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読書記録No.006(010629-011110)◆

教祖の文学─小林秀雄論─(坂口安吾、新潮文庫「堕落論」所収、011110)

小林秀雄をなぜ教祖と呼ぶか。文学の「奥義」を極めたゆえに文学から離れてしまったと、安吾が感じているからです。小林がしばしばいう「歴史の必然」が、文学の「奥義」にあたります。しかし、歴史の必然なんてものがもしあるならば文学なんか存在し得ないと、安吾は言います。そんなの、剣術の奥義を極めたら剣をもう持たないようなもので、剣を持たなくて何が剣術だ、というのです。

文学とは生きることだよ。
自分という人間は他にかけがえのない人間であり、死ねばなくなる人間なのだから、自分の人生を精いっぱい、よりよく、工夫を凝らして生きなければならぬ。人間一般、永遠なる人間、そんなものの肖像によって間に合わせたり、まぎらしたりはできないもので、単純明快、よりよく生きるほかに、何物もありゃしない。
小林に曖昧さをもてあそぶ性癖があり、気の効いた表現にみずから思いこんで取り澄ましている態度が根底にある。

小林秀雄の評論が、安吾の言うとおりのものであり、安吾の言うように責められるべきものであると仮定しましょう。小林がそうならざるを得ない理由は、理解できるような気がします。わからないというのは居心地が悪い。わからないままでそれでもよりよくと願いながら日々生きるには、たいへんな強さを必要とすると、わたしは思います。わからないとついわたしは、なんとか法則を見出して必然であると思いこもうとしてしまいます。「気の効いた表現にみずから思いこむ」ことであたかも「わかったこと」であるかのように取り扱い、わからなさという居心地悪さを、闇に葬ろうとしてしまうこともあります。

でもそれでは、なにか大切なものを見失いそうな気がします。何でもかんでも「わかる」ことができるなんてのは、とても傲慢な態度であるかもしれないとも思います。わからないものをわからないと認識する力と、わからないという居心地悪さに耐える力。わたしがいま、切実に必要としている力です。

教えるということ(大村はま ちくま文庫 010916)

教師の仕事と医師の仕事は、よく似ていると思います。どちらも「先生」業であり、自分に厳しくないとどこまでも堕落してしまうという危険性を持つという意味において。ですから、よき教師になるための方法は、きっとよき医師になるための方法と共通しているはずだと、思っています。

教師の条件は、何よりもまず自分が学ぶものであることだ、と著者は説きます。子供は学びたい、成長したいと思っている、その思いを共有せずに子供の感情を理解するなど不可能である、というのです。そして、子供ひとりひとりに合った教育、それぞれの子供が持つ、成長したいという気持ちを引き出し、さらに伸ばすような教育を追求する限り、自分自身が日々研究せずにはおれないはずだと。

子供が好きであるとか、子供に好かれているとか、それはもちろん大事なことです。でも、教師の仕事は、子供といっしょに幸せに過ごすことではありません。子供にこの社会でよりよく生きる力を、つけさせることです。そこを勘違いしてはいけないというのです。

これはきっと医師にもいえることだと思います。医師の場合、相手が子供とは限らず、慕ってくれるとも限らず、また、残念なことに、「人が好きでたまらないから」医師になる人ばかりではないので、教師の場合よりも、「いい人」であることがもてはやされがちであるような気がします。しかし医師の仕事というのはもちろん、病気を治すこと、治らないまでもなんとか付き合っていけるお手伝いをすることなのですね。患者さんの自己管理が問題になるとしても、自己管理をしようという気を起こさせるのは、専門家である医師(および医療関係者)の仕事でしょう。患者さんになるべく快適に過ごしていただくのは当然ですけれども、そこに安住してはならない、改めてそう思います。

そして最後に。生徒に慕われ、感謝されるというだけではまだまだ二流、三流である。先生に助けられたことにも気づかないまま、生徒が自分やり遂げたことを自分の力であると感じられるような指導をする教師こそが、一流であると説く一節がありました。自己顕示欲の強いわたしには難しい注文ではありますけれども、でもそれはとても大事なことだと思います。わたしの目指すべき、ひとつの方向ではないかと思いました。

夢見る人びと─自立と依存の精神病理─(三浦弘史、民衆社、010803)

著者は、健康的な、適度な依存こそが、精神衛生上非常に重要であると説きます。人が他人とのかかわりの中で生きている以上、完璧な自立はありえないのですから。そして筆者は、依存することと夢を見ることは、本質的に同じであると説きます。 何かを夢見ているということは、夢に依存して生きているとも言い替えられる。反対に、依存するということは、依存する対象に甘い夢を抱いていると理解できる。

