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読書記録No.012(030808-030822)◆

半眼訥訥(高村薫、文春文庫、030822)

新聞や雑誌に書かれたさまざまな雑文を集めた本です。扱われている事象は多岐にわたります。なかでも面白かったのは、日本語についてのものでした。

「日本語が危ない。」最近、決まり文句のように繰り返して耳にします。それは、遠いエジプト王朝の時代から繰り返されてきたという「最近の若者は…」と同じ、ただ変化を嘆くだけの言葉なのでしょうか。わたし自身は、日本語が、本当に危ないと思っています。

例えば、『ださい』『うざい』『むかつく』。これらの言葉には、破壊力があります。有無をいわせぬ響きがあります。一方的断罪です。これらの言葉によって行われるのは、気分の共有のみです。語る、言葉を尽くすという雰囲気では、全然ありません。

ものを語るという行為は、言い換えると、自分が言葉で表現しようとする対象に向かって精一杯の執念をもって絡みつく行為だと思う。まずは何とかして相手に伝えたいという思いがあり、自分に可能な限りの言葉を重ねてみる。うまくいかなければ、さらに別の言葉で補ってみる。不器用だろうが拙かろうが、対象に絡みつこうとする言葉のダイナミックな運動が起こる。そうやって言葉が外に溢れ出していくとき、人はやっと、自分に向かって語られている言葉を受け止めるのだと思う。

そうやって語ろうとするとき、わたしたちはおそらく、自分の思いをより正確に伝える言葉を探します。『ださい』『うざい』『むかつく』という言葉、ひいては、『ださい』『うざい』『むかつく』で話が終わらせることができる雰囲気のなかでは、言葉を探す能力は、著しく衰えるでしょう。そして、言葉が探せなくなれば、考える力も、退化していくことでしょう。

とはいえ、言葉を尽くすことをなんとなく疎んじてきたのは、この、わたくしたち自身かもしれない。そうして言葉をいとも安易に変容させ、省略してきたことによって、毎日の暮らしの中で、自らのありようを把握する回路を失い、人に伝える回路を失い、立ちすくんでいるのである。

言葉を尽くして、語ること。それこそが、言葉を鍛える道なのでしょう。自分および他人に語りかける道具は、錆びさせないように持っていたいものだと思います。

やっと名医をつかまえた(下田治美、新潮文庫、030818)

未破裂脳動脈瘤を抱えた著者が、数名の「とんでもない」医者の手を逃れ、とうとう「名医」を探し当てて、手術を受けるまでの記録です。

数名の医者の、「とんでもない」エピソードが語られます。点滴を失敗しても謝りさえしない。「そんなこというなら帰れッ!」と患者さんをどなりつける。こんな仕打ちを受けながらも、このお医者さまは名医なのだから、医者の機嫌を損ねたらたいへんだから、と、著者ははその人たちの前で、平身低頭、けっしてさからいません。

しかししかし、ああ、ここは、医療現場という特殊な場所である。わたしにとっては、社会で唯一、わが精神性がころされることを甘受しなければならぬ場なのだ。その理不尽さに、黙然と忍耐し、この身をゆだねるしかないのだ。

怖いです。患者さんは、気に入らないことがあっても、言ってはくれないのですね。そういうわたしも、「つい」言いそびれそうな気がします。患者の立場なら。

ちょっと芝居がかっているのでは、と疑いながらも、でも、病気がみつかって弱気になっていて、まな板の上の鯉みたいな心境で、白衣を着た偉そうなひとを目の前にしていたら、そのくらい縮み上がるものかもしれないなあ、と思い直しました。

これに対して、著者がケーシーなる愛称で呼ぶ、名医はどうなのかというと;

「だって、もしぼくが患者だったらいやですよ。せっかく手術が成功したのに、そのうえまたアンギオをするなんて」
患者(わたし)はいま、世にもまれなことばを、医師の口から聞いた。

……あたりまえ、では、ないのでしょうね。医者になったら何かが変わってしまうのかなあ?そう考えてしまうのは、ちょっと弱気すぎるでしょうか。

一読して、感情の浮き沈みがやたらと激しいなあ、悪者の医者はけちょんけちょんで、ケーシーさんだけ燦然と輝くヒーローなのかあ、と、ちょっと釈然としない思いでいました。あぁでも、患者さんの受ける印象、治療中の幸せ度は、医者を信頼できるかどうかによって、ぜんぜん違ってくる、そんなものなのでしょう。

「ケーシー」になれそうな友人の顔は多々浮かぶのですけれど、さて、わたしは──?

