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読書記録No.011(030517-030805)◆

冷静と情熱のあいだ(辻仁成・江國 香織、角川文庫、030805)

この小説は、順正とあおいの恋物語、ということになっています。1990年に約束をして、1992年に別れ、そして、2000年に、約束どおり再会を果たす物語ですから。でも、わたしにとって、本筋のその恋愛よりも気になるのは、順正と芽実、あおいとマーヴの、それぞれの恋物語なのでした。2000年に再会を果たすために、切り捨てられてしまう恋物語です。

自分が誰か─仮にAとしましょう─と、巷で言う「つきあっている」状態だとします。自分はAのことを、好きでたまらない。自分の人生で必要な人とはAに他ならないと確信している。以後の人生もAと生きていこうと、計画を立てている。そう、仮定しましょう。そんなAに、忘れられない人がいるというのは、どのようなものなのでしょうか。目の前にいるのは自分なのに、Aが見ているのは自分ではない。。そんな状況には耐えられないと、Aを放り出す、きっとそれが、お互いにとって一番いいでしょう。でも、できないってことも、きっとあるのだろうと思うのです。

そしてそんな状況は、Aにとっても、そんなに幸せなものではないはずです。相手から離れるのがいちばんいいのかもしれない、でも、そんなに簡単にはいかないし、忘れられない相手と、やり直せる勝算はない。いまの相手となら、幸せになれると思ったんだ、はじめは。──とてもひどい話に聞こえるけれど、たぶん、A自身にもどうしようもないのでしょう。きっと。

愛されるということは愛するということの十分条件ではないのかもしれません。愛されているからと言って、同じように自分も相手のことを愛せるとは限らない。どちらにとっても、ずいぶんと、残酷な話であるように思います。そこまでひっくるめて相手を受け容れるとか、それを理解して身を引くとか、そういう「美しい」選択をするにしても、ずいぶんとつらい話です。

しんどいですね、と書いたけれど、結局、だからどうしたらいいという案があるわけではありません。怒ったところで、どうしようもありませんし。他人の気持ちも、場合によっては自分の気持ちも、変えることはできないからなあと、ため息をひとつつきました。

愛しすぎる女たち(ロビン・ノーウッド、中公文庫、030714)

愛することが苦痛をともなう時、私たちは愛しすぎているのである。

こんな書き出しで、この本は始まります。

愛しすぎるとは、つまり、自分を犠牲にして尽くしてしまうことです。相手にそれだけの価値がないにもかかわらず、また、相手は奪うばかりで決して返すことがないにもかかわらず、です。反面、誠実な男性には、ちっとも心が動きません。相手が変わり、理想の王子様に変身することを待ち望みながら、実際に相手が誠実に変わり始めると、落ち着かなくなって、自分から離れて行ってしまいます。どうしてそうなるかといえば、そういう相手を選んでいるからで、どうしてそのような相手を選んでしまうかといえば、そのような関係しか、経験したことがないからです。無意識のうちに、これまで慣れ親しんだパターンを繰り返せる相手を選んでしまっているのです。この本には、そういう「愛しすぎる」女性が、数多く登場します。彼女たちのエピソードが、本の三分の二を占めています。

たぶん、「愛しすぎる女たち」が抱える問題は、AC(アダルトチルドレン)や共依存について、あちこちで語られているものと、本質的には同じです。一種の依存状態なのですね。「必要とされている」ことに依存してしまっています。この本の後半では、アルコール依存症との比較において、「愛しすぎ中毒」が語られます。

で、どうすればいいのか、というと──相手の問題に手出しするのを止めて、そうすることで余ったエネルギーを全部自分のために使い、自分に価値があると認めること、と、まとめることができるでしょうか。自分に価値があると認めれば、正直になることができます。正直になった自分が受け入れられれば、それはとても安心できる経験となるでしょう。いつまでもとりつくろっているわけには、いきませんから。

「トルウディ。あなたとハルが築いた親密な関係、そしてこれから築き上げるものに対して、あなたは『バージン』なのよ。すべて新しいことなの。だから恐れているのよ。」

そのような関係しか経験したことがないから、愛しすぎるのだと書きました。ならば、そうでない関係は、改めて学ばなければなりません。でも、そういう関係を学んでいけるというのは、なかなか素敵なことだと思います。

