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読書記録No.008(020126-021124)◆

『りぼん』のふろくと乙女ちっくの時代(大塚英志、ちくま文庫、021124)

この本が扱うのは70年代です。70年代、『りぼん』なる少女まんが雑誌には、たくさんの「かわいい」ふろくがついていたのでした。

ふろく、と聞いてわたしが思い出すのは小学館の学年別月刊誌です。紙で作る飛行機などのおもちゃがついていて、点線で切りとってのりしろでくっつけて組み立てるようになっていました。

この本で扱われている『りぼん』のふろくも、やはり紙製でした。でももちろん組み立て式の飛行機ではありません。ノートとか小物入れとか便箋とかハンガーとか、かわいくて実用「ぽい」ものたちです。実用っぽいけど完全な使用に堪えるわけではありません。こういう『ふろく』が登場するまでは、かわいいもの、なんてありませんでした。モノは使えればそれでよかったしそれ以上を追求する余裕なんて誰にもなかったのです。

このふろくは、後に現れるサンリオなどの『ファンシーグッズ』の先触れであったと、著者は分析しています。

ファンシーグッズとは、こういうことです;例えばドナルドダックの絵のついたマグカップを欲しいと思った、としましょう。この場合、マグカップを先日割ってしまったからぜひマグカップが買いたい、と思ったのかもしれません。でも、同じくらい、あるいはそれ以上に考えられるのは、そのドナルドダックが気に入って、その結果欲しいと思った、というストーリーです。後者に相当する商品のあり方が、ファンシーグッズです。似た概念にキャラクターグッズがありますけれど、ファンシーグッズは、そのキャラクターが物語を必要としない点で、キャラクターグッズとは異なります。

ファンシーグッズの台頭によってふろくの時代は終焉を迎えます。ふろくでなくても「かわいいもの」が手に入るようになり、それと同時に、ふろくが実際には「使えない」ことが、女の子達のニーズに合わなくなっていったのでした。

今でこそ、ものを欲しいと思うときにそのものの実用性よりもイメージを重視してしまうのは当たり前なのですけれど、そうでない時代はあったのです。そしてここまで来た、その流れの中に、『りぼん』のふろくもあったのでしょう。

神、この人間的なもの(なだいなだ、岩波新書、021103)

「(宗教とは)簡単にいえば、孤独から人間を救い出し、一つにまとめるための原理だ。」

必ずしも神を持ち出さなくともいいのです。神も原理の一つにすぎません。この定義に従えば、科学も国家も各種主義主張も、宗教の名に値することになります。

「人間の歴史は、狂気と正気の戦いでも、正気と正気の戦いでもなく、狂気と狂気の戦いだ。集団の狂気ほど強い正気意識を持つものはない。それが宗教だ。その正気意識が強暴な攻撃性を他の集団に向ける。だから平和主義者を始祖に持つ宗教同士が戦い合った。民主主義も社会主義も宗教だといったのは、そういうことで、自分たちの中にある宗教的狂気の危険を自覚させたいと思ったからだよ。」

宗教とは、孤独を癒すためにつくられた集団です。徹底的な孤独は、狂気を引き起こします。だから宗教は狂気を癒すための手段であるといってもいいのですけれど、宗教は、集団であるがゆえに、自分たちは正気であると信じ、それを信じられるがゆえにより過激な狂気に陥ってしまう危険性を持っています。

そしてそもそも、宗教を始める人間自身が狂っていたりします。狭義の宗教、三大宗教の始祖だって、例外ではありません。

「神の声が聞こえるというのは、幻聴じゃないのかね。じぶんこそ唯一神の遣わされた民衆の救い手、メシアだという確信は、妄想だと思わないのかね。これだけそろえば、現代の精神科医は迷わず精神の病気だと診断するだろう」

精神科医だってひとのことはいえません。精神科はそのスタートにおいて、何ら治療法も、診断法も、持ちませんでした。ただ、患者は病気であるという信念のみでものを言っていたのです。これって狂信であると、いえないでしょうか?

