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読書記録No.004(010327-010606)

お医者さん(なだいなだ、中公新書、010606)

昭和45年、健保改正前後に書かれたエッセイですが、今でも十分新しいです。かなり昔から手元にあったのですが、医学部に入って読み返すと、さらにしみじみよく分かるような気がしてきます。

「昔は、『医は仁術』だったのに」→「本当に仁術だったのだろうか」、「お医者さんは金儲けばかり考えている」→「ほんとうにもうけるためにやっているんだろうか」「医者は冷たい」→「冷たくあらないと、人間的な医療にならないのではないか」

いわゆる「当たり前」な考え方を、一つ一つ検証し、ひっくり返していきます。特に、「医は仁術ではなかった」の章は面白い。現在、医者に向けられている非難を全て裏返すと、そこに現れるのは神の像だと、いうのですね。なぜ医者=神なのか。それは、原始宗教においては、病を癒すことがその主要な役目のひとつであったからだといいます。そして昔を冷静に振り返れば、技術は発達していなくて今ならどんな医者にも治せる病気が不治の病であったり、親の薬代を払うために娘が芸者に出たりしていた。なんといっても、町でもっとも裕福な人々に、お医者さんは数えられていたのですから。たまには貧乏人の治療費をタダにしたかもしれない。しかしそれは、それだけの余裕があったからでもあるわけですね。そういう事情があっても、先に「今の医者はけしからん」というのがあって、それにあわせて事実を取捨選択するから、「まったく近頃の…」となってしまう。もちろん、仁術を追求していかなければ、ならないのですけれどもね。仁術を目指すのはいいのだけれど、その目指すべき仁術が過去に存在したと考えるのは、どうかなと。

この見方、なだいなだはいろいろなエッセイで展開しています。こういう見方ができるっていいな、とわたしは思います。これも一種の哲学かしら?上手な考え方、という意味で。

きみのためにできること(村山由佳、集英社文庫、010606)

この物語の主人公は高瀬俊太郎という新米の音声技師です。彼には故郷に、つきあいはじめて5年になる恋人、ピノコがいます。俊太郎は忙しくて、なかなか故郷に帰れないしピノコにも逢えないので、彼らはメールで日々やりとりをしています。これが書かれたのは1996年。まだ携帯電話もあまり普及してなくて、i-modeなんて存在しておらず、メールといえばインターネットというより「パソコン通信」だった時代です。だから操作を描いた場面では「?」なこともいろいろあるのですけどそれはまあよいでしょう。

この物語のテーマは二つ。「メール(ことば)は便利だけど、でも、メールだけでは伝えられないことがあるんだよね」「大事にしていたものがそこにあることに慣れてしまうとなんとなく面倒臭くなったりしてほっといたりするんだけど、でも、そのうちにそれをなくしてしまうようなことになったらやっぱりとてもしんどいんだよね」どちらのテーマも、とてもよくわかります。

メールは、確かに気持ちを伝えるには向いていても、お互いを抱きしめることまではできやしない。どんなに思いのたけをつづった手紙でも、相手が三十秒抱きしめてくれる温かさにはかなわない。僕が今ピノコのためにできることがあるとすれば、それは、青い夜明けの底をひた走って、彼女に会いに行くことだけだった。こんなに単純で、だけど大切なことを、僕は自分だけの忙しさにかまけてずっと忘れてしまっていたのだ。

コミュニケーションにおいて、70%の情報は非言語的に伝達されるそうです。表情や身振りや声の調子やその他いろいろ、それらはとても重要な伝達手段です。たぶん、エネルギーはそうやって、空間を通じて伝播するのだと思います。メールも電話もファックスも自由につかえる現在において、直接会うことの重要性はますます増しているのではないでしょうか。

医療最前線の子どもたち(向井承子、岩波書店、010602)

国立療養所香川小児病院についてのレポートです。この小児病院は、『永遠の仔』の舞台にもなりましたね。本当に本当に重度の障害を持つ子、病院から出られないまま大人になり、老いていく人々、そういう人のいる病院です。もちろん、元気になって明るく退院していく人々もいるのですけれど。

慢性疾患(いわゆる「生活習慣病」も含む)の子どもがいて、精神疾患の子どもがいて、超未熟児がいて、先天異常の子どもがいます。こういう子ども達が存在するということを、見なければ、見ないですめば、楽なのかもしれないけれど、現にそういう子ども達は存在します。

たとえば重い先天異常の子どもが生まれたとしましょう。治療をすれば社会で生活できる程度には回復するかもしれません。でも、回復しないかもしれない。それは、やってみるまでわからない。社会で生活するとして、それに必要なだけのサポートは得られるのか。家でみるとして、誰かが犠牲にならねばならない、ということはないのか。さらには、「こんな子どもを産んでしまった」と、その親が周りから差別されることはないのか。