自分を知るための哲学入門(竹田青嗣、ちくま学芸文庫、030710)

「哲学する」という言葉があるが、哲学の本質(本性)は、まさしく「哲学する」ことにあって、「哲学」を知るところにはない。

哲学とは、根本的なものと呼ばれる問題(典型的には、「この世界はいったいどのような原理のもとに動いているのか」など)に取り付かれてしまったひとが、自分および他人を納得させられるような答えを求めて一生懸命考えたその経過および結果を指すものだと、わたしは考えています。で、「哲学」を知るというのは、その経過および結果を、知識として知るということです。そして、「哲学する」というのは、哲学者が一生懸命考えたその道筋をモデルにして、わたしたちが日々否応なしに出会ってしまうさまざまな問題を、日頃漠然と考えているのとは違う方法で、(違うがゆえに)ちょっと苦労して考えてみること、でしょう。

この本で扱われているのは主にフッサールの現象学です。この本に書かれている「現象学」の主張とは、つまり、こういうことです;

それまでの「真理」概念では、「ほんとう」や「正しさ」は必ず主観を越えてそれ自体として存在するものだった。だからこの「ほんとう」はなんらかの方法で発見されるべきものだった。ところがフッサール的見方では、「ほんとう」はただ、人間どうしの関係の中で、相互の確信の一致としてだけ作り出されるものなのである。

そう考えると、「何が本当かわからない」というのはまことにあたりまえの話になります。自分ひとりで持っている間は、おそらくやむにやまれぬ事情があってひとりでに立ちのぼってくる抗いがたい確信なのでしょうけれど、それでも、それは自分だけの主観に過ぎません。他人とぶつかって、どうしたらお互い納得できるか一緒に考えて、それによって、自分とその人との間に、自分とその人との「ほんとう」が現れてくるのです。一人でじっと考え込むことだけが哲学というわけではないのですね。

何がほんとうかという、果てしなさすぎてうんざりするような、でも気になって仕方がない疑問から、少し解き放たれた気がします。そして、哲学というのは一人の世界に落ち込んでいくことではないという発見は、なんだかとても意義深いと感じています。

まなざしの記憶(鷲田清一、ブリタニカ出版、030707)

会話で心に残るのが会話の内容だけではないように、本で心に残るのも、書いてある内容だけではないように感じます。わたしは、鷲田清一の語り口が、気に入っています。

「美しい身体」とはどんな身体のことをいうのだろう。
いろいろ考えあぐねて、ぼくは、「美しい身体」というのはとびきりのとき以外は口にしてはいけない言葉だとおもうようになった。とびきり美しいひとを前にしたとき、という意味ではない。それは、だれかとのある希有な関係、もしくは出来事のなかでしか、口にできないはずだということだ。

─はじめのエッセイ、「あなたはうつくしい」の出だしです。たったこれだけでも、このひとの文章だとわかります。こうして写してみると、言葉の選び方、漢字とかなの使い分けが、語り口を作っているのかな、と思えてきます。「ひと」や「おもう」をひらがなで書くのは、あまり見かけません。そして、「とびきり」「考えあぐねる」なんて言葉は、知ってはいますけれど、最後に見かけたのはいつだろうという感じです。あぁそんな言葉もあったなあと、目がぱちぱちしました。

声が聞こえないから、話す速さも、声の調子もわかりません。それなのに、頭の中では、思索という行為につりあった、落ち着いた声が響いています。その声が語りかけるのを聴くようにして、わたしは文章をたどるのです。

上に挙げた、「あなたはうつくしい」の続きです;

ひととひととのかけがえのない関係というのは、比較を超えている。たがいに二人称の中で相手をとらえるということだ。相手がじぶんにとってかけがえのないひとであると確信したとき、そのひとの「美」をひとはもはや三人称で語ることをしなくなる。
「あなたはうつくしい。」
それだけが、「美」をめぐるまことの語り口となる。

こういうことを考えようと考えつくこと自体が、ずいぶんと繊細であり、敏感なのだと思います。そして、こういう、「他人を尊重すること」への敏感さが、しずかな語り口とあいまって、すなおにわたしの中にしみとおっていくのです。

天上の青(曾野綾子、毎日新聞社、030628)