こんなふうに書くと何もかもが宗教であるのか、と言われそうです。一人でいても狂ってしまうし集団になっても狂ってしまう、正気であるすべはないのか、とも。

おそらく、絶対の正気なんてないのです。より正気に近いほうへ進もうとするくらいしかできることはない。でも、そのくらいの謙虚さが、いちばん正気に近いのではないかと期待してみたりするのです。

神曲地獄篇 (高木彬光、カッパノベルス、021026)

あさま山荘事件に至るまでに、連合赤軍内で起こった連続私刑殺人事件の話です。 彼らは、全国指名手配を受け、徐々に人里はなれた山奥に潜伏するようになります。彼らの目標は革命なのですから山にこもっていては話にならないのですけれども逮捕されてしまってはもっと話にならないので仕方がなかったのでしょう。

冬の話です。舞台は、信州の山の中です。非常に寒かったようです。買出しにもめったに行けないから、栄養も偏っていたでしょう。しかも自給自足に近い状態ですから、薪拾いや薪割り、洗濯や食事作りなどの労働も必要になります。主食は、ラーメンの汁で味付けした麦粥だったといいます。

そんな状態ですからメンバーの判断力は徐々に失われていきます。士気は下がり、規律は乱れがちになります。「上層部」への不満もたまります。

そういう中で出てきたのが「総括」と呼ばれるリンチです。もともと総括というのは、単に、自分の悪かったと思うところをみんなの前で白状して反省し、反省したことをみんなにも認めてもらおうという、教会の懺悔にも似た行為です。しかしこの連合赤軍の中では、この総括は、罪を並べ立てあるいはでっち上げ、それを本人に認めさせ、「愛の鞭」として本人を処罰する=集団でリンチする、というものでした。山篭り生活でためこんだストレスを、リンチによって発散していた、という側面もあったようです。また、そのリンチに参加しなければ、自分が次の総括対象になる可能性は多いにありました。仕方なく殴っているうちに止められなくなってしまったのかな、と思います。そしてリンチが終わって眠ろうとしても怖くて眠れない、リンチをしたこと、殺してしまったことが新たなストレスになり、徐々に状況は悪化していったのでしょう。

こんなリンチはどう考えても革命とは何の関係もないのですけれど、おそらく誰もが、その結論に自信を持って達するだけの判断力を失っていたのです。

ここに描かれているのは確かに特殊事態なのだけれど、条件さえそろえば誰の身にも起こり得るとだと思うのです。関係ないといいきれない、それはわたしが弱いからなのかもしれないけれど、やはりわたしにはそう思えてしかたがないのです。

読書力(斎藤孝、岩波新書、020930)

私がひどく怒りを覚えるのは、読書をたっぷりとしてきた人間が、読書など別に絶対にしなければいけないものでもない、などと言うのを聞いたときだ。

読書は、四股に似ている。相撲を取るための素地を作る最良の方法が四股である。相撲部屋で四股を踏まなくてもいいというところは一つもない。もし自分が四股を踏み続けて相撲が強くなっているのに、後輩には四股を踏まなくてもいいと指導するものがいたら、そのものは責を問われるべきであろう。

この記述に、ショックを受けました。

この本で語られているのは、本は読むべきであるということ、そして、読書もひとつの技術であり、訓練によって上達しうるものであること、の二点です。前者が特に印象深かったです。 本は読むべきである、その理由は二つあります。

まず、本を読むことでさまざまな考え方を知ることができます。さまざまな考え方を知ることで、一つ一つの考え方は相対化されていきます。相対化され、互いに矛盾するかもしれない数多くの考え方を自分の中に溜め込むことは、居心地が悪いかもしれません。たったひとつの考え方をかたくなに守りつづけるほうが、楽かもしれない。でも、例えばある魅力的な考え方に出会ったときに、それをいったん相対化した上で、どれだけ取り入れるか決めるのは、必要なことだと思うのです。そしてさまざまな考え方を取りこんで自分の中で取捨選択して優先順位をつけてでき上がって行くのが、いわゆる自己─透明な幽霊の複合体(by宮沢賢治)─なのではないかと。 そしてもう一つの理由は、いわば日本語能力の養成です。語彙を増やすことはもちろんですけれど、論理を追い要約し、言い換えを行って「ボールを投げ返す」力は、読書によって培われうる重要なコミュニケーション能力であると、著者は言います。

この本は、読書に関して、わたしが今までぼんやりと心に抱いていながら言語化できなかったこと、言語化できないがゆえに無視し、捨て去ろうとしていた考えを、言語レベルに引っ張り上げてくれました。わたしは多くの時間を読書に費やしてきました。この本のように読書を力強く肯定してくれると、とても気が楽になります。ほんとうは他者から承認を得なくても自分で自分を承認できるようでありたいところなのですけれど。

