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読書記録No.010(030217-030512)◆

女はなぜやせようとするのか(浅野千恵、勁草書房、030512)

若い女性が美しくなりたいと願い、ダイエットを試みるのは、健康なことであるといわれます。そのなかで、一部の女性は摂食障害を発症します。それは─巷によくある『えらい先生』の解説では─ダイエットの方法が間違っているから、あるいは、その女性の内面に、決定的な問題があるからだ、とされています。いずれにせよ、摂食障害を起こしたやつが悪い、と言っているように、わたしには、聞こえます。

著者は、そういう、『えらい先生』の言い分に、反論します。摂食障害とダイエットの境界線はじつはあいまいなのではないか。『健康な女性なら誰でもダイエットに挑戦するのはあたりまえ』になってしまうのは、社会が女性に、身体と健康にこだわるようにしむけているからではないか。

摂食障害の存在は今では広く知れ渡っていて、摂食障害を扱った記事にはしばしば、「人は外見じゃない」と書いてあります。それは確かにそうだと思います。摂食障害の真っ只中にいた時ですら、そう思っていました。でも、だから摂食障害から抜け出せるかというと、わたし自身は抜け出せませんでした。そういうつまらないこだわりを捨てられない自分を責めるからますます日々がしんどくなる、それだけでした。

だって、実際のところ、やせるといいことがあるのですから。現実問題、美人は得です。やせると着られる洋服が増え、女性として認められる機会が増えることを意味します。そして、やせると、(よほど病的でない限りは)きれいになったと、ほめられます。

摂食障害について、啓蒙が進むのはいいことでしょう。でも、そういう記事によって、一部の人たちが過激なダイエット法─例えば吐くなど─を学習している可能性は否定できません。ここまでする人もいるんだ、わたしももうちょっと、と思ってしまう人もいるはずです。わたしが、そうでしたから。そして前述のように、健康で賢い女性は摂食障害になど陥らないのです。そう言われたら、ますますハードな自己管理をしなければなりません。

摂食障害というものが社会の中で追い詰められて、個人の責任ということにされてしまって、本人が余計にしんどくなっている、そのメカニズムの説明として、この本はずいぶん有用だと思います。

カウンセリング(ロージャス全集第2巻、岩崎学術出版社、030429)

(ロジャースのカウンセリング理論=クライアント中心療法のまとめです)

人は自分について、「自分は○○である」という、定義をもっています。これを、自己構造といいます。

この自己構造に当てはまらない経験は、忘れ去られる傾向にあります。本人が意識しなくとも、です。また、この自己構造に非常によく当てはまる知識は、自分の経験であると勘違いされる傾向にあります。

自己構造と現実が食い違っていると、あったことはなかったことになり、なかったことはあったことになってしまいます。現実をゆがめて受け取るのです。これは、しんどい。ゆがめること、押し込めること、目をそらすこと、すべて余分なエネルギーを要求します。「出てくると都合の悪い」事情が増えるために、ひとは、防衛的になります。

ならば、現実に当てはまっていない自己構造にこだわらずに、現実を見ればいい。しかし、自己構造を組みかえるのには、恐怖が伴います。そもそも自己構造が作られたのが、恐怖を何とかして抑えるためであったからです。直視しては生存に支障が出そうな事実があって、その事実から自分を切り離すために作られたのが、自己構造であるからです。

カウンセリングでは、まず、クライアント(カウンセリングを受ける人)が感情その他もろもろを表現するのを、すべて受容します。これによってクライアントは安心します。自己構造に反する感情その他を自覚・表現しても、安全であるかもしれないと期待します。

そうして、「ここなら安全だ」と確信したクライアントは、自己構造に当てはまらないけれど実はあったこと、当てはまるけれど実はなかったこと、を、思い出し始めます。うすうすは知っていたことを、意識に上らせるのです。

そうすると、今度は、自己構造が変わります。新たに意識に上った事実を含んだ形の、もっと大きくて広いものに変わるのです。そうすると、「出てくると都合の悪い」事情が減って、クライアントは、より自由に、気楽に生きられるようになります。また、判断の根拠として使える事実が増えますから、より適切な判断ができるようになると期待されます。

人は、安心さえすれば、よい方向に進むものだという、信頼を基礎とする理論です。

死ぬ瞬間(キュープラー・ロス、中公文庫、030428)