主人公の一人である富士夫は、連続殺人犯人です。しかし、彼だって、心の中のすべてが単なる悪で塗りつぶされているわけではありません。正義感を抱くこともあります。義憤を抱くこともあります。人の命を救ったこともあります。もう一人の主人公である雪子に、心を開いて話をすることもあります。

雪子と富士夫は、題名になっている『天上の青』という朝顔がきっかけで、知り合いました。富士夫が、雪子の家の朝顔に目を止めて、声をかけたのが、始まりでした。それ以降、富士夫は、雪子に心を開いていきます。他の女性は、性欲の対象としてしか見ることができないというのに。

雪子にあって他の人になかったものは、敬意かもしれません。

「わたしは昔母から、人を見てものを言うな、って教わったんです。職業や社会的地位をすぐ計算して、偉い方には丁寧な口をきいて、そうでない人には見下げたような言葉遣いをするほど、浅ましいことはない、って骨の髄まで覚えこまされたんです。」

敬意のこもった扱いを受ければ、そしてそれに気づくことができれば、誠意をもって応えてしまうものなのかもしれません。少なくとも富士夫は、弱かったにせよ、敬意を感じ取る力は持っていた、ということになるでしょうか。

もちろん、あの方の心の中は誰にもほんとうにはわかりません。世間は他人の心をわかると思い過ぎます。わからないという恐れがなさすぎます。
雪子は、富士夫の心がわからないということを率直に認め、そのわからなさに打ち負かされることなく、彼が訪ねた時にそこに居ること、を、続けました。

私は深い悲しみを込めてあの方の不思議な存在の前に頭を垂れつづけていました。あの方は何のためにこの世に生まれてこられたのでしょう。人を殺すためだけに生まれてきたような人が、この世で何らかの任務を持っていたなどとは誰も考えないものなのです。けれど彼がああいう人だからこそ、神の愛の対象になることを、私は知らされておりました。

雪子にさわやかな印象を感じるのは、この、『頭を垂れる』姿勢のためかもしれません。それは─なんとなく、ですけれど、愛といわれているものに、近いように感じます。

ノンちゃんの冒険(柴田翔、新潮文庫、030625)

この小説の主人公であるノンちゃんの名前は、石井桃子『ノンちゃん雲に乗る』に由来しています。

ノンちゃんは、やはり、呑気なノンちゃんの呼び名にふさわしく、池に落ちながらでも、ついつい雲の上に乗ることを夢想してしまう傾きがある。あるいは、誰かが、お話のなかのノンちゃんの白いおひげの神様のように、池に真逆様に落ちていくノンちゃんをひょいとすくいあげて雲の上にのせてくれるのを期待してしまう癖がある。

彼女は、ものごとを『できるだけむずかしく』考えてしまう『中年のおじさまたち』とは、おそらく対極に位置しています。甘い、と、言ってもいいでしょう。要するにバカ、なのかもしれませんけれど、どこかほっとけないような、勝てそうもないような、そんな感じがします。もうちょっと計算して動けば、トラブルに巻き込まれずに、『うまく』生きていけたかもしれないのに、と、見ていてちょっといらいらしたりもします。

トラブルというのは─ものすごくあからさまに言うと、恋人(らしきもの)である哲学君に振られたこと、そして、振られた時にはすでに、哲学君の子供を、みごもっていて、そして彼女はついに、未婚の母になった、ということです。そして彼女は、その一連のできごとを、肯定、なんていう難しい言葉を使わないまま、肯定しています。その彼女の姿は、周りの男性たちが、多くの言葉を費やして、やっとこれでいいの、かな、くらいの境地に達しかけているのと、対照をなしています。おじさんたちが遠回りに遠回りを重ねて、でもたどりついていないかもしれない境地に、彼女ははじめから、立っているのです。

「世界を好きになれるためには、自分を忘れなければなりません。自分を好きだったり、嫌いだったりしている時は、あなたは世界を見ないでいるのです」

こんなセリフが、小説の中に出てきます。この言葉はノンちゃんに対して言われたことではないけれど、ノンちゃんのことを指した言葉のように思えます。ノンちゃんは、物事をむつかしく考えすぎてしまう、『中年のおじさまたち』、そしてわたしの抱く、ある種の理想像なのかもしれません。そうなれるわけはないしそうなりたいわけでも必ずしもないのだけれど、なんとなくあこがれてしまう、という。

