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読書記録No.007(011205-020107)◆

コンセント(田口ランディ、幻冬社文庫、020107)

コンセントとは、プラグをさしこむ、あの穴のことなのだそうだ。ずっと、プラグのことだと、思いこんでいた。 この作品の中で、コンセントというのは、自分以外のものと自分がつながるための径路であると説明されている。女性器のことでもあるらしい。

主人公ユキは、現代の巫女である。巫女とは、世界にあまねく存在しているエネルギーと今ここをつなぐコンセントみたいなものである。巫女を通して、エネルギーがこの場にやってくる。コンセントを通して、電気が電気器具に送られてくるように。

で、エネルギーを受け取ると何かいいことがあるのか。出すことができるならば、それも悪くないようだ。宮古島の巫女のもとには、人々がいやされにくるという。エネルギーを受け取りにくるのだ。ユキのもとにも、男性が集まる。男性はプラグの比喩であろうか。 ならば、コンセントであることは、幸せなことなのか。それはよくわからない。たくさんのエネルギーを受け取ることができるということは、余計なエネルギーも受け取ってしまうということだ。受け取るだけ受け取って、放出する径路を持たない人もいる。そういう人にとっては、この世界は刺激が強すぎるらしい。

敏感すぎる人というのはそこかしこにいると思う。自称、敏感すぎる人もそこかしこにいると思う。幽霊が見える人がいて見えない人がいて、花粉でアレルギーを起こす人がいて起こさない人がいる。それと同じように、エネルギーを感じとってしまう人もきっといるのだろう。

ベストセラーになる本って、なんだか共通する気分というか雰囲気みたいな、そういうものがあるよね、と弟が言った。ある時代にある本がはやるというのは、その本の気分とその時代にいる多くの人々の気分が合っているということなのかもしれない。

そのように考えてみる。この本がはやるということはすなわち、生きにくいと感じるひと、この世は刺激が強すぎると感じるひとがふえたということなのかもしれない。いや、そのように感じることが、市民権を得たと理解するほうが、わたしにはしっくりくる。そういう時代ってやつはよい時代なのだろうか。それはわたしにはわからない。

新婚さん(吉本ばなな、新潮文庫「とかげ」所収、020102)

先日、知らない人からメールが来ました。個人でホームページを開設している人にアンケートを取りたいとのことでした。なんとなくひまだったので答えてみることにしました。アンケートの中に、「あなたは、ネット上と実生活で、自分を使い分けていますか」という意味の、質問がありました。わたしは、使い分けているのでしょうか?

わたしは自分のサイトを、実生活でわたしを知っている人たちに知られても特にかまわないと思っています。年賀状にはサイトのアドレスを印刷します。サイトを持っていることは話の流れによっては明らかにしますし、聞かれればアドレスは公開します。特に隠さないのは、持たなくていい秘密は持たないほうが人生軽くていいと思っているからでしょう。いつばれるかわからないと思いながら日々を過ごすのは苦痛です。また、親しい人に見せられないような面を出すと、後で自分でも読み返したくなくなりそうだからでもあります。

では、全く同じなのかというとそうでもなさそうです。いやそもそも、生活のすべての場面で、一貫した自分を保つなんてことが、いったいできるものでしょうか。

そんなことを想うとき、「新婚さん」の一節が、しばしば頭に浮かびます。

どこの国のものでもない、あなたと、わたしにしか通じない言葉で話している。すべての人どうしにそういう言葉がある。本当はね。あなたと誰か、あなたと奥さん、あなたと前に一緒にいた女、あなたと父親、あなたと友達、その人たちどうしのためのたった一種類の言葉が。

たった14ページの小説の中の、この言葉が、とても印象に残っています。二人なり三人なり、人がいて、その人たちが構成する空間がある。その空間のなかに、言葉がある。一人一人が持ち寄る言葉が、そのまま出てくるわけでは、ないのですね。そう考えると、生活のすべての場面で、自分が常に変わらないなんてことはありえないし、同時に、おそらくある雰囲気を常に自分が漂わせているだろうことも、了解できます。

だから。ネット上でのわたしの発言は、AさんといるときのわたしとBさんといるときのわたしが異なるというのと同じ理由で、現実世界のわたし、生身の人間に対して話をするときのわたしとは違うのでしょう。ああそういうことなのか、と。