飛龍伝(つかこうへい、集英社文庫、020504)

つかこうへいの作品は、やりきれないような懐かしいような感じがします。

読んでいて心地よい、というわけではないのです。それどころか、ほとんど常にいらいらさせられます。そこは意地を張るべきところじゃないんだよ、そこはタテマエで乗り切るべきところだよ、そこで思っていることを正直にいえばうまくいくのに、ああ、そっちじゃないったら。登場人物は常に必死です。でも、たいていの場合方向が間違っています。報われない努力を見ていると悲しくなってしまいます。その、悲しいという感情はとても強いものです。懐かしさを呼び覚ましているのは、その感情の、強さなのかもしれません。

この「飛龍伝」の舞台は、学生運動です。

学生運動に対しても、わたしは、つか作品に対するのと同じような感慨を持っています。学生運動と聞くと、なぜか懐かしいような気がするのです。わたしがあの時代に生きていたら、巻きこまれていたでしょうか。

さて、この話の主人公は神林美智子といいます。学生運動のデモ中にお亡くなりになった東大生、樺美智子さんを下敷きにしているのは間違いないでしょう。神林美智子も、学生運動に関わり、物語の最後に、デモの中で死んで行きます。 神林美智子は東大入学後ほどなく、全共闘四十万人の上に立つ委員長になります。そして、機動隊幹部山崎の家に潜伏し、彼の子供を産み、山崎に殺されます。

委員長になり、最後にはデモで殺されてしまう、そこまで全共闘に関わっていても、神林美智子は、全共闘自体にそこまで熱意を持っていたとは思えません。彼女が全共闘に関わったのは、闘士であった桂木に惚れたからです。桂木に近づくために、運動の理論を学習し、桂木に任命されて委員長になり、そして、桂木に命令されて、山崎と同棲します。

ああ、そっちじゃないったら、の連続です。自分のためにならない方向にばかり、行っています。でもそれは相手を想うからこそなのですね。そもそも自分のためではない。

何ごとによらず、真実エゴイストでないということは、究極における勝利であるにしても、この現世には容れられない。(坂口安吾)

そういうことなのかもしれません。

堕落論・続堕落論(坂口安吾、角川文庫「堕落論」所収、020218)

日本国民諸君、私は諸君に、日本人および日本自体の堕落を叫ぶ。日本および日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ。

堕落とは、好きなものは好き、欲しいものは欲しいと、言うことです。大義名分を捨てることです。

タテマエとホンネを考えるなら、このエッセイは避けて通れないと思います。

このエッセイには、状況によって出たり入ったりするホンネと、それをふだん覆い隠しているタテマエというものは、出てきません。出てくるのは、大義名分です。大義名分は、タテマエとホンネのように、するりと入れ替わったりしません。大義名分のために、多くの人が死にさえしました。それでも、大義名分がホンネと入れ替わったりは、しなかったのでした。

そのような大義名分も、欺瞞にすぎないと、安吾は言います。

国民は泣いて、ほかならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、という。嘘をつけ!嘘をつけ!嘘をつけ!我ら国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ち向かい、土人形の如くにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終わることをもっとも切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分といい、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶと言う。惨めともまたなさけない歴史的大欺瞞ではないか。

大義名分は嘘にすぎない、と、安吾は言います。自分に対しての嘘のことだと、思います。

大義名分に逃げ込むな、だからおまえはどうしたいんだ、自分以外のもののせいにせずに自分がどうしたいか自分の責任において言ってみろ、それが堕落せよの意味なのでしょう。自分だけの責任において自分がどうしたいか自覚するというのは、おそらく、デカルトが何もかも疑ってそれでも「cogito ergo sum(我思う、ゆえに我在り)」に到達したと同じような、すべての出発点となりうる考察なのだろうと思います。大義名分・タテマエ・ホンネをすべてどければ、どうしても譲れない線が、見えてくるでしょうか。

堕落は、弱いものには不可能です。まわりと衝突して、孤独になって、それでも逃げてはならないのです。弱いものには堕落することができないから、その弱さを守るために大義名分が、後にはタテマエとホンネが、生み出されたのだと思います。

日本の無思想(加藤典洋、平凡社新書、020217)

