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読書記録No.009(021209-030216)◆

授業(ベスト・オブ・イヨネスコ 授業/犀 所収、安堂信也・木村光一他訳、白水社、030216)

戯曲です。おそらく、植島啓司の『宗教学講義』の下敷きとなっています。

女生徒が教授の家にやってきて、個人レッスンを受けます。その個人レッスンの、一部始終を描いた戯曲です。女生徒が登場し、教授が登場し、授業が始まります。まずは数学で、次が言語学です。女生徒ははじめ快活だったのがだんだん陰鬱になり、歯が痛いと訴え、ついには、身体中が痛いと訴えるようになります。教授は反対に、はじめ生気がなかったのがだんだん熱狂的になってゆきます。

授業の内容は、はっきり言って、さっぱり意味がわかりません。一例をあげましょう。

「そうじゃない、そうじゃない。そうでしょう。《バラ》というのはフランス語の《バラ》を東洋語に訳したものです。スペイン語では《バラ》、わかりましたか?サルジニア語では《バラ》……」

違いなんかわかるわけがありません。違いはないのです。まったく同じです。女生徒は違いがわからないと言い、教授はいらだちます。教授には何かがわかっているようです。

女生徒は混乱し、圧倒され、そして無気力になっていきます。そして女生徒が無気力になっていくのと平行して、あるいはそれゆえに、教授はどんどんエネルギッシュになっていきます。自分の言葉に酔うように。

この状況は、日常にしばしばみられる光景を、ことさらおおげさに描いたものと捉えることができるでしょう。日常しばしばみられる光景とは、ある人Aが別のある人Bに、Aにとってはわかりきったことがらを、格別熱心に説明しようとする光景です。そのことがらが、Bにはまったく理解できない場合、とんちんかんな問答が繰り返され、その挙句にAの頭に血が上り、反対にBは無気力になっていきます。そしてだんだん、Aが上、Bが下という上下関係ができてきます。AもBも、いつの間にかその関係を受け入れてしまう。対象となっていることがらが、どうでもいいことだったとしても。不条理ですよね。その不条理こそが、この戯曲で描かれているテーマなのかなと、わたしは思います。

ひょっとしたらこれまで書いたような「理解」をこそ、この戯曲は拒んでいて、「わかった」ことにしようとするわたしを、あざ笑っているのかもしれませんけれど。

「心の専門家」はいらない(小沢牧子、新書y、030209)

この本で語られているポイントは三つあります。

1.カウンセリングにおける解決とは、カウンセラーの思っているクライアント像=いずれ問題を「自分で」解決していくクライアント像を演じてしまうことではないのか。ここでのメッセージは、「みずから決めよ、ただし望まれるように」である。しかも、みずから決めたことであるがゆえに、すべての責任はクライアントにある。

2.カウンセリングは本人の内面に焦点を当てる。しかし、そのように問題を捉えることは、本当はクライアントの外にある問題を、クライアント自身の問題にすりかえることになりはしないか。そしてそのようなすり替えによって、本来目指されるはずの、事態の根本的解決がかえって遠くなってはいないか。

3.いまカウンセリングが専門家として担っている役割は、本当に専門家にゆだねるべき問題なのだろうか。たとえば子供が何か事件に巻き込まれたとして、その傷を癒すのはまず親や周りの人ではないのだろうか。そういうことを専門家に任せてしまうのは、親や周りが、本来果たすべき役割を果たさなくなる傾向を助長するのではないだろうか。そして専門家は、常にでしゃばりすぎる傾向があるだろう。専門家としての力量を発揮することで、初めて自他に専門家として認められることができるからである。

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カウンセリングを受けた経験はあります。なんとなく釈然としないような雰囲気が記憶として残っています。それでも、「カウンセリング受けたらいいのかな?」と自分に対してあるいは他人に対して、時々思います。臨床医学を勉強していて、精神面で問題を抱えていそうな患者さんについて書かれた文章を読むと、「ここはカウンセラーを呼ぶべき場面なのだろうか」と漠然と考えたりもします。

一度やってみて違和感があった、それでも専門家への期待は失われていないようです。餅は餅屋、だったら悩みはカウンセリングかな、というノリですね。困ったら専門家へ。専門家って、そのためにいるんでしょう?という。そういうときの自分の気持をよくよく観察すると、「というわけであとはよろしく」という一行が、見出されるのかもしれません。