甘い夢、というと、現実を見ろ、と言いたくもなりますけれど、現実のみを見て、まったく夢も希望もうぬぼれもない人生を想像すると、ちっとも面白くなさそうですよね。と言うより、そのような人生は、そもそも不可能なのだと思います。夢見ることなくして、人は生きることができないのでしょう。

しかし現代は、夢を持ちにくい時代であると、筆者は説きます。地域社会が消失して何事も全国レベルで考えなければならなくなり、「村一番の○○」「町一番の○○」が意味をなさなくなってしまいました。平均寿命が延びて、でも先行きが明るいとは言いがたい状況です。そして、モノが豊かになり、すぐ手に入るようになったおかげで、夢を信じて待つ、すなわち夢を持ちつづける力が低下してしまいました。

でも、わたしたちは、夢を持ちつづけなければ、幸せに生きることは難しいわけです。そして、夢を持ちつづけるには、現実に合わせて夢を適宜修正できるだけの柔軟性が必要です。「少年よ、大志を抱け」は真実でも、そのまま大人になれる人は少数ですから、どこかで夢に、修正を加えなくてはなりません。夢を捨てる必要はない。ただ、少しずつ修正を加えるだけ。 自分の足で立つといっても、半分は頼っていいのである。いや、いくらかは支えてもらわなければ、人間は自立できるものではないのである。問題は、その半分、自力で立つということさえも甘えて放棄してしまう、人間の弱さなのである。

絶望することなく、さりとて大きすぎる夢に足元をすくわれることなく。依存と自立のバランスをとるのは、決して簡単なことではないと思います。そのバランスを体得するのが、大人になるということなのかもしれません。

信州に上医あり─若月俊一と佐久病院─(南木佳士、岩波新書、010802)

この本で取り上げられている若月俊一は、長野県にある佐久総合病院の院長です。「農民のために」のスローガンのもと、彼は住民を啓蒙し、農村医学会を設立して農村特有の疾患を研究し、地域の健康診断をいち早く実施してその効果を立証し、佐久病院を長野県下随一の大規模病院にしました。

さて医者の仕事は、第一義的には患者を治すことです。でも、一人の医者が、地域の医療行政を変え、ひょっとしたら国の医療行政さえ変えてしまうことも、実際にあるのだと、この本を読んで知りました。上医は国を医す(いやす)といいます。目の前の患者を相手にするだけにとどまらず、患者の住む地域社会の医療行政や衛生環境まで改善するのが、名医だというのですね。そうすることによってはじめて、多くの人を救うことができるし、また、患者さんの問題もより根本的に解決することができるのでしょう。そのような「上医」には、目の前の患者さんだけを診るときに必要な能力に加えて、また違う能力も求められるような気がします。

筆者は、難民医療チームの一員としてタイに行き、貧しい農家を目の当たりにして自分のできることの小ささに愕然として、はじめて若月の偉さが身にしみたといいます。どこから手をつけていいかわからないようなひどい状況の中で、絶望せずに立ち向かうバイタリティー。今すぐに、との人々の要望と、これからの長い時間を視野に入れた長期計画の調和を取りながら両方を進めてゆける視野。理想に走るだけでなく、ときには清濁併せ呑むような、度量の広さも必要かなと、自戒を込めて思います。

東京ではおなじ知識人である山口判事が建前を第一にしてヤミ米に手を出さずに餓死していた昭和二十二年十月、若月は信州の山の中で本音を優先してヤミ米を買いまくっていたのである。

このエピソード、大好きです。建前を貫く山口判事もかっこいいですけれど、ヤミ米は患者給食のためでもあったわけで、建前のために患者を犠牲にしてはいけない。こういう態度はアリだし、かっこいいと思います。

町野先生の診察室1 患者が主役 (町野先生、径書房、010731)

町野先生は、どこにでもいる、町のお医者さんなのだそうです。ひょっとしたら今でも日本のどこかで診療をなさっているのかもしれません。

「一に養生、二に養生、三、四がなくて、五に薬」

これが、町野先生のモットーです。医者をはじめとする医療従事者が病気を治すのではなくて、患者さん自身が病気を治す。医療従事者はその手助けをする。いまではずいぶん、こういう考え方も一般的になってきましたけれど、この本が刊行されたのは1987年ですから、当時にしてはずいぶん先進的ですよね。さて養生といえば… 「よく噛んで、腹八分目、いつもニコニコ」

このレベル、すなわち養生のレベルで解決できることならば、わざわざ医者が出てくることはないのですね。「仕事をしたぞ」という気分は味わえるかもしれない。報酬も得られるかもしれない。でもそれは、はっきり言って、無駄なわけです。