「引きこもり」から、どうぬけだすか(富田富士也、講談社+α文庫、020102)

引きこもる、というのは、うまく距離感がつかめなくて人間関係全般が面倒になり、しばらく引きこもっているうちにますます人間関係に戻りづらくなる、ということだと、わたしは理解しています。

わたしも調子によっては、日々学校などでかわされる普通の会話がしんどくなってきて、休日など堂々と家に閉じこもれる日は楽だなあ、と思うことがあります。これは、わたしの好きな時間の過ごし方に、一人でできることが多いことにも起因しているでしょう。

なんとなく、ひとりがなじむという子がいる。親はわが子のそうした性格を見抜き、幼いころから孤立感を持ったときに仲間の輪に戻れるコミュニケーション・スキルを身につけるためのトレーニングをほどこしてやる必要がある。

ああ、そういうことなのか、と思いました。読書が好き、パソコンが好き、絵を描くことが好きなわたしは、これでは閉じこもることができてしまう、そういう内向的な趣味ばかりではまずいのではないかと、そこを変えなければならないのではないかと思っていましたけれど、身につけるべきは、集団に戻る術であると考えたほうが、ずっと気が楽だし、建設的だと思います。

人間関係の中で人と「せめぎあって、折り合って、お互いさま」の循環的コミュニケーションがなんとかやりとりできれば、後は本人の生き方の問題である。

「せめぎあって、折り合って、お互いさま」を実行するためには、まず、どのくらい相手に近づけばいいのか、その距離感が必要になります。距離感をつかむためには、少し近づいてみて、反発が起こるようならちょっと後ろに下がり、またもう少し近づいてみて、という、ちょっとした反発を繰り返しながらバランスをとっていくことが必要です。ちょっとくらい反発が起こっても、そこで人間関係が終わってしまうわけではない、と、信じることができないとこれは難しい。また、もしもダメでも、また別の人にアプローチすればいいわけで、といういいかげんさがないと、しんどくなってしまいますね。

引きこもりから抜け出すための最低限を、きちんと示した本だと思います。ああ、これくらいならできるかな、と思わせてくれます。「もう引きこもらなくたっていい」のですよね。

魂の殺害者(モートン・シャッツマン著、岸田秀訳、草思社、020101)

シュレーバーは42歳のときに精神障害者としての生活をはじめ、それから二十七年間の生涯のうちの十三年間を精神病院で過ごし、そこで死んだ。

この本で取り上げられるのは、「精神障害者」ダニエル・シュレーバーと、その父との関係です。著者は、シュレーバーの「狂気」が、シュレーバーの子ども時代に父から受けたしつけの結果であり、狂気の内容としつけの内容は対応しているという立場をとります。

しつけは、姿勢や話し方といった表面的なものにとどまりませんでした。親の言うことには、それが親の言うことだからという理由だけで完全に従わなければなりませんでしたし、子どもは自ら望んで、親の望むように振舞わなければなりませんでした。それが自由意志であると定義されました。従わないということはそもそも許されないし、従わないとすればそれは悪いことであり、破滅に近づくしかないとされていました。なんだか、カルト式二元論の世界ですね。服従か、死か。そして選ぶのは本人です。

これではしつけというより迫害ですけれども、父親にはおそらく、悪気はなかったのです。そうするのが愛情だと思っていたのです。子どもの将来のためであると。そしてシュレーバーの父がそのような行動に出たのは、彼の心にあった、抑圧のせいではないかということが示唆されています。自分の中で見なかったことにしているものは、子供の中にはそもそも存在してはならなかった、そういうことですね。

抑圧はそもそも、本人がにとってなかったことにするということですから、本人が自分で気づくというのはとても難しいのではないかと思います。そして、親もしくは養育者の中にある抑圧によって、子どもにも抑圧が生まれるとしたら、その連鎖はたいへん断ち切りにくいことでしょう。

自衛策はあるのでしょうか?岸田秀は、母に溺愛されながらでも実は自分は母に憎まれていたのではないかと感じ、それを実証するために大学ノート十冊だったかの思索を、十年単位の時間をかけて、行なったそうです。しかしそのような試みも、成功するという保証はありません。どうすればいいのかはわたしにはわかりません。気づけないかもしれないけれども気づこうとすることくらいしか、今は思いつきません。