「万難を排して助けよ」言うのは簡単です。でも親の不安は強い。「子どもを不幸にすることはできない。でも、親を不幸にすることもできないのです」といっても、「助けない」という選択をする親は、その選択をせざるを得ない時点で、十分に不幸です。

「助けられるものは、助ける。」「生きていけるなら、生きていけるようにサポートする。」というのが、医療の基本姿勢ですよね。本人が延命治療を拒否しているならともかく、拒否することも、要求することもできない子ども達の心を「推し量って」、勝手に延命治療をストップしたりしていいのかなあ。でも、現実にケアできないのならどうしようもないのかなあ。

子ども自身だけでなく、親もケアするシステムが必要です。地域で、少しずつでも手を差し伸べてあげられたら。自分の身に降りかかることでなかった、という保証は何もないわけで、明日はわが身、じゃないけど、自分自身もいつそういう立場に立たされるかわからなかったのだから、本当は他人事では、ないのですよね。

重症児を診る医師の言葉。「自分がこうして協力することが、どのような形で子どもたちに戻されてくるのか教えてほしい。」「子ども達は取材に応じる義務はないし、もしもいやでも何もいえない子どもたちなんですよね。そういう現場に入る意味を、向井さんはどう捉えているのですか。」これは、ときに実習などで病院を訪れる、わたしにつきつけられた言葉のように感じました。

Dr.キリコの贈り物(矢幡洋、メディアファクトリー、010530)

1998年年末から1999年初めにかけてメディアをにぎわせた、「青酸カリ宅配事件」についてのノンフィクション・ノベルです。「青酸カリ宅配事件」とは;「草壁竜次」を名乗る男性が、インターネット上で知り合った女性に青酸カリを「宅配」し、それを受け取った女性の一人がその青酸カリを飲んで自殺してしまった、という事件です。

この本は、草壁竜次から青酸カリを受け取っており、また、彼ともっとも緊密な協力関係にあった女性、木島彩子へのインタビュー(メールによるもの)および、そのほかの関係者(PTSDのサバイバー、「あい」)へのインタビューから再構成された物語です。

草壁竜次も木島彩子もあいも、それぞれに、現代人にありがちな悩み(?)を端的に表現していてかなり興味深いです。草壁竜次は正義感が強くて曲がったことが嫌いで融通がきかない、という、少年物語の主人公みたいな人なんですけど、それゆえにまわりに受け入れてもらえない。木島彩子は、「よく考えたらこの世の中の何もかも意味なんてないじゃない」と「気づいて」しまって、生きていくのがしんどくて仕方ない。あいは、典型的な児童虐待の被害者であり、他人との関係の作り方を学んでいないために、他人との親密な交流を求めているにもかかわらずそれがどうしても得られない。しかも父親による身体的・精神的虐待が続いている。

そういう「現代人の素描」的側面も面白いのですが、それ以上にわたしが惹かれたのは、草壁竜次が青酸カリを持っていた理由、また、他人に配っていた理由です。それは、「これがあればいつでも死ねる、だからもうちょっとだけ頑張ってみよう」と、自らを奮起させるために使うべきものでした。これ、とてもわかる気がするのです。わたしはもちろん青酸カリなどもっていませんけれど、「どうしてもダメならまあ、人生を終わらせる方法だってないわけじゃないから」と自分を奮い立たせるときは時々あります。「一人治療文化」としては悪くないのではないかと思うのですが、どうなのでしょう。

美しき少年の理由なき自殺(藤井誠二・宮台真司、メディアファクトリー、010530)

今から3年ほど前に、宮台真司に「はまって」いました。今はそうでもないのですが、この本はかなり気に入っています。

この本の内容というのは、以下の通りです;宮台真司のファンである、S君が自殺します。その友達が、藤井誠二(宮台真司としばしばともに仕事をするノンフィクションライター)に連絡をとります。S君の自殺と彼の考え方には密接な関係があり、その考え方を形成したのは宮台の思想ではないか、というわけです。そして藤井は宮台にその旨連絡をし、二人はS君日記を読んだり、関係者に会ったりしながら、S君の自殺を考察していきます。

結論だけ言うと、S君が死んでしまったのは、「人生はそこそこ楽しいかもしれない、でも、世界に意味なんてない。」という観じ方のせいではないかということになります。わたしの読んだ限りの宮台真司のメッセージというのは、「終わりなき日常を生きろ」(というタイトルの本も宮台は書いています。)、すなわち、「この世界は、クライマックスの来ることのない、目的もない、淡々とした日常の