機械や血圧に関心を集中するのは、差し迫った死を認めまいとする私たちの必死の試みなのではなかろうか。

どきっとしました。

医療において、死は敗北とされています。患者さんが死ぬなんて、考えることすら許されない、という雰囲気が、ないわけではない、そう思います。その背景には、死が怖い、考えることすら怖い、という意識があります。

でも現実として人は死んでいきます。自分が近い将来、確実に死ぬという現実に、向き合わねばならない人がいます。そのとき、医者あるいは医療スタッフが、いや、死ぬなんてとんでもない、と、自分に言い聞かせつづけ、現実から目をそらしつづけたら、その患者さんのそばにいることが、とてもむつかしくなってしまうでしょう。意味がないとわかっている検査や治療を、繰り返したくなるかもしれません。

でも─みんな逃げてしまったら、きっと患者さんは、さみしいですよね。

末期患者には非常に特別な要求がある。それは、私たちが座って耳を傾け、それが何なのかをはっきりさせれば満たされる。おそらく最も重要なのは、こちらにはいつでも患者の不安を聞く用意があると伝えることだろう。死を迎える患者と向き合うには、経験からしか生まれないある種の成熟が要求される。不安のない落ち着いた心で末期患者の傍らに座るためには、死と死の過程に対する自らの姿勢をよく考えなくてはならない。

死の過程─否認・怒り・取引・抑欝・受容、ですね。この説は、この本が、初出なのでしょうか。これは、死だけでなく、悪い知らせを受けたときの反応として、敷衍が可能なのではないかと感じています。起こるであろう変化の、大まかな形を知っておくことは、いま目の前で起こっている事態に落ち着いて対処するために役立つでしょう。

しかし、この本は、死の過程というモデルを提示しているだけではありません。その過程が、行きつ戻りつ、流動的・個別的であることを、丁寧に示しています。その丁寧さが、これが名著とされるゆえんなのかな、と思います。

実際に患者さんを看取る立場になったころ、もう一度読みたい本です。

聖の青春(大崎善生、講談社 030420)

この本で描かれている村山聖(むらやまさとし)は、プロ棋士でした。5歳でネフローゼ症候群にかかり、29歳で、膀胱癌のため亡くなりました。

腎臓内科・泌尿器科のチュートリアルで、彼に似た症例が取り上げられました。彼がモデルであったかもしれません。わたしは、その症例について、症状が出るメカニズムや考えられる治療法、病気の進行のストーリーを、調べてまとめました。よって、ある程度、「症例」としての知識は持った上で、この本を読んだ、そう言っていいでしょう。

症例として扱うならば、一枚の紙に、症例として必要な情報はすべて記載されえます。子供のころネフローゼ症候群にかかり、その後、若くして膀胱癌を発症した症例、それだけで「症例」としての話は終わってしまいます。

でもそれだけじゃない、いや、症例としてのストーリーは人生のほんの一側面でしかない、あたりまえのことです。でも、そのあたりまえのことを、時として忘れそうになります。わたしが扱うものが「病気」であることはおそらく仕方がないのです。それは仕方がないけれど、それが、そのひとの人生の、一面でしかないことを、常に意識していたいと思いました。そんなあたりまえのことを、いまさら確認しなければならない自分自身というものへの、悔しさも含めて。

わたしは大きな病気をしたことがありません。それは医者という仕事を選ぶ上で、ずいぶんなハンディだと、感じることがあります。たぶん、人一倍気をつけていないと、自動的に想像なんてできないのです。そもそも知らないことが、あまりに多いのです。病気のしんどさも、病気と付き合うということのめんどくささも、「予後がいい」とされる病気の中での病状の多様さも、そして、病気を持つひとの、病気とかかわりのない生活、そして、ひょっとしたら健康なひと以上かもしれない、世界の豊かさも。

わたしはこれから、医学の知識をどんどん増やすでしょう。でも、それでもきっと、わたしの知らない世界はあまりに広大なのです。わたしは限られたことしか知ることができません。ならばせめて、知らないということを自覚して、わたしの知らない世界を、目の前のひとが持っているいう想定のもとに、行動しようと思っています。

百年の孤独(ガルシア・マルケス、新潮社、030404)

