たちは不憫で仕方なく、不憫であるがゆえにいとしいのかもしれません。

中本の男たちは、盗み・人殺し・姦通・ヒロポンなどなど、いわゆる悪いことにいろいろ手を染めます。オリュウノオバは、時に悲しみはしますけれどそれをとがめることはまったくありません。生まれてくるもの死んでいくものを、毎日のように見ていたら、路地で人の起こすいわゆる犯罪の一つや二つ、大きな川のさざなみのように、ささやかで取るに足らないことに思われるのかもしれません。

おそらく、ストーリーを楽しむたぐいの小説ではありません。路地の世界を疑似体験し、まきこまれる小説といえば、多少なりとも的確でありましょうか。

話しことばの看護論 ターミナルにいあわせて(徳永進、看護の科学社、031028)

「いあわせて」という言葉の、控えめさが素敵だと思いました。今のわたしにはずいぶん気持ちがいいです。題名に違わず、中身もあまり声高でなく、そのぶん読んでいるわたしも素直にうなずける話が多いように感じます。

ナースコール3回までなら白衣の天使。二〇回になると悪魔になってしまうんです。そしてののしるんです。「あの患者さんはね、我慢ということを知らないんだから。だいたいわがままよ。あの人さえいなけりゃ、今日の準夜は静かにいけたのに……」と。人間のやさしさというのは、冷静に考えるとどうもその程度なんですね。

ぼくはときどき思うんですね。自分が悪くも何ともないのに怒鳴られた時に耐えられる表情をする練習が医療者には必要じゃないかと。それは大きなサービスですよね。

限りなく自分を高めてホンモノの白衣の天使になろうとか、そういう気負いも嫌いではないのです。でも、『冷静に考えるとその程度』とある意味あきらめて、だからどうするか、と考えて、今の自分を劇的には変えることなく目的を達成するという姿勢も、あればずいぶん便利でしょうし、そのレベルの妥協が、自分も相手も救うというのは、決して少なくないように思うのです。

確かに「患者さんのためになることを何かしてあげたい」とは思っているけど、「わたし」を成長させるために医療や看護の場で働いている、そちらのほうがより本音ではないかと気がつくんです。成長したわたしに出会うために働いている、そう思うと急に肩の荷がおりていくように感じるんです。

いつもいつも「心から」でなくていい、いつもいつも「患者さんのため」でなくていい、でも行動は患者さんのためになるようにしようね、というのなら、心がけることができるかな、と思います。曽野綾子の「誰のために愛するか」にも、似たような言葉がありました。大好きな言葉です。

人を愛するって申しましても、そうそう心から愛せるときばかりじゃございません。そんなときでもまず、態度だけはその方のためになるように優しくいたします。そこから始まるのです。

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