私の嫌いな10の言葉(中島義道、新潮文庫、030818)

挙げられていた言葉は、以下のとおりです。

  1. 相手の気持ちを考えろよ!
  2. ひとりで生きてるんじゃないからな!
  3. おまえのためを思って言ってるんだぞ!
  4. もっと素直になれよ!
  5. 一度頭を下げれば済むことじゃないか!
  6. 謝れよ!
  7. 弁解するな!
  8. 胸に手をあててよく考えてみろ!
  9. みんなが厭な気分になるじゃないか!
  10. 自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!

少し毛色が違う10番目を除いて、とりあげられている言葉は、起源を同じくしています。発言者は、自分と相手が同じ考え、感じ方を共有していると仮定しています。そして、同じ考えをもともと持っていると仮定するがゆえに、話し合う必要をまったく認めていません。話し合いの形態がとられるとしても、それは、和解のポーズを内外に示すためだけに行われる、形式的なものであったり、「京都のぶぶ漬け」のような、儀礼と化した言葉であったりします。儀礼ですから、そのまま信じてはいけません。

言葉が力を持たず、その代わりに、雰囲気が場を支配します。雰囲気を読み取る敏感さが、要求されます。たまたま居合わせた全員が同じ考え方・感じ方をするならそれでいいのですけれど、もし、誰かひとりが異なる考え方・感じ方を持っていたとすると、分かりあう方法がありません。「みんな同じ」という仮定がまかり通っているために、「違ったらどうするか」という対策が、講じられていないからです。

確かに。結局、ずるいっていうかはっきりしろっていうか、って感じだよね──うなずきながら読んでいて、あぁでもそういえば、こういう言葉って、けっこう便利なんだよね、和は保ちたいし、と、思い返しました。なかなか厳しい道であります。

世界の中心で、愛をさけぶ(片山恭一、小学館、030817)

きれいな物語でした。ういういしい、という形容詞は、こういう話のためにあるのでしょう。

中学2年生で出会って、中学3年生で恋をはじめて、高校2年生で女の子=アキが白血病にかかり、そして死んでしまう、その一連の物語です。語り手である男の子の名前は、朔太郎といいます。

文化祭の劇だとか、ラジオのリクエストだとか、交換日記だとか、動物園だとか。わたし自身は経験したことのない風景ばかりですけれど、それでも、なんとなく、懐かしいような気持ちが呼び起こされます。いいですね、そういうの。進み方は、いわゆる大人の恋愛に比べて、ずいぶんと遅い、その遅さに、あこがれます。──いまさら、やってみることはできないだろうか、そう、ぼんやり思ってしまうくらいに。そんなことを願うのは、わたしが情緒的に幼いから、なのかもしれませんけれど。

いじわるな見方をすれば、恋のまっただなかでアキが死んでしまうからこそ、この物語は美しくあることができるのだといえるでしょう。アキと朔太郎が、元気なまま歳をとっていけば、途中でいろいろドロドロして、別れたかもしれません。そのまま結婚して、死ぬまで添い遂げたにしても、例えば60年も70年も一緒にいたら、目も当てられないような状況が、一度や二度は出てくるでしょう。

「実現したことを、人はすぐに忘れてしまう。ところが実現しなかったことを、わしらはいつまでも大切に胸のなかではぐくんでいく。夢とか憧れとか言われているものは、みんなそうしたものだ。人生の美しさというものは、実現しなかったことにたいする思いによって、担われているんじゃないだろうか。実現しなかったことは、ただ虚しく実現しなかったわけではない。美しさとして、本当はすでに実現しているんだよ。」

と、朔太郎の祖父は言います。素敵な方です。

アキが失われたからこそ、朔太郎はこの恋の物語を、大切に語るのでしょう。

そしてこの物語のいいところは、朔太郎がアキとの物語を抱いたまま、おそらくは次の恋に、踏み出していくところです。そうしないと、きっと悲劇になってしまうから。誰も幸せにならないから。それでも次へ、それでいいのだと、思いました。

あなたはもう幻想の女しか抱けない(速水由紀子、筑摩書房、030816)

必死に勉強して一流大学に合格し、狭き門をくぐって一流企業に入り、男以上に働いて、そしてやがて男の「会社幻想」にはついに実存をかけられない、あるいはかけさせてもらえない自分を見いだす。
そんな時、何に実存を預ければいいのか?