さて診察する段になっても、町野先生は、余計なことは極力しません。

よく聞く、よく見る、よくさわるというのが、診断ではとても大事なんですね。いろいろと容態を聞いてあげるだけで、患者さんというのは半分くらい良くなっちゃうんですよ。そしてさわることですね。
検査をおろそかにするというのではないけれど、それ以前にする仕事をしないと、患者さんとのコミュニケーションはできないということですね。そして聴いたり触ったりした上で見当をつけて、次に検査になるということです。

わたしの目指すのはこういう医療です。確かに医療技術はどんどん進歩してきました。それは使えばいい。機械に任せられるところは機械に任せ、人間は機械にできないことをすればいい。でも、技術の進歩と引き換えに失われつつあるものがたくさんある気がするのですよ。だんだん、人間の治療と機械の修理に差がなくなってきているような。でも医療が相手にするのは人間です。人間が人間を相手にするのであれば、手を当ててよくなるように念じてみる、そういうこともきっと大事だと思うのです。そういうことを十分やって、その上で最新技術を適用するのが、あるべき医療の姿ではないでしょうか。

「カルト」の正体。(別冊宝島編集部編、宝島社文庫、010726)

カルトって、何なんでしょうねえ。気に入らない集団があると「カルト」呼ばわりする、そういう用法を見かけないわけではありません。でもそういう使い方をするには、あまりにイメージの強い言葉ですよね。しかしじつは、カルトという言葉に、はっきりとした定義はないそうです。本書は、「カルト」の暫定的な定義から始まっています。 カルトとは、ある人物あるいは組織の教えが絶対であると教え込み、基本的人権や憲法、憲法の精神を否定し、法違反を行う集団である。

何でたくさんの人が、「カルト」に入ったのでしょう。本書の中で、興味深い議論がなされています。「カルト二元論」です。カルトは、ものごとを極端な善と極端な悪に分けてしまうというのです。地獄に落ちるか、この教団に入って永遠の救いを得るか、と言われたら、たいていの人は永遠の救いを求めてるでしょう。実際には、その教団に入らなくても地獄に落ちないかもしれない。けれども、そのような第三、第四の選択肢は、決して示されません。実際問題として選べる道は一つしかない。でも選んだのは自分であり、自己決定であることに間違いはないわけですね。

何でそんなに極端に走るのか。二元論成立の条件には、孤立があります。外部とのコミュニケーションを断ち、仲間同士のコミュニケーションも断ってしまう。他の選択肢が、入ってこないのです。何か本人が思いついたとしても、なかなか自信を持てない。

そうして組織に入ってしまうと、二元論がますます現実味を帯びてきます。いまさら離脱したら、滅びてしまう。それにある意味、いろいろなものごとに対する決定をある人やある機関にゆだねてしまう快楽、みたいなものがあるのかもしれません。依存すると楽、というのと同じような意味で。そうするうちに、ますます活動にはまってしまう。立ち止まってしまったらそれまでやってきたことを否定することになってしまうからです。

カルトという明確な形をとらなくても、それに近い状況は意外とありがちなのでしょう。結局、自分で考えること、自分できちんと考えているかどうか時々自問自答してみること。意志をあやつるのがカルトであるだけに難しいのですけれど、自衛手段としてはそれがもっとも大事なのではないでしょうか。

先天異常を理解する(飯沼和三・大泉純・塩田浩平、010715、日本評論社)

先天異常とは

先天異常というのもなかなかあいまいな概念で、生まれたときにわかる疾病をさす場合と、ある疾患が発病することが生まれたときにすでに決定していることをさす場合があります。後者の意味をあらわすには、(狭義の)遺伝病という言葉がありますので、ここでは、前者の意味で用いることにしましょう。

先天異常の原因として、まず思い浮かぶのは環境要因です。しかし、環境が原因であると言いきれる先天異常は全体の約10%であり、中でも、医薬品や化学物質が原因とされるのは、全体の1%に満たないとされています。同様に、遺伝因子(親がその遺伝子を持っている場合も、もっていない場合もあります)が明らかになっている先天異常も意外と少なく、全体の約15%と言われています。では残りの75%はというと、原因不明、もしくは、多因子遺伝といって、これだ、という明確な異常遺伝子が見つからない遺伝です。

そもそも、ヒトには、先天異常が多いのです。胎児に重大な異常が発生するとその胎児は死亡し、流産が発生します。自然流産の頻度は意外に多くて、受精卵のうち実際に新生児として生まれてくるのは22%という数値もあります。これは、人間の生殖可能期間が長いからでもありましょう。また、このような先天異常の起こりやすさ、「変化」の起こりやすさが、人類という種の進化を推し進めてきた可能性は、否定できないと思います。