擬態うつ病(林公一、宝島社新書、011230)

「擬態うつ病」というのは、筆者の造語です。「本当はうつ病ではないのに、本人はうつ病だと思っている」人をさします。これに対して本物のうつ病とは、治療しなければ自殺する可能性が高く、逆に、薬などの治療を行えばほぼ全ての例で症状が治まる脳の病気です。

「擬態うつ病」が、「本物の」うつ病の輪郭をぼやけさせていると、筆者はいいます。擬態うつ病の広まった理由について、筆者の見解をまとめると次のようになります;

  1. うつ病らしき訴えがある場合、医者は最悪のケース(自殺など。うつ病では実際ありうる。)を想定して、うつ病に対するような扱い方をすることが多いため。
  2. うつ病の自己診断基準が普及したため。診断基準は目安にすぎないのに、一部の人は、基準を絶対化して、「何点以上だから」自分はうつ病に違いない、と確信する。うつ病とゆううつの、区別のつきにくさも一因である。
  3. 抗うつ薬の普及および人気。うつ病=ゆううつ(不快)を取り除く薬は、誰もが望む魔法の薬だともいえる。ただし、抗うつ薬はもちろん、本物のうつ病にしか効かない。
  4. 疾病利得。うつ病ということにしてしまえば、まわりからせきたてられることもなく、何かができないとしてもそれを病気のせいにすることができる。つまり、病気でいるほうが楽なのである。
  5. うつ病の情報が混乱している。ストレスの増加によってうつ病が増え、うつ病とは「ゆううつな」状態であり、そしてそのうつ病は薬で治る、というのはわかりやすく、また、希望の持てる情報、すなわち人々が好む情報である。しかしこの情報においては、ストレスで増える擬態うつ病と、薬で治る本物のうつ病が混同されている。

ちなみに、本物のうつ病と擬態うつ病を区別するのは、ほとんど医師の勘だそうです。上のように書いたからといって、擬態うつ病に対して何もしなくていいというわけではありません。あまりにしんどい場合はやはり、対処したほうがいい、ただ、うつ病とは違う病気である、というのです。落ち込むことがあまりひんぱんになるとつい、「抗うつ薬を飲めば治るのかしら?」なんて考えてしまう私も、立派に擬態うつ病、もしくはその予備軍かもしれません。

弱者とはだれか(小浜逸郎、PHP新書、011225)

障害者・部落民と呼ばれる人たち・女性・老人・子供、いろいろな「弱者」が、世の中には存在すると考えられています。今あげたいずれの属性も持たない人は、「強者」としておきましょう。では、これらの「弱者」たちは、本当に常にあらゆる側面において、「強者」より弱いと、判断していいのでしょうか。ならばどうして、壮年男性の自殺が相次いだりするのでしょうか。彼らは「強者」そのものであるはずなのに。

「弱者」と呼ばれる人たちが、生活のすべての場面において、どのような角度から見ようと「弱者」であるという見方は間違っていると、筆者はいいます。「弱者」は場面場面で定義されてしかるべきであり、その上で個別に対応の仕方を考えるべきものである、というのです。

そして、「弱者」とされた人々には、美談がついて回ります。

まず、苦しい現実を背負った人々を、そのことだけで一括りにし、「同情」の札をかき集める。「同情」という感情は、めぐまれた立場からめぐまれない立場を思いやるところに成り立つから、もともと自分の恵まれた立場そのものに対する負い目意識と切り離すことができない。記事は、読者のこの負い目意識を巧みに利用しながら、突如「あなた方は同情などという優位に立った感情を抱いてはならない、この人たちは、逆境にもめげずこんなに明るく自信に満ちて生きているのだ、この人たちはあなた方よりも偉いのだ」と宣告する。この宣告によって、信頼の力関係が逆転し、読者の心理の中で、「弱者」が「聖者」としての特権性を帯びるようになる。

まとめてみると;ある人が特定の場面で「弱者」であったとしても、それだけで彼らが直ちに偉大であるとはいえない。もしわたしたちがそう思っているとすれば、それは負い目感覚と、そこから生じる「とりあえず祭り上げて意識から追い出してしまおう」という意識に根ざしている可能性がある。