たとえば、女の子なんてものは清く正しくあるはずだ、あるいはあるべきだ。たとえば、男性並みにバリバリ働く女性は男性になんか興味がないはずだ。会社とはこんなものだ、家族とはこんなものだ、仕事とはこんなものだ、学校とは、女とは、男とは……そんな期待が、従来は有効に働いていました。ところが、そういう期待が、いま、ことごとく、単なる幻想に過ぎなかったと見破られつつあるようです。例えば援助交際。「少女」と呼ばれる年代の女の子だからといって、いまや、「清く正しく美しく」あらねばならないとか、あるのが当然だとかとは、いいにくくなっています。そして、当の「少女」たち本人も、別に「清く正しく美しく」あらねばならないとは、もう、思っていないでしょう。

もう、期待は幻想であるとうすうすみんな気付いているんでしょう、だったら、思い切って、幻想は捨て去ろうよ、幻想(あるいはそれに代わる嗜癖)に頼るのはやめようよ、というのが、この本の主張です。 「空洞化したアイデンティティ」と、著者は繰り返します。空洞化したアイデンティティというのはつまり、幻想なりモノ(酒とか売買春とか)なりに頼らなければ(=実存を預けなければ)、「生きてるって、いいよね」と思えないということです。

ということは、「今、ここ」を楽しむことができれば、幻想が打ち破られたところで、生活になんら支障は生じないわけです。未来に向けて現在を犠牲にする、というあり方でうまくやって行けるのは、いまよりもう少し安定した時代においてであるのでしょう。今は、将来に賭けようにも、いろいろな状況があまりにめまぐるしく変わっていってしまいますから、「将来のため」という考え方自体が、幻想へと容易に変化してしまいます。

初めて手に取った5年前、ずいぶんショックを受けた本です。いま読むと、うんうんそうだよね、という感じで、ずいぶん自然に感じられました。多少は成長したのでしょうか。

日本語のために(丸谷才一、新潮文庫、030812)

『国語教科書批判』が、とても気に入っています。

「教科書って何よ?」とくに、小学生のころ、疑問に思っていました。例文はやたらとわざとらしくて、まるで道徳の教科書のようでした。たまに楽しめる文章が出てきたと思ったらほんの一部の抜粋で、こんな切れ切れの文章を『学んで』一体どうするのだろうと、不思議でしかたがありませんでした。『文章を学ぶ』という行為の意味自体、結局よくわからなかったのですけれど。

教科書批判の要点は、教科書には日本人全員が日本語の手本として学ぶにふさわしい文章・詩を載せろということです。具体的に言うと、子どもの文章や詩、編集委員が書いたとおぼしき文章(すなわち駄文)は有害無益であること、漢字の配当表にしたがった変な表記は廃止すべきであること、などなど、です。

一体、作文教育の原理といふのは至つて簡単である。一流の名文をたくさん当てがへばそれでいい。優れた文章に数多く接すれば、おのづから文章の骨法が呑みこめるのだ。ところが今の日本の国語教育では、名文を読ませるのは二の次、三の次にして、子供の書いた大したことのない文章、およびそれに誰かが手を入れていつそう悪くした文章を読ませる。これでは文体の感覚が鈍磨するのは火を見るよりも明らかだらう。子供の文章などというものは、すこしくらゐ出来がよくたつて、何も教科書に入れて規範とする必要はない。そんなものはガリ版刷りの学級文集に収めればいいのである。

名文に数多く接することが国語の要点、これならわかります。そのための教科書なら、教科書は変わらなければならないはずです。今のままでは、名文がぜんぜん足りません。

昭和49年発行の本ですけれど、今でも立派に通用することでしょう。たとえ通用しないにしても、啖呵の切り方が素敵です。この本の魅力は、文体にありとさえ、思っています。

もっとも気に入った一節です。解説は省略で。

文章には序論、本論、結論があるということを示さうといふ気持以外には何の意欲もなしに書いたらしく、その結果、まつたく不要の序論、まつたく無用の結論がついてゐる。打割つたところを言へば、本論も削つてかまはないとわたしは見た。