何が言いたいか。先天異常は親のせいではありません。また、自分が先天異常を持たなかったこと、また、先天異常の子を産まなかったことは、単なる偶然の結果、単なる幸運でしかなく、自分が優れていること、「前世で」よいことをしたとかそういうことを示すものでは決してないこと。そう、他人事ではないのです。 おそらく、生存のための競争に勝ち残ったものは、正常な精神の持ち主ならば、戦死したものに感謝の気持ちをいだくだろう。先天異常の多くの患者は、もっと多くの感謝の気持ちを健康者たちから送られて当然なのである。

このように考えると、先天的に障害を負った人々を大事にする、そういう人たちが気分よく生きていけるようにするのは、特別なことでもなんでもなくて、あたりまえのことなんだと、思えてこないでしょうか。

「治らない」先天異常に対して

先天異常には、対処可能なものもある一方、「治らない」(治療法がない、治療しても予後が悪い)ものがたくさんあります。状況によっては、治療をしないという選択も、現在のところではありうるかもしれません。医療資源は限られていますし、すべての人に、治る見込みの有無にかかわらずとことんまで医療を行うというのは、非常に難しいときもあるでしょうから。しかし、治療を続ける/続けない、その選択は誰が行うのでしょうか。治らないからといって、ただそれだけの理由で、臨床医はさじを投げてもいいのでしょうか。

本書の中に、イギリスにおける二分脊椎の治療指針の例があげられています。1960年代、二分脊椎の患者をすべて延命させる、という決定を行ったイギリスでは、1970年代はじめに、医療財源が枯渇してしまいました。そこで医師側と医療を受ける側(患者の親の会組織も含む)は何度も話し合いを持ち、結局、重度障害で予後が明らかに悪いものに対しては、積極的な治療はしないことが決められました。この決定は、倫理的批判を受けつつ、今でも通用しています。この例から学ぶべきことは、ひとつには、この決定が、できる限りの治療を積み重ねた実績から導き出されたものであること。もうひとつには、この決定が、医者だけによってなされたものではなく、患者の親など、国民全体との話し合いの中でなされたものであること、です。国民に医学的知識がない、というならばその知識は提供されねばなりません。すべて何とか治療して、最後まで面倒を見るのが理想ですけれど、それがもしかなわないなら、どうするのかをみんなで決める必要があるわけです。

ここまで大きな話でなくとも、個々の事例において、関係者(本人が無理ならその家族)と十分な話し合いを持つことは、非常に重要だと思います。医療は、医療を受ける人の人生を左右しかねない行為であり、そのような行為を、本人に相談することもなく勝手に行ってしまうなんて、とんでもない話ですよね。

そしてみんなで話し合うためには、そのベースとして、正しい知識と、実はひとごとではない、という認識が不可欠なのだと思います。そして医療を行う側も、その結果を負うのは患者さん自身なのですから、自分自身でよく考えていただくよう、それができるよう、配慮していく必要があるのではないでしょうか。

「考える」ための小論文(西研・森下育彦、ちくま新書、010705)

小論文の本です。小論文の本ですけれども、それと同時に、書くことについて、考えることについての本でもあります。ていねいに、深く考える(そして、書く)というのはどういうことか、この本は教えてくれます。わたしは、書くことと考えることは非常に近いと考えています。考えるというのは、頭の中にあるもやもやした想念に言葉を当てはめていくことであり、書くというのは、当てはめた言葉を外部に記録することだと考えています。外部に記録すれば、その考えを突き放すことができるようになります。そうして吟味することで、より他者に伝達しやすい形に変えることができるようになるでしょう。

この本の半分は、西研が書いています。わたしは西研の文章が好きです。彼の文章は丁寧なのです。考えのプロセスが飛躍しないのです。言葉を省略しない、といってもいいです。あいまいな言葉、難しい言葉でごまかすことをせず、わたしたちがふだん慣れ親しんだ言葉で、一つ一つ論理を積み上げていきます。論理は積み上げていくのですけれども、途中であとを振りかえっても、これまで自分がたどってきた道が見えるのですね。

恐らくそれは、彼の思考のスタイルでもあるのでしょう。文章は、思考のスタイルを表します。文章がていねいな人は思考もていねいなのだと思います。ていねいに考える、深く考える。それについては、森下育彦がこの本の中で定義しています;