タテマエ・ホンネと思想は両立しない、と著者は言います。

タテマエとホンネというのは、対立概念ではありません。タテマエがなければ、ホンネはありません。タテマエがあって、そのタテマエを取り外すとホンネが出てきます。タテマエに隠される、それがホンネの条件です。 もしもタテマエに隠されることが全くなく、必要に応じていつでも表に現れるものであれば、それはホンネとは呼ばれません。本心あるいは信念と呼ばれます。キリスト教では、神を唯一無二、絶対の存在であると、心から信じると同様に、言葉そして行動によって常に表明しなければならないとされます。江戸時代、踏絵が行なわれました。もしも信仰がただのホンネであるとするならば、踏絵を踏まず、でも心の中では神を信じるという態度が、一般的であってしかるべきでした。

状況によって出たり入ったりするホンネなんて、実はどっちでもいいんじゃないんでしょうか。どっちでもいいからこそ、出たり入ったりできるのではないでしょうか。タテマエとホンネは、実は、何もかもまあどっちでもいいやという、投げやりな気分の表れとはいえないでしょうか。

どっちでもいいのはなぜか。タテマエが押しつけられたものであること、押しつけられたという事実をなかったことにしていていること、それが原因ではないでしょうか。戦後の憲法しかり、天皇問題しかりです。押し付けられたことを、なかったことにしているから、タテマエが、なんだか違和感があるけれども従わざるを得ないものとなり、違和感がいつまでたっても消えないことから、無力感が生まれる。そして結局どっちでもいいや、という投げやりな態度に落ち着いてしまう。

タテマエとホンネが通用している、それはつまり、思うことと行うこと、言うことが、一致しなくてもいいということです。「実行に移さないかぎり、頭の中で、あいつ殺してやる、と思っていてもいいのです。相手が総理大臣であってもです。これを、良心の自由といいます。」わたしはこのように、小学校で習いました。そして今、メールに、別にお世辞じゃなくってね、なんて書き添える自分、どうやったら、本当にそう思っているということが伝わるのだろう、と、首をかしげる自分に気づきます。

思うことと行うこと、言うことが、必ずしも一致しなくてもいい、そうなってしまえば、言うだけ無駄です。いずれ言葉は死んでしまいます。言葉が死んだところに、思想も何もあったものじゃありません。日本の無思想・無宗教を、ここまで明快に論じた本ははじめて読みました。

緋文字(ホーソーン作、八木敏雄訳、岩波文庫、020202)

17世紀、ボストンの清教徒社会を題材とした、小説です。へスター・プリンは、夫が不在である間に「姦通」し、妊娠し、娘のパールを産んでしまいます。当時の厳格な清教徒社会においてはそれは許されないことでした。彼女は監獄に入れられ、さらし台に立たされ、罪の印である緋文字、真紅のAの字を、一生胸につけることを義務づけられます。

そして彼女は、たいへんな軽蔑を受けます。子どもたちから、怖がられたりもします。街はずれに家を構え、彼女の特技である、繊細な刺繍によって日々の糧を得て、彼女は娘のパールとともに暮らします。病人が出れば出向いていって看護します。貧しいものにはほどこしを行ないます。でも、当然受けるべき感謝さえ、受けられなかったりします。出て行くこともできたはずなのに、その地を離れれば緋文字なんて関係なく暮らせたはずなのに、へスターはそこにとどまります。それは、彼女が罪をつぐなうのは、罪を犯した地においてでなければならないと、思ったからでしょうか。そこを離れて、何食わぬ顔で新たな生活をはじめてしまっては、罪をあがなうことができないと、考えたからでしょうか。

いっぽう、へスターの「姦通」の相手である男も、その町にいます。人間でありながらたいへん神に近いところにいるとされ、聖者とあがめられる、ディムズデール牧師です。しかし誰も、まさかディムズデール牧師がへスターの姦通の相手だとは、知りません。彼は次第に、厳しい修行に励むようになります。自分を罰するようになります。そして、衰弱していきます。その結果、ますます多くの人にあがめられるようになり、彼としてはますます、周りに対する罪悪感を深めていきます。

ものすごく単純な二項対立を設定すると、「罪を公開することでそれを受け入れ、乗り越えたへスター・プリン」対「罪を公にすることができず苦しむ一方のディムズデール牧師」となりましょう。

だれしも、そんな罪を犯すことはあるのではないかと思うのです。少なくとも可能性くらいは、あるんじゃないかと。へスターもディムズデール牧師も、ひょっとしたら格別不運だったのかもしれません。でも、そうやって苦しむことで彼らは、きっと一段高みに上ったのだろうな、そんなことを思いました。