知覚の呪縛─病理学的考察─(渡辺哲夫、ちくま学芸文庫、030811)

Sと、主治医である著者との対話の記録です。著者が、Sの世界を知ろうと、悪戦苦闘した記録でもあります。 Sは、分裂病(いまでいう統合失調症)の患者です。でも、この本に描かれている世界は、おそらく、S固有の世界です。Sは分裂病にかかっているということになっている、そして、この本はSの世界を記述している、しかしこれは、この本に描かれた世界が、分裂病にかかったといわれるすべての人の世界を記述しているということを意味しません。

『世界没落』という言葉が、たいへん重要です。世界没落とは、Sの知覚領域=見たり聞いたり触ったりできるものすべてが、「ワラ」に変化してしまうことです。「ワラ」はニセモノです。ホンモノにあるべき実感がありません。実感のあるホンモノは「オトチ」と呼ばれます。Sは行く先々で「ワラ」=ニセモノに取り囲まれています。そして、Sは、自分の手の届かないところに、「オトチ」=ホンモノがあることを確信しています。「オトチ」こそがおそらく、幻なのに。Sは「ワラ」の世界から脱出して、「オトチ」に帰りたいと望みます。歩き回ります。でも、いつまで経っても「オトチ」にはとどきません。

S自身もSが接触しうる限りの他人も、「ワラ」と化しています。ニセモノです。いないも同然です。死んだも同然です。S以外の人は、どこか別の場所(オトチ)に生きていることになっていますけれど、Sの知覚領域から出られないS自身は、「ワラ」のままです。他人から見ればSはそこにいるのに、SにとってはSはそこにいないのです。世界もニセモノ、自分もニセモノ、これが『世界没落』です。

世界を語ると一言で言うけれど、一人の人間の持つ世界を語るなんてことは、誰にとっても、ずいぶん荷の重い、骨の折れる仕事でありましょう。そんな途方もない仕事に、著者が取り組んでしまったのはつまり、訥々と語るSの世界に、彼が魅了されたからに他ならないと、わたしは想像しています。

この本は、『分裂病の研究』としてよりも、『ある人が他人の世界を理解しようと闘った記録』として、価値があるのかもしれません。言葉を探し、いらだち、口ごもっているような著者の姿が、なんだかいとしく感じられました。

ソラリスの陽のもとに(スタニスワフ・レム、ハヤカワ文庫、030810)

宇宙空間を飛んでいって惑星ソラリスに降り立つ、そんなシーンから始まるSFです。

主人公は、『私』=クリス・ケルビンと、惑星ソラリスです。惑星ソラリスの表面をおおう『海』が、主人公の片割れなのです。

『海』と言っても液体ではありません。海は、日々動いては、さまざまなかたちを作り出します。そして、『擬態』を示します。自分でさまざまな形を作り出すだけでなく、近くにあるもの──例えば人間が持ちこんだ宇宙船──の形を模倣します。そして、人の頭にもっとも強烈に残っている人物を、模倣します。

人を模倣する、というのはつまり、記憶に残っているその人を、目の前に出現させるということです。ケルビンの前には、彼が原因で自殺してしまった恋人、ハリーが現れます。そこにいるはずのない人が現れて、その人であるとしか思えない言動を取るのです。一部つじつまの合わない点がしばらくはありますけれど、じきにそれも解消されていきます。結局これは『海』によって送りこまれた『にせもの』なのだということさえ忘れられれば、いっしょに仲良く暮らして、将来の夢さえ語れるくらいに。『にせもの』であるという意識と、『ほんもの』なのではないかという期待の間で、狂ってしまいそうなくらいに。

そんなに上手に模倣を行う『海』は、人の頭の中の情報を、たいへん正確に読み取ることができます。でも、だからどうするというわけでは、全くありません。『海』が人間を理解しようとしたわけでもなければ、楽しませようとしたわけでもなく、困らせようとしたわけでもありません。まったくの断絶が、ここにあります。

人間の記憶は、多分子の不同時性結晶の上に核酸の言語で書きこまれた一種の絵なのだ。海はそのなかでもっとも病的な個所、もっとも深く秘められていて、もっとも完全に、もっとも深く刻み込まれているものを取り出したのだ。わかるかい?しかし、それがわれわれにとってどのような価値を持ち、どのような意味を持つかということは、海にとって、全然知る必要のないことだったのだ。