マコンドという未開の土地にある夫婦が住み着いて、ブエンディーア家を構成し、家系が栄え、住みついた土地も町として栄え、家系と町が衰退し、ついに、その家系最後の者が町とともに消え去ってしまう、その一部始終を描いた、物語です。

最後の二人の間に子供が生まれたとき、

この百年、愛によって生を授かった者はこれが初めてだったので、
と書いてありました。これまでもたくさんの子供が産まれているのに、まさか、と思って書き出してみるとその通りで、それまでに産まれた子供たちはすべて、両親が愛し合っていたという記述のないところに、産まれてきていたのでした。愛し合っているらしきところはそもそも結ばれないあるいは少なくとも片方が早いうちに死んでしまっています。

いろいろ錯綜しながらもおよそ(!)6代にわたって、歴史は語られます。進行を見守るのが、初代アルカディオの妻ウルスラと、同時期にマコンドに住みついた女性ビラル・テルネーラです。この二人が、ブエンディーア家全員の、母親の役をになっているように見えます。登場人物はほとんど、彼女たちの片方あるいは両方の、血をひいており、多かれ少なかれ、彼女たちから、母親としての愛情を注がれます。そして、彼女たちがほぼ同時期に死んでしまったその直後から、ブエンディーア家の崩壊が本格的に始まります。

もう一人進行を見守るものがいます。錬金術に精通したジプシー、マルキアデスです。死んだあとも何度も登場し、ブエンディーア家の運命を予言します。そういえばウルスラも、トランプ占いに精通していました。

この物語で語られる間、ブエンディーア家に生まれる者の名前は、男女それぞれ二種類ずつしかありません。男がアウレリャーノとアルカディオ、女がレメディオスとウルスラです。名前ごとに、性格とたどる運命が似通っていて、名前自体が物語の中で何度も出てくること、そして適宜予言が行われることとあいまって、話が、進んでいるにもかかわらずぐるぐるまわっているような、不思議な感じがします。ぐるぐる回っていろいろな不思議なことを含みながらもそれなりに閉じた世界を構築して、それがさらさらと崩れ落ちていくさまは、なんだかとても、さみしいような怖いような気がしました。

三島由紀夫論(岸田秀、「続ものぐさ精神分析」中公文庫所収、030327)

三島由紀夫の精神ははじめから死んでいた。この現実の世界に生きているという実在感の欠如に、彼の文学、その他の活動を解く鍵がある。

という文章で始まる、怖いレポートです。

三島由紀夫は、自分が何をしたいのか、何を望んでいるのか、分かりませんでした。 だからこそ、彼は、律儀に、規則正しく生活せざるを得ませんでした。「したいようにする」ということが、どうやってもできないわけですから、自分の行動に枠をはめて、その枠に沿って生活しないことには、おそらく、何もできなかったのです。

そして、自分が何をしたいのか分からないということは、自分が存在しているという実感が薄いことと同義であり、そのことと、存在感のある筋肉をつけるボディービルは、おそらく深い関係があるものと考えられます。 そして、彼は、書かざるを得ませんでした。書くことで、隅々まで目の届く自分の世界を作り、その中に住んでいました。書かなければ、彼はおそらく発狂してしまったでしょう。自分の生活の軸となるべき、自分の望みがわからないわけですから。

◆◇◆◇◆

わたしにも、それに近い時期がありました。何をしたいのかよくわからなくて、とりあえず、いちばん「するべきこと」に近そうなことから、片付けていました。そして、自分で生活に詳細な規則を作り、それが他人によって乱されることを極度に嫌っていました。

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三島は、彼の愛情を奪い合う3人の大人=祖母と両親に囲まれて育ちました。誰かに反抗しても、その反抗が他の誰かへの迎合となってしまうような環境でした。何かを感じたつもりでも、それを誰かへの迎合と区別する手立てがないのです。「反抗の足場がない」、その環境が、彼の精神を殺したのだと、著者は言います。そうして、自分が何を感じているのかがぼやけてくると、自分のものとして感じられる体験の割合が減り、反対に、なかったことにされる=抑圧される体験の割合が増えてきます。抑圧された体験は、いつか、制御できないかたちで外に出ます。

結局問題は、自分の感じていることを感じていると実感できるかどうかなのでしょう。わたしもまだまだ、ちょっとずつよくなっている途中です。

自由からの逃走(エーリッヒ・フロム、日高六郎訳、東京創元社、030325)