ということになるでしょうか。「ほんとに彼らは弱いと言い切れるんだろうか」「障害をもっているって、偉いことなの?」そういうもやもやに、一つの解決を与えてくれた本として、わたしはこの本を高く評価しています。

仕事の上手な仕方(C.ヒルティ著、草間平作訳、岩波文庫「幸福論 第一部」所収、011218)

もしも勤労が避けられず、しかも休息はこれと反対のものであるならば、「あなたは額に汗してパンを食べねばならぬ」(創世記三の十九)という言葉は、まったく残酷な呪いの言葉であり、地上は実際涙の谷であろう。

もちろんこれは反語です。どんな人でも、絶え間なく働きつづけることは望みません。休息を求めます。それは仕方ありません。しかしほんとうの休息は、働くことを否定した上で成り立つものではなく、働いていることの中にあるのだ、と、著者は説きます。そして、最高の幸せは、(必要十分な休息を取りながら)働くことの中にあるとも、著者は説きます。

さてそうはいってもなかなかとりかかるのは難しく、続けるのは難しい。これは勉強でも同じです。机に向かうまでが長く、また向かったとしてもなかなか続かない。それに対して著者はヒントを与えてくれます。この論は、おもに知的活動について、若い人のために書かれているので、わたしのような大学生にまさにぴったりの助言が多くあります。

  1. 世の中のためになると自分が信じられることに従事すること。
  2. 日々働くことを習慣づけること。まずは思いきってやり始めること。
  3. もっとも容易なところからはじめること。無理に目次に従う必要はない。
  4. やる気がなくなったら別の仕事をすること。
  5. 新聞や不必要な社交に時間をとられすぎないよう留意すること。
  6. 何度も同じところに戻り、何度も繰り返すこと。そうすれば完成度が上がる。

こうやって書くととてもあたりまえのことですね。やらねばならないと思える仕事に従事し、毎日ともかくも少しはとりくむこと。平易で健全な感じのする、著者の文章を読んでいると、あたりまえのことが反発を生まずに心に入ってきます。

これは世の中のために必要だ、と思える活動に従事できるのはとても幸せなことです。しかし、それを常に感じていられるほどわたしはまだ強くなく、ときどきいろいろな雑念にとらわれて何が大事なのか見失ってしまうことがあります。そんなとき読み返すと、少し元気になれる本だと思っています。

自分で学ぶひと(鷲田小彌太、五月書房、011211)

この本を、何度目かに読み返してもっとも目についたのは、
独学する力のある人ほど、正規のスクール、学校教育を通過したほうがいい
という、一見奇妙に見える一文でした。独学は、楽しいです。好奇心というのは人間の持つ、かなり強い欲求のひとつであり、それを満たすと、気持ちがいいです。自分の興味の対象を思うままに掘り下げるならばなおのことです。しかし楽しいからこそ、そこに落とし穴があります。誰からも評価されないというのも寂しいですけれども、もっと本質的な落とし穴があるのです。 この本の中に、40年かけて独力で「二次方程式の解法」を「発見」した人の話が出てきます。大昔のことではなく、戦後のことです。そのエネルギーと能力は素晴らしいかもしれない。「その過程こそが財産だ」といえなくもないかもしれないけれど、やはりこれは、無駄ですよね。そういう危険が、独学にはあります。 そしてもう一つ。独学だけだと、大事なところが抜けてしまう可能性があります。
趣味の段階から専門の段階に転じるときに、趣味の人は専門に転じれないんですね。…中略…共通レベルのところが欠けていたり、虫食い状態のため、他の領域では使い物にならないんです。
独学は、楽しいです。今は世の中にたくさんよい本が出まわっていますから、独学でたくさんのことをこなすことが可能です。授業もほとんど、教科書に基づいて行なわれます。例えば医師国家試験に、教科書に載っていないことが出題されることはまずないでしょう。そんな時代にどうして学校にいかなければならないか、教育を受けなければならないのか、不思議に思っていました。 上に挙げた内容は、一つの答えになりうると思います。正規の教育を受ける、もしくはまともに受けなくともそこで何が行なわれているのか承知しながら進む、その上で自分で学ぶのがよいのではないかと、思いました。そうすれば「大事なこと」を見落とすことなく、すなわち独学の落とし穴にはまることなく、しかも学ぶ楽しさを大いに感じることができるのでしょう。