ヴァーミリオン(桜井亜美、幻冬社文庫、020129)

恋愛小説です。サイコセラピストの鮎美は、クライアントである16歳の少年、スバルと恋に落ちてしまいます。二人とも、特に鮎美は、何もかも捨てて、その恋愛にのめりこんでしまいます。

なんでそんなにのめりこむのかというと、「相手に絶対的に必要とされている」いう感覚があるからです。だから、相手のためにはなんだってする、と思えるわけですね。

なんて冷静なことを書いてはいますけれども、初めて読んだとき、わたしはものすごくショックを受けたのです。鮎美が、自分と重なったのでした。カウンセラーがクライアントに、という設定がよくなかったです。医者、それも精神科医になろうとしている人間が、そういう感情を持つのではないかと危惧するようでは、なる前から失格ではないか、と思いました。そんなこと職業倫理上許されないのはわかっても、職業倫理以外の面で何かいけないことがあるのか、それがわからないのもかなりショックでした。

いま読み返してみて、職業倫理はさておき問題なのは、「相手に絶対的に必要とされている」状態を、求めてしまうことなのだろうと、思います。誰かがわたしを絶対的に必要としてくれるならば、その限りにおいて、わたしは存在してもよい、そのように思った時期は、わたしにも確かにありました。でも、そんな不自由な立場に、相手を置いてはいけないのだと思います。ひとりの大人を相手にしている限りは。

ある人の存在が自分にとってどうしても必要で、その人なしでは生きられないというほど思いつめていたことが、一時期ありました。こちらの思いこみでなければ、ですけれど、そのように思われたことも、あったようです。でもそういうときって、わたしも相手も、とても不自由だったなあ、と思います。そして実際離れてみて、やっぱりちゃんと、わたしは生きているわけです。それなりに楽しみながら。

わたしがいなくても世界はそんなに劇的には変わらない、そう感じてしまうのは多少は寂しいことなのかもしれませんけれど、だからこそ安心して日々暮らせるわけでもあるのです。わたしも周りも。それだけのものではあるのだけれど、そこをわかった上で、誰かのために一生懸命になれるのなら、それはとてもいいことなのではないかと思います。

サンクチュアリ「うたかた/サンクチュアリ」所収
(吉本ばなな、新潮文庫、020126)

平穏な生活を送っていた人が、大事な人を亡くします。平穏な生活はあとかたもなくなります。そういう彼らが、再び、もととまったく同じではないかもしれないけれども平穏な生活を取り戻していくまでの物語です。

主人公の智明は、夜の浜辺で泣いている女、馨に出会います。智明が馨に、家の近くで偶然再会するところから、物語は始まります。 この話における現在では、馨はとても明るくて健康的な女性です。でも智明はそんな馨に物足りなさを感じます。その物足りなさをはっきりと書きこんだ作者に、わたしは好感を覚えます。泣いているというのは、特にこの場合、決して幸せな状態ではないわけで、それよりは、明るくて健康なほうがいいに決まっているのですけれど。ここで逆接になってしまうのは、泣いているとかものすごく悲しんでいるとかいうのが、あまりに強烈な感情で、それだけに鮮やかに、わたしの目に映るからでしょうか。

物足りなさを感じた智明が、少し後で気づくことがあります。

母の前で平凡な娘に戻った彼女に失望したさっきの自分が恥ずかしかった。その平凡さを、あの笑い転げていた母娘は死にもの狂いで取り戻したのだ。

死にもの狂いで平凡さを取り戻す。自分自身と重なりました。一時期わたしは神経症を患い、家の中はぐちゃぐちゃになりました。わたしもボロボロ、両親もボロボロ、当時幼かった弟も、とてもいづらかったことでしょう。そのときには無我夢中で何がなんだかわかりませんでしたけれど、ああ、本当にストレスがかかっていたのだなあと、今、思います。そして現在、例えばテレビを消すだの消さないだの、残ったチョコレートを誰が食べるかだので、くだらない言い争いができることがとても嬉しかったりするのです。こんなことさえできるようになったんだ、と。

取り戻した日常は、失う前となんら変わるところがないのかもしれません。ひょっとすると失っていた間のほうがかえって高級なような、取り戻してどうすんのというような、そんなものなのかもしれません。でも─失うことすらできると、肌で知っているのと知っていないのとでは、何かが違うようにも、思えるのです。


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