理解する/しないという議論さえ成り立ちません。たぶん、純粋な意味での別世界です。こういう事態を思いついた作者に、脱帽です。

OUT(桐野夏生、講談社、030809)

怖い話でした。こういう小説を読むと、転落のきっかけなんてそこかしこに転がっていて、今のところ落ちずに済んでいるのは、ひょっとして単にわたしがいまのところ幸運であるせいなのではないかと、思えてきます。「ノルウェイの森」の冒頭で直子が口にした、野井戸の話みたいに。

「でもそれじゃ危なくってしようがないだろう」と僕は言った。「どこかに深い井戸がある。でもそれがどこにあるかは誰も知らないなんてね。落っこっちゃったらどうしようもないじゃないか」
「どうしようもないでしょうね。ひゅうううう、ポン、それでおしまいだもの」
(村上春樹、ノルウェイの森)

◆◇◆◇◆

環境に負けてしまうのは結局、その人の弱さなのかもしれません。けれど、わたしだって、恵まれた環境の中にいることでかろうじていわゆる『普通の市民生活』を送ることができているだけかもしれないのです。実はそのへんに、野井戸が口をあけていないとは、わたしには言えません。

でも、同じような環境においても、ある人は転落し、ある人は転落しません。その違いを作るひとつの要因は、賢さ/愚かさの違いでしょう。追いつめられた状態において、賢くないということは、ひょっとしたらそれだけで罪になりうるのかもしれない、そう思います。少なくともこの作品では、愚かなものは救われません。愚かさがまったく容赦なく描かれていて、見ていて苛立つほどです。そんなに苛立つのは、わたしが少なくともその片鱗を有しているから、なのでしょうか。

じゃあその賢さ/愚かさというのは、何なのでしょう。結局は自分と周りが見えているかどうかということに帰着する、そんなふうに今のわたしは感じています。自分を律することも、機先を制することも、すべては『見えているかどうか』に帰着する、そんなふうに思います。

◆◇◆◇◆

ぼやぼやと日々を過ごしている自分をふりかえって、少し背筋が寒くなりました。急に『自分も、こんなことではいけない』と思えてきました。あわてて部屋を片付けて、日課にしているERのビデオを観て、明日以降の計画を立てました。

グロテスク(桐野夏生、文芸春秋、030808)

あなたもあたしも同じ。和恵さんも同じ。皆で虚しいことに心を囚われていたのよ。他人からどう見られるかってこと。あたしもあなたも和恵さんも、マインドコントロールされていたのかもしれないわね。

久しぶりに、「この作者、凄い!」と感心しました。

◆◇◆◇◆

女性は、男性によって、また、女性たち自身によって、序列をつけられる存在であるというのが、この小説の前提です。序列とは、商品価値の高い低いであると言いかえても、いいでしょう。そして、そうして序列をつけ、つけられていくさまが、そこまで書いてくれなくていいですというほど克明に、描かれています。

序列とは─例えば容姿、成績、育ちのよさ、仕事、経済力、子どもの成績。なんでもかまいません。それぞれの人がそれぞれの尺度を採用していて、その尺度によって、自分と他人を測ります。わたしより彼女は美人、でも、わたしのほうがいい会社に入ってやりがいのある仕事をしているもの、などなど…

そしてその序列が持つ意味を突き詰めると、行き着く先は『他人に認められるか否か』ということになります。認められるとは賞賛されることでもあります。彼女たちは賞賛を求め、賞賛が期待できる場所に身を置き、努力し、あるいははなから『要らない』と、超越のポーズをとります。能力の面で認められたいなら勉強か仕事をがんばることになります。女としての魅力で認められたいなら、外見を磨くことになりましょうか。

そして、自分の商品価値をもっとも手っ取り早い手段は、娼婦になることです。自分を商品そのものとして、売り出してしまうのです。自分を、金を払って、買ってくれる人がいる、そのことによって、自分に商品価値があると、確かめるのです。

◆◇◆◇◆

商品価値で競うというのは、自分の価値を商品レベル=モノのレベルに、落としてしまうことなのかもしれません。

「この世でどうして女だけがうまく生きられないのか、わからないわ」
「簡単よ。妄想を持てないから」

妄想とは、ひょっとして「かけがえのなさ」みたいな確信のことなのでしょうか。


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