本はどう読むか(清水幾太郎、講談社現代新書、011209)

若い人間にとっては、自分の職業が決定されると同時に、人生の問題は解決されてしまうからである。もちろん、それで問題の全部が完全に解決されるということはないけれども、その大部分は解決されてしまう。

人生の意味なんてものは人間それ自体の中にあるのではなくて、人間と社会とのかかわり、すなわち、職業にある。そして、それゆえに、職業を決定するということは自分の人生の意味を決定することにつながる。これが筆者の主張でしょう。さらに言えば、職業を選択・決定したあとは、人生に悩むにしてもその職業の範囲内で悩むだけであるといえると思います。自分自身を振り返ってみても。

そして職業を決定して、そのなかで考えるようになってくると、こんどは、現実が無視できなくなってきます。それがどういうことかというと、ある意味で思想が穏健になるわけですよね。「大人になったよねえ」と、言うでしょう。その言葉は、「無茶を言わなくなったねえ」という言葉のかわりに用いられることが、多いように感じます。

活字の世界に生きるだけの純粋思想なら、いくらでも急進的になれるし、いくらでも破壊的になれる。けれども、それが本当に社会を変革する力を持つためには、それが家庭という場所へ入り込み、そこに腰を透けなければならない。…中略…リアリティのテストに堪えた時、思想は恐ろしい力で世の中を変えるであろう。

学生には、しがらみがほとんどありません。職業もなければ(たいていは)家庭もない。親兄弟はいても、養う対象、守る対象ではありませんよね。その、しがらみのない中で眺める思想というものは、やはり、しがらみがある中で眺めるそれとは違って見えて当然だと思います。

とすると、学生のうちに、「社会に出たら」読まないような本を読み、「社会に出たら」考えないようなことを考えるのは無駄なのでしょうか。わたしはそうは思いません。きっとそれらは、そのときどきに必要なことなのだろうと思うからです。ただ、ある時期にきたら必要がなくなるだろうしそうなったからといって特に嘆く必要はない、それだけのことなのでしょう。

嫉妬の時代(岸田秀、青土社岸田秀コレクション、011205)

わたしは嫉妬ぶかい人間であると自ら認めておりますので、この本を見たときに思わず手が伸び、借りて帰って、そして一気に読んでしまいました。

嫉妬というのは、「自分が当然持つべきものを相手が不当にも持っているときに、相手に対して感じる憎しみの感情」と定義されます。そして、嫉妬の対象となる「もの」は、直接的にはもちろん物や人、名声などでもありましょうけれども、その陰には、岸田いうところの幻想我が隠れています。幻想我とは、自分こそが全知全能だという、人類普遍の幻想です。現実世界に生きる都合上、皆、幻想我をしぶしぶなかったことにして生きていると、岸田は定義しています。嫉妬に話を戻すと、相手はどうも、自分が所有すべき全知全能気分を謳歌しているらしい、ずるい、という感情が、嫉妬だということになります。もちろんその相手が全知全能気分を謳歌しているわけではありません。そう見えるだけ、自分がそう思いこんでいるだけなのですけれども。

嫉妬という感情は、人間がもともと幻想我をもっていて、しかしそれを抑圧しなければならない、この現実において、不可避のものであるといえます。幻想我と現実の自分がかけ離れていればいるほど、嫉妬は起こりやすいです。でも、すべてのひとが幻想我を持っていて、しかもそれを抑圧しているとすると、嫉妬を感じない人はいないということになります。 それはしかたのないことだと、岸田はいいます。相手を貶めようとしてみたり対象に価値がないと思いこもうとしてみたり、そういう悪あがきはすべて意味がないといいます。あきらめなさい、認めなさい、というわけです。そうすればそれ以上被害が大きくなることはない、と。

なんて後ろ向きなんだ、とはじめは思いました。でも、嫉妬は消えるものではないというのは経験とも合致します。目をそらしても存在するものは消えないから、自分が嫉妬していると自覚して、そこから目をそらすために注いでいたエネルギーを節約するのが賢いかなあと、今では思っています。


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