「深く思考する」というのは、性急に言葉を見つけようとしないこと、「もやもや」に何度も立ち戻って、じっくりと言葉を探すことである。

ていねいに考えるというのは、結局、なるべくぴったりくるような言葉を探す、その努力を指す言葉かもしれません。たくさんの言葉にあたることによって、「まさに、この言葉で言い表されるべき概念なんだ!」という確信が深まっていきます。ちょうど、おおざっぱなデッサンを描いておいてから、少しずつ細部にとりかかるように。言葉を探すその過程で、考えの輪郭がだんだんはっきりしてくるのですね。そのようにして輪郭のはっきりした言葉は、他者に理解してもらいやすいでしょう。そしてそのように輪郭のはっきりした考えこそが、思考の名に値するものではないかと思うのです。

本はどう読むか(清水幾太郎、講談社現代新書、010703)

どの本を読んで「感想を書こう」などと思いついたんだっけなあ、「論文の書き方」にも書いてあったけどもっと根本的な本があったはずだがなあ。「忘れない工夫」として紹介されていたんだがなあ…この本でした。

本の内容を忘れたくない、とすればまず、ノートに書物の大意をまとめますね。全部まとめると、大いに勉強した気になります。でも、やっぱり中身はおぼえていません。まあ、覚えていないというわけでもないのだけれど、労力に見合うほどおぼえていない。カードを作ってみたりもします。手間ばかりかかって埒があかない。

というわけで、結局、「読んだ本の感想を書く」という方法にいきつくわけですね。書物の内容が頭に入った時点で、それを自分の言葉で書き直す。一字一句写すのではないから、どうしても「自分で」書くことになります。 著者の書いた言葉を読み、それが伝えてくれる観念を理解するという行為であって、その結果、いろいろな観念が読者の心のうちに蓄積されていく。読者が著者自身でない以上、普通、それは無秩序に蓄積されていく。書くというのは、この無秩序に蓄積された観念の一つ一つを適切な言葉で表現し、これらの言葉を或る秩序に従って順々に排列するという行為である。この行為は、一般に、読書とは比べ物にならぬほど大きな精神的緊張を伴う。

書くという行為は、頭の中にあるもやもやした想念に形を与えることだと、わたしは思います。もやもやした気分というのは三次元で、かさばるためにそのままではわたしたちの頭に収まりきれません。だから書いてみる。文字は一次元ですね。はじめから終わりまで一方通行の、流れがあります。一次元になおしてしまえば、巻くなり結ぶなり、コンパクトに頭の中に整理して収めることができます。

そのように考えると、読むというのは、一次元(文字の羅列)として書かれた情報を頭の中で三次元に戻すことになります。そしてそれを書くことで、再び一次元になおすわけですね。たんぱく質を消化してアミノ酸にして、それを使って自分の使うたんぱく質を作るようなものでしょうか。そう考えると、自分の栄養とするにはそれくらいしなければならないのかな、と思えてきます。

大人のスピード勉強法(中谷彰宏、ダイヤモンド社、010629)

大人の勉強法に欠かせない要素は、スピードです

というわけで、いかにして速く勉強するか、の本です。この本自体、すぐ読めます。

速く読むには、買ってきた本をその日のうちに読むこと。何分で読む、と決めてしまうこと。薄い本をとにかく通してしまうこと。わからなくても気にしないこと。 わかるところが得るものだ。

わからないところがあるのなら、後で読み返せばよい。いずれにせよ、わかるところしかわからない。わかるところが現在の自分のレベルであり、また別のときに読めば別のところがわかるようになる。

速く書ければ、速く考えられる。消しゴムを使わず、スペースは贅沢に使う。紙の裏は使わない。なんでも文字化する習慣をつけ、思いついたことはその場でメモする。

つまり、スピードを意識すること、とりあえずでもなんでもいいからはじめること。はじめてしまってから、走りながら、考えること。 そして学んだことはすぐ使ってみること。この読書記録もその一環。

この本に書かれた勉強法は、少なくともここに挙げた範囲では、しばしば実行しています。 解剖学も神経解剖学も、図書館にあるだけの薄いテキスト(厚いテキストは読んでない)を読み漁りました。どれだけ残っているかは知りませんが、イメージはつかめたと思います。本当はテストが近い組織学もそうしたほうがいいんですけどねえ…ま、このへんは好みが関わってます。

消しゴムを使わず、スペースを贅沢に「書いてみる」のは、テスト勉強にも有効です。昔は小さい紙にいかにちまちままとめるかに心を砕いていたけれど、大きなスペースにどん!と書いてしまったほうが速いです。

すぐ読めて、しかも役に立ちます。実行すると楽しく勉強できるアイディアがたくさん載っている、オススメ本です。


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