永遠の仔(天童荒太、幻冬社、030625)

この小説で一番わたしの心に残ったのは、奈緒子でした。奈緒子は、主人公の一人である梁平の恋人です。

奈緒子は梁平のことを想っているけれど、そして傍目には恋人同士であるけれど、梁平の心の中には、十八年間ずっと想いつづけた女性がいます。彼が12歳の頃過ごした小児病院で出会った、優希です。梁平が、優希の名前を寝言で呼びつづけていると、奈緒子は指摘します。たぶんそれは、ものすごくつらいはずです。

病院で過ごした12歳の頃は、彼にとって、また、優希にとって、そして、もう一人ともに過ごした仲間、笙一郎にとって、特別でした。その頃から梁平と笙一郎は、優希のことが好きでした。でもどちらも、自分には資格がないと、相手にこそ資格があると、譲り合い、結局何もしませんでした。そして、遂げられなかった思いは、おそらくは、遂げられなかったぶんより強固に、梁平と笙一郎の中に、残っています。

「代わりなんて、いやですよ」

奈緒子は言います。当然です。でも、代わりにするくらいなら自分の前から消えてくれなんて、きっと彼女は言えない。嫌いになれたらいいのだろうけれど、それが、できない。出会わなければよかったと思っても、すでに出会ってしまっていて、その事実は消せない。優希を憎もうと想っても、憎まれるようなことを、優希がしたわけではありません。実際、優希の心は、梁平のもとにはありません。

遂げられない想い、残ってしまう想いについて、考えていました。わたしだったら、どうするかなと。残している想いごと相手を受け止めるなんてことが、できるでしょうか?

「もうひとつわかってることは、わたしは、その支えにはなれないってこと。支えとして、あなたが求めているのは、優希さんって人」

奈緒子が身を引いたからって、だからといって梁平が、優希と一緒になれるわけではありません。何がどうなったら、彼らは幸せになれるのでしょうか。

この件は、この小説において、ハッピーエンドとは決して言えない結末を迎えます。わたしには、どうしたらよかったのか、いまだにわかりません。

ノルウェイの森(村上春樹、講談社文庫、030623)

もっとも気に入っている一節を、以下に紹介します。

「私が求めているのは単なるわがままなのよ。完璧なわがまま。例えば今私があなたに向かって苺のショート・ケーキが食べたいって言うわね、するとあなたは何もかも放り出して走ってそれを買いに行くのよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて『はいミドリ、苺のショート・ケーキだよ』ってさしだすでしょ。すると私は『ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃったわよ』って言ってそれを窓からぽいと放り投げるの。私が求めているのはそういうものなの」
「私は相手の男のひとにこう言ってほしいのよ。『わかったよ、ミドリ。僕がわるかった。君が苺のショート・ケーキを食べたくなくなることくらい推察するべきだった。僕はロバのウンコみたいに馬鹿で無神経だった。おわびにもう一度何かべつのものを買いに行ってきてあげよう。何がいい?チョコレート・ムース、それともチーズ・ケーキ?』」
「するとどうなる?」
「私、そうしてもらったぶんきちんと相手を愛するの」

「女の子にはね、そういうのがものすごく大切な時があるのよ」と言うミドリに、賛成の意を伝えたい。もうわたしは、『女の子』ではないかもしれませんけれど。

◆◇◆◇◆

このエピソードに限らず、ミドリはとても正直で、と書きかけて、この小説に出てくる登場人物が、皆正直であることに、思い至りました。ウソをつくかもしれないのですけれど、それでも、ウソをついたということは自覚していて、実のところ自分はどのように感じているか、隅々まできちんと把握しています。「…と思わなければならない、…と思うのが当然だと思うけれど、そうは思えない、こう感じてしまうんだ」そんな意味の記述が、散見されます。上に挙げた「わがまま」も、そうですよね。普通、こんなことは、言ってはならないとされています。そんな欲求を持つなんてとんでもないと自分でも思っていて、それゆえに、明確に意識しないように、なかったことにしてしまっているように思います。

この小説がまっすぐ心に入ってくるのは、登場人物の述懐が正直で詳細で、それゆえにわたしの気持ちと、細かいところでいちいち共鳴を起こすから、かもしれません。

犯罪報道の犯罪(浅野健一、講談社文庫、030621)