まだまだ考えきれていません。もう少し時間をかけるに値するテーマだと感じています。

にっぽん部落(きだみのる、岩波新書、030208)

しがらみについての本だと、言っていいと思います。よい意味でも悪い意味でも。「気違い部落周遊紀行」という、あまりに刺激的・魅力的なタイトルの本の続編です。「気違い部落周遊紀行」は、目下、探しているところです。

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タイトルの「部落」というのは、おもに農村における、15軒前後の民家の集まり、そしてその集まりにおいて自然発生する、住民のまとまりをさします。

部落における行動原理は二つあります。個人の利益を追求することと、部落のまとまりを保つことです。おそらく、より本質的なのは個人の利益でしょう。しかし、農村においては、土地と生産が密着しています。住んでいるところは、変えられません。よって、その住んでいるところの共同体である部落から出ていかざるを得ない状況、部落にいづらい状況は、悲劇以外の何物でもありません。よって、部落の和は絶対となります。部落の会議は全員出席、全会一致でなければなりません。全会一致が得られなければ、後で恨みが残って、部落の和をみだすもととなるからです。

村八分という言葉があります。これは正確には部落八分だと、著者はいいます。部落八分は、以下の4つの掟を破ったときに起こります;1、刃傷するな、2、他人の家をつん燃すな、3、盗人するな、4、部落の恥を外にさらすな。個人の利益、部落の和、部落の利益を守るという理由の前には、法律も思想も理屈も理論もまったく無力です。切実さのレベルが違います。

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この本でいう部落のように、その存続を至上目的とし、その構成員を縛り付け、ときにその外のルールに違反することがあっても意に介さない、そういう性質は、現代日本においても、あらゆる集団において見出すことができると、わたしは思います。

おそらく、わたしも含めて多くの人が、そういう集団を作り、そういう集団に所属し、そういう集団に守られることを、望んでいるのです。代償が大きすぎるように見えます。でも、わが身を振りかえると、集団に所属したい、所属していたいという気持ちは、ときに予測を超えるほど強いです。たぶん、代償が大きすぎるわけではないのだと思います。だから、「部落」は、どこにでも出現しうるし、現にどこにでもあるのでしょう。

少年被疑者(松木麗、学陽書房、030102)

この本で語られているのは親子関係に起因する少年犯罪です。親がしっかりしていれば子供は問題を起こさないし、親に問題があれば子供も問題を起こす。その図式はあまりにわかりやすくて、子供の問題でしんどい思いをしている親あるいは保護者の人たちをさらに苦しめるような気がして、あまり好きではありません。ひょっとしたらそういうケースはわたしが思っているより多いのかもしれないけれど、多いからといってそういうものだろうと予断を持つことはしたくないのです。

でも、同じことかもしれないけれど、下に引用する記述にははっとさせられました。

彼には守るべき家庭がない。かなしいことだが、そのまま他人の罪を背負うことに普通の子どもほどの抵抗はなかったのかもしれない。

ある一時期、守るべきものがない気楽さにあこがれていたことがありました。いろいろなことに果敢に挑戦できない自分を束縛やしがらみのせいにして、その責任転嫁にさえ気づこうとしなかったというのが真相だろうと、今では思っていますけれど。唯川恵が著書「ロンリー・コンプレックス」でそういう気持ちを鮮やかに描いているので引用します;

その頃、天涯孤独であるという身の上にちょっと憧れていたのです。誰にもとやかく言われないでしょう。そうであればきっと私も縛られることのない生き方ができると思っていたのです。でも、それが単なる都合のいい言い訳だったことも、どこかでちゃんとわかっていました。結局は、努力も甲斐性もなかった、それだけのことなんだって。

今では天涯孤独の身の上にあこがれるなんてことはありません。守るべきものというのは、自分にとって必要だと感じています。それによって自分がもう少し強くなれるんじゃないかと思うから、というのが理由です。

この小説を読んで、守るべきものがなぜ必要なのか、その理由が少しはっきりした気がしたのです。それはおそらく自分が大切な存在だという意識を強化するでしょう。だって必要とされているのですから。守らなきゃいけないのですから。そして、守らなければならない─必要とされている、という相互関係があってこそ、ひとは自分の場所をしんどくても投げ出さずに、維持できるのではないかと思ったのでした。

ひきこもりの家族関係(田中千穂子、講談社+α文庫、030112)

ひきこもりについての本を見かけるとつい手にとってしまいます。そういう本を開くのは、自分にとって有用な何らかのメッセージがあると思っているからなのでしょう。

著者は、ひきこもりを『関係性の根が病んでいる』と形容しています。関係性の根というのは対人関係の原点、すなわち乳幼児期の母親との関係です。しかし、こう書いたからといって、問題の原因が母親にあると語られているわけではありません。問題は、あくまで、関係にあります。母親の側にあるのでも、子供の側にあるのでもなく。母親のせいだといいたいわけではないと、著者は何度も繰り返しています。そうやって自分を責める母親を数多く見てきたのでしょう。おねがいだからわかって、という一生懸命さが伝わってきたように感じたのは、気のせいだったでしょうか。

ひきこもりが関係性の不具合だとして、それによって傷ついたり疲れたりして子供がひきこもっているとして、まずは休息をとることを許すこと、それは必要なことでしょう。不具合を起こしている関係を正常なものに修復すること、それも有益でしょう。そしてある程度安定した精神状態が得られたならば、そこからどうするか。 絶望するとかあきらめるとかいう単語を目にして、確かにそうだろうとわたしはうなずきました。

悩み方の秘訣は、自分に絶望することなんです。(横川和夫、仮面の家)

いかなる原因にせよ外に出て行けないくらい疲れきってしまったならば、状況が許すかぎり、しばらく一人になって休んでみるのもいいと思うのです。基本的な関係が壊れていて最低限の支えさえ得られないのならばそこを修復するなり新たに構築するなりすればいいと思うのです。でもそうしてエネルギーを蓄えたならば、もう一回現実に立ち向かわなければならない。自分が今思わしくない状態にいるのは自分のせいではないかもしれないし、ひょっとしたら他人のせいかもしれないけれど、自分の人生がしんどいからといって他人に代わってもらうことはできません。思うようにいかなかった過去も、変えられません。

変えられないものをあきらめて、いまあるものでできることをする。地に足をつけるというのはそういうことだろうし、いまのわたしに必要なのもそれなのだろうと思っています。

桜雨(坂東眞砂子、集英社文庫、030102)

出版社に勤め幻想絵画集を編集中の彩子と、彩子と同じアパート「平和荘」に住む老女早夜の物語です。この物語では、彩子が早夜の描いた絵に魅せられ作者を探しあてていく過程と早夜がその絵を描くに至る過程が交互に語られます。

恋愛小説としても読むことができるのだろうこの小説は、わたしに、絵とはどういうものだろうと考えさせました。

優れた絵といわれる絵はたくさんあります。そうした絵がどうして人々に強い印象をもたらすかというと、描いた人あるいはその絵自体が力を持っているからだと言えるでしょう。もっと言えば、見ている人の中にある何かを、目の前に突きつけるからと考えられます。突きつけられるものは、記憶かもしれないし想いかもしれないし願いかもしれません。自分の中にあるものが形をとって目の前にある、だからこそ、ひきつけられるのだろうと思うのです。自分の中にある想いが強いほど、また、表現が的確であるほど、大きく動かされてしまうと思います。共鳴のイメージでしょうか。

「燃える火は、女の燃やす常念の炎。そこから逃れて、どこかへ消えていきたい。……女なら誰しもそんな気持ちを抱くときがあるでしょう。だからその絵は、私が描いたとしても不思議じゃないし、もしかしたら、あなたが描いたかもしれないじゃないですか」

そうやって人を大きく動かしてしまうような絵が、描かれる過程において、誰かを不幸にしてしまうことはありそうに思えます。伊勢物語だったか、自分の妻子が自宅の火事に逃げまどうのを見て助けようともせず絵の題材になると喜ぶ画家の話があったのを思い出しました。芸術を理由に他人を不幸にしていいとは思いません。でも、描いている絵の力に、描く人自身が動かされてしまうこともあると思うし、そうやってあふれて渦を巻く力のもとに引き寄せられる人もいるのだと思うのです。竜巻に枯葉がもっていかれてしまうように。本人の意思とは関係なくてもです。そしてそうやって誰かの人生にかかわってしまうことのまったくない絵は、やはりそれだけのものでしかないということなのでしょう。

「私には、他人を不幸にするだけの力はなかった。それだけの迫力ある絵も描けなかったということですよ。一生かかっても、無理だった。哀れなものです。」

宗教なんてこわくない(橋本治、ちくま文庫、030102)

宗教は、ISMである。
宗教は、現代に生き残っている過去である。

ISMとはイデオロギー、つまりは思想です。宗教は数ある思想のひとつに過ぎず、宗教なんてもう要らない、と、橋本治は説きます。宗教はわたしたちが大人になる過程において、自分でモノを考えられるようになるために必要でした。ガイドとなる思想がなければ、考える力を伸ばすのは困難ですから。でも、ひとたび自分でモノを考えられるようになったならば、もう必要ないのだ、というのです。

思想に過ぎない宗教が、何かしらありがたくて難しいものと思われている、その理由は、多くの日本人にとって宗教が、儀式におけるルールでしかなかったということがあげられるでしょう。例えば初詣には行くし寺で法事は行うけれど、それが自分の宗教だといっていいものかどうか。宗教って内面の問題じゃなかったっけ。そう考えたとき、内面にまでかかわってくるのは哲学くらいしかなかった。よって内面にかかわってくる宗教も哲学と同一視された。哲学は難しい。よって宗教も難しい。

でも宗教ももとをたどれば思想の一つでしかなかったのです。その思想を自分で考えて自分のものにするところまでたどり着けなかった人たちが、信じるという受け入れルートを作って、そのルートを持つものが宗教と呼ばれるようになりました。

ものを考えようとしたとしましょう。考えるなら考える、で終わりそうなものですけれど、なかなかそうはいきません。ものを考えるというのはおそらくとても孤独な作業です。孤独にこつこつ考えていると不安になります。不安になると誰かにそれでいいよと言ってほしくなります。それでいいよ、あるいは答えはこうなんだよ、と言ってくれるのが、宗教だったりするのですね。宗教=人の内面を問題にする何かしらありがたくて難しいもの、というイメージが日本では定着していることもあって、ものを考えようとするひとはふらふらと宗教のほうへ引き寄せられてしまいます。そしてこの現象がますます、宗教=何かしら難しいものという印象を強化している。

この上なく明快で魅力的な宗教論です。「信じて」しまっては、おしまいですけどね。

急がない!ひとりの時間を持ちなさい
(ディヴィッド・クンツ、主婦の友社、021226)

著者に言わせると、現代人はやたらと忙しく、するべきこともしていることもいっぱいあります。余分なものを切り捨てたり同じ時間により多くのことを詰め込んだりしてはみるけれど、ぜんぜん追いつかなくて、パンク寸前だったりすでにパンクしてしまったりしています。そして自分が何をしているのかわからなくなります。優先順位がつけられなくてどうでもいいことにふりまわされて、毎日がただ高速で過ぎ去っていくばかりです。たくさんのことが入ってはくるけれど右から左へ抜けていってしまう。疲れてはいるのだけれど、充実感がない。

そうなってしまったのはなぜかというと世の中のスピードが速いからで、その世の中に生きているかぎりそのスピードに巻き込まれてしまうのはしかたがないところがあるでしょう。

で、どうすればいいか。立ち止まる=その世の中から「降りる」ことをすすめているのが本書です。秒単位、分単位、時間単位、日単位、月単位のレベルで、世の中のスピードから離れてみるのです。そうすることで初めて、自分が何をどうしたいのか、自分は何者なのか、わかるというのです。

ここで著者が勧めているのは単にひまを増やすことではありません。単にひまを増やしてしまうと、おそらく手っ取り早い暇つぶしを探し始めてしまうだろうからです。ここで語られているのは、もっと積極的な空き時間です。自分の中に湧いてくる考えや感情に身を任せてみるということではないのかと思います。

そうすることで、一つには心の整理ができます。ぐちゃぐちゃに詰め込まれた「自分の中身」をゆすって隙間を作って、正しい順番に沈殿するのを待ちます。昔理科で習った再結晶、あるいはパソコンのデフラグみたいです。

もう一つには、自分のどこかにしまいこまれている知恵にアクセスできるということがあるでしょう。わたしたちはもともと、自分が知っていると思っている以上のことを知っている、と思うのです。気づいていない、あるいは忘れているだけで。気づくあるいは思い出す、そのための方法のひとつが、「立ち止まる」ことなのでしょう。

脳のなかの幽霊
(V.S.ラマチャンドラン/サンドラ・ブレイクスリー、角川書店、021226)

脳って結局何なのでしょう。解剖学的にいうと、神経細胞とその隙間を埋める細胞からなる1.5キログラム程度のかたまりです。神経細胞が普段ない電荷を帯びる=『興奮』すると、感覚や運動や思考や感情が生み出される、といわれています。電気刺激で特定の感覚や運動や思考や感情を創り出すことだって可能です。

漠然としたことを書きました。わかっていることよりわかっていないことのほうがずっと多い分野なのです。おそらく、わたしの勉強不足のためだけではなく。いまは脳の世紀であると、脳関係の教授達は強調しています。彼らの自負を割り引いても、今急成長中の分野の一つではあると思います。

この本は、そんな脳科学の最先端の本です。といっても、現代科学につきものの、ものものしい機械はほとんど出てきません。特殊な病状を示しているひとにちょっとした実験に参加していただくだけで、驚くほど豊かな知見が引き出されていく様子が描かれています。

もっとも印象的だったのは、腕を切断したばかりのひとの身体を綿棒で刺激することで、指の一本一本に対応する知覚領域が顔と肩に出現していることを示すくだりです。これに対するラマチャンドラン博士の説明は以下のようになります;脳の領域として、指と顔、指と肩は隣り合っています。例えば顔から脳にくる神経は多少指の領域にもはみ出しているのですけれど、そのはみ出した分は本来の指の神経によって抑制されています。腕が切断されると、指領域への入力信号はなくなりますから、「はみだした」部分への抑制もはずれてしまって、顔から指領域にくる神経が働くようになってしまう、つまり、顔のある部分を刺激するとないはずの指が『感じる』のです。

不思議な症状を示すひとが次から次へと出てきます。その症状の原因が脳のある部分の障害であるという証明が示され、よってその部分はこれこれの機能を担っているのだ、という結論が導かれます。とても鮮やかで、自分を含むヒトというものについて今まで知らなかったことを知るという楽しさとともに、いままで断片的に知っていたことといま知ったこととを結びつけ、筋を通すという心地よさを感じることができました。科学ってどきどきするほど楽しい、と、思い出した気がします。

べてるの家の「非」援助論(浦河べてるの家、医学書院、021209)

北海道襟裳岬の近くに浦河という町があり、その町にべてるの家という、「精神に障害のある人たち」が共同で暮らしている場所があります。この本はべてるの家に暮らす人達およびべてるのスタッフ(医者・ソーシャルワーカー・その奥さんの看護婦さん)によって書かれました。

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病気というものはかかるとしんどいです。精神の病も例外ではなく、やっぱりかかるとしんどいでしょう。ならば保護しなきゃ、しんどさを軽減しなきゃ、(とりあえずしんどさはなかったことにしなきゃ)というのが普通の発想ではないかと思うのですけれど、べてるの家では違います。病気を持っている人もしんどいけれど、病気を持っていると診断されていない人もやっぱりしんどい。たとえ病気がなくても、あたりまえの苦労というのは存在するわけですよね。で、べてるでは、みんな、あたりまえの苦労はきっちり引きうけようよ、引きうけてもらうからね、というのがきまりになっています。

病気であるひとに苦労がある、でもその苦労はだれにでもあるあたりまえのものかもしれません。ちまたでよく言う「人間らしく=ひとなみ」とやらの中には本来「ひとなみに苦労する」という項目が含まれていると、わたしは思うようになりました。

そして、苦労をなかったことにしない、きっちりひきうける、のと同時に、自分の中の都合の悪いものも、なかったことにせずにきっちりひきうけて、ひきうけずに逃げ出そうとする弱ささえもやっぱり認めて周りにオープンにしてしまう、というのもきまりです。統合失調症(精神分裂病)の特徴とされる幻聴だってそうです。こっちが「幻聴さん」やさしく接すれば「あっちも友達になってくれる」のだそうです。仕事もそうです。3分しか集中力が続かないならそれを周りに宣言してみんなに助けてもらうのです。

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すごくすごく割り切れなくてぐちゃぐちゃで、そのぶん力強いコミュニティーのように、わたしには思えます。分割して整理して所定の場所に片付けてわかったぞという確信を得ることが得意かつ強迫観念のようになっているわたしには、ちょっとびっくりするような世界ではあるのですけれど、そしてそれゆえにきっちりまとまらないもどかしさみたいなものをすでにここで感じているのですけれど、あこがれています。行ってみようかな。


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