昔、人間には、自分の意志ではどうしようもないことが、今より多くありました。職業や居住地、身分などです。とても不自由だったと、言えるでしょう。でもその反面、自分で決められないがゆえに、自分のあり方について疑問や不安を抱く余地は少なかったと思われます。これさえしていればいいのだと、安心していられましたし、実際、定められたことがらを誠実にこなすことで、生活の安定も精神の安定も、保証されたのでした。

それが、自由になりました。いろいろな制約が消え去りました。それと同時に、これさえしていれば、という安心も、失われました。社会のシステムは、個人がどんなに頑張っても動かしようがない、把握することさえできないほど大きく、そんな中で、あらかじめ決定された役割=社会とのつながりを持たない個人は、とても無力でした。

そんな中で、社会の期待に背いたら生きていけません。だから、人間は、社会あるいは他人から、期待されていることを予測して、それを自分の欲求だと自分に思いこませて、行動するようになりました。でもそれはやっぱり、自分自身の欲求ではないのです。そんなことを続けていると、自分が何者かわからなくなって、余計に不安になっていきます。自発的に行動できないこと、ほんとうに感じていることを表現できないこと、他人あるいは自分に対してにせものの自分を演じていること、これらはすべて、劣等感、弱小感を呼び起こします。自分の意志で決められることが増えたはずなのに、自分の意志ではなく他人の期待にしたがって生き、結局、束縛の中に戻り、自由を放棄し、不幸になっています。それが表題にある、「自由からの逃走」、あるいは消極的な自由です。

では、自由を得る、自分の意志で決められることが増えることは、「自由からの逃走」しか生み出さない、不幸なことなのか。そういうわけではありません。他人からの期待を自分の望みと勘違いするのではなく、自分がほんとうに望んでいることを知り、そのように行動すること、個人の成長と幸福のみを目指して行動することによって、積極的な自由が得られ、ひとは、幸せになることができます。

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自分あるいは自我について、漠然と感じていたことを、明確にしてくれた本です。1941年の著作ですけれど、今でも十分、通用すると思います。

アンナ・カレーニナ(トルストイ、中村白葉訳、030223)

複数いる登場人物のなかで、わたしの注意を引いたのは、題名にもなっている、主人公の、アンナ・カレーニナです。彼女の気持ちの移り変わりが、興味深く思われました。

アンナははじめ、理想の美女として描かれています。自分に正直で、人生を楽しんでいて、たいへん魅力的です。彼女の生活していた社交界の虚飾と対照をなすように描かれています。それが、地位・財産・能力を兼ね備えていながら冷たくて人間味がない夫、カレーニンのもとを去り、理想の貴公子ウロンスキイと、自分たちの地位・役割を捨てて駆け落ちしてからは、彼女は徐々に、魅力を失い、ヒステリックになっていきます。

この小説に描かれているかぎりでは、ウロンスキイははじめから終わりまでアンナに対して誠実です。でも、アンナは彼を疑います。彼の言動をことごとく、悪いほうにとります。悪くとろうと思えば、どんな言葉でも、どんな態度でも、悪くとることは可能だからです。疑いは徐々に、根拠のない確信に変わっていきます。根拠がないゆえに、他人に訴えることができず、理解を得られないゆえに、彼女の精神状態はますます悪化します。

彼女が疑うのはおそらく、彼女が、ウロンスキイ以外に頼るものがなく、また、ウロンスキイのことを考える以外に、することがなかったからでしょう。彼女は、駆け落ちによって、社会における立場も、子供に対する母としての立場も、失ってしまいましたから。

そして、社会における立場を失ったという意味ではウロンスキイも同様で、彼はそのために退屈しています。

お互い、自分の不幸の原因は相手にあると思いながら相手を責めることはできません。共同責任だからです。そしてその共同責任のゆえに、彼らは離れられません。でも、そういう理由で一緒にいるという事実は、いっそう、アンナの感情を逆撫でします。悪循環です。

すべてを犠牲にしても、という誓いは、しばしば憧れを伴って語られます。実行する勇気はない、と知りつつも、実行できれば、と願ってしまう、そういうものでしょう。でも、実際に実行するのは、ひょっとしたら、正しいことではないのかもしれません。

実を言うと、アンナの姿が、ちょっと身につまされたのです。そういう傾向は、わたしの中にもないとは言えません。そう思わせるあたりが、名作たる所以なのでしょうね。

サーフ・スプラッシュ(桜井亜美、幻冬社文庫、030220)

二人の女子高校生の、往復書簡です。

この手紙、ヒトミがポケベルに入れてくれた住所に速達で出すから、

なんていう記述が見られます。メールじゃなくて、手書きなんですね。2〜4日ずつ間隔を空けて手紙がやり取りされています。手紙と手紙のあいまに、少しずつ出来事が積もっていきます。

久々に読み返して思ったのは、「この子たち、若いな」でした。設定では16歳です。若いのは当然です。でも、そういうことではないのです。やっていること、あるいは言葉遣いがいま風だということでもありません。ものごと、あるいは、他人に対する態度が、「若い」という感想を、わたしにもたらしたのでした。

もう少し説明しましょう。いい人、悪い人はいます。いい人は肯定され、悪い人は否定されます。でも、いい人/悪い人の境界線上には、人がいないのです。そこには、あいまいだったり灰色だったり玉虫色だったりする、妥協の余地はありません。

そして、よい/悪いのいずれに位置付けていいか分からない人や物が出てきたときには、彼女たちはひどく混乱するようです。自分に近いものほど、境界線上に位置する可能性が高く、境界線上に何かを認める間中、彼女たちは落ち着きません。

彼女たちは、自分自身をも、よい/悪いのどちらかの枠内に放り込んでしまいます。自己評価が、絶対的によい・絶対的に悪いの間を行ったり来たりするのです。否定するときには、他人を否定するときに容赦ないのと同じくらいの残酷さで、自分を斬ります。

そういう認識方法は、鋭くてあいまいさを許さず、その分きれいです。清潔、と言い換えてもよいでしょう。妥協という不純物を含みませんから。自分について他人について周りについて、まだ多くを知らないからこそ可能なのだと思うのです。だから、「若い」と、わたしは感じたのでしょうか。

わたしにとっては、そういう方法をとることは、いまとなっては難しくなりました。いろいろな面を同時に考慮する癖がついてしまったし、自分や他人を全否定する権利が自分にはないことを、すでに知ってしまいましたから。

海峡の光(辻仁成、新潮社、030217)

「私」と「花井修」、二人の物語です。「私」は、以前青函連絡線に乗っていて、今は函館刑務所で看守をしています。花井修は、「私」と小学校時代の同級生で、「私」を執拗に周到にいじめていた優等生であり、今は函館刑務所に入所中です。

いじめのきっかけは、花井修の偽善を、「私」が偶然見抜いてしまったことにあります。太宰治の「人間失格」で、同級生が主人公に「ワザ、ワザ」とつぶやいたように。

花井修が「私」をいじめていたそのいじめかたは、寸分のほころびもなく計算されたものでした。彼はクラス全員を味方につけた正義の味方であり、「私」は矯正されるべき悪者なのでした。例えばこんな場面があります。花井修は、「私」を被告として、自習時間に模擬裁判を行い、全員一致で有罪判決を下させたあとでこう言います;

「多数決だから仕方ないな。全員が君を有罪だと言ってるんだから弁護のしようもない。僕は君が罪人となった今も、君の中で頑張ろうとする心が目覚めることを期待するよ。僕たちは君をここから追放したりはしないさ。だからこれからは皆の言うことをよく聞いて、言われた通りにするんだ。逆らっちゃ駄目だ。身だしなみにも気をつけて、言葉遣いも丁寧にするよう心掛けること。率先してクラスのために生きれば、減刑があるかもしれないからね。」

「私」は、看守として花井修を監視する間、徐々に小学校時代の経験をフラッシュバックさせていきます。そして花井修に圧倒されていきます。そしてついに、「私」の負けは決定的となります;

花井修は小箱の中で大仏と化した。

◆◇◆◇◆

「私」が負けたのは、いや、「私」が対峙していると思っていた花井修とは、「私」の想像が作り出した幻影ではなかったかと思うのです。たしかに、花井修はそこにいたでしょう。でも、花井修の存在に、「私」が付与したような意味を与え得たのは、やはり「私」しかいないのです。たんに、過去を引きずったとか、「私」が弱いとは、言い切りたくありません。もう少し、「私」を、かばいたい気持ちが、わたしにはあります。

そういうこともあるかもしれない、というのは、救いに、ならないでしょうか。


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