この二つの記事を見て私は、現在犯罪記事を担当しているマスコミ記者は”ペンを持ったおまわりさん”ではないか、と考える。ロス疑惑では、警察はまだ貿易商を調べてもいないから、マスコミ記者は”ペンを持った私立探偵”かもしれない。
三〇年前後の年月を経て無実の晴れた三人は逮捕された当時、マスコミに犯人と断定されている。逮捕時点の”ペンを持ったおまわりさん”は、被疑者が起訴されると”ペンを持った検察官”になる。たまに被告や弁護団の言い分も載ることがあるが、スペースも小さく公平な扱いとはとてもいえない。
そして判決があると、今度は”ペンを持った裁判官”だ。有罪判決のときはそれまでの延長だが、無罪(再審開始決定を含む)になると大変だ。警察・検察への激しい批判が始まる。無罪が確定すると”ペンを持った弁護団長”あるいは”ペンを持った救援会代表”に変身する。
これが「客観的で公正な犯罪報道」の実態である。犯罪報道での”ペンを持ったジャーナリスト”は一体どこにいるのだろうか。

この文章、あまりに気に入ったので書き写してしまいました。

この本で訴えてあるのは、匿名報道の重要性です。逮捕されたただけで、犯人の実名が報道されてしまいます。冤罪だったら、マスコミは、いかに捜査が杜撰だったかを書きたてます。しかし、冤罪の被害者を犯人と決めつけて大騒ぎして、傷口を広げたのも、やはりマスコミなのでした。

じゃあ、冤罪じゃなかったら何を報道してもいいのか。きっと違いますよね。犯した罪によって、刑は決まっています。その上に重ねて、マスコミが罰を与えることは、本当は許されないはずだと、わたしは思います。

本当に、犯人の名前や所属が重要な事件というのは、実はとても少ないのではないのでしょうか。たいていの犯罪においては、当事者及びその周りの人に多大なダメージを与えてまで個人情報を公開する必要は、どこにもないと思っています。

書かれたのは20年以上前です。でも未だに、通用して「しまう」内容です。

医療ミス─娘の命を奪われた母親の闘い─(久能恒子、文園社、030517)

このままいけばわたしは、3年後から、数十年という年月を医者として過ごすでしょう。その数十年の間に、一度もミスをしないなんていうことは、残念ながら予言できません。ミスをして、正直に認めるのも、しんどいなあ、と思います。正直なところ不安です。「だって百パーセントなんてありえないから」と、開き直りたくなります。自分が被害者だったら、と考えるとき、いつの間にか医者寄りの考えに染まっている自分に驚きます。

医療ミスの報道では、しばしば、『心ない医師』といったたぐいの表現を目にします。ならば、反対に、心ある医師とはどんな医師なのか。『このようなことを繰り返さないために』と被害者の方々が訴訟に踏み切る、ならば、『繰り返さない』ための教訓とは何なのか。そんなことが気になって、このところ医療過誤についての本を数冊読みました。

著者の久能氏は、小児科医です。娘さんを、ほとんど死ぬ可能性のない病気の治療において、失いました。

そもそも私自身の訴訟は、手術ミスが要因となっています。しかし、私は手術の執刀医ではなく、集中治療室で娘のケアを担当した医師と、その管理者である病院を相手どって訴訟を起こしました。
手術での過ちそのものよりも、その過ちを隠し、さらにミスを重ねて、それを死にいたる重大な事態にまでいたらしめた、医師の非情な人間性、心ない行為に対しての怒りが起爆剤でした。信じがたい頭部の褥瘡、院内感染、さらに後手後手にまわる処置……しかも医師は、それらをなに一つミスとして認めようとせずに、私たち家族の願いを無視し、傲慢な態度で自己保身を図るばかりだったのです。

ミスは認めようよ、と、著者は呼びかけます。率直に認めて糧にしていけ、と。まず常識が必要だ、とも説きます。医師の人間性が問われているのだ、とも。

そのとおりです。でもはたして、そのとおりにやっていけるのだろうか、と、どきどきします。でも、なんとかやっていくしかないのでしょう。

抽象的なことは言うまいと思っているのです。でも、じゃあどうする、という、単なる心がけを超えた具体的な方策は、わたしにはまだ、語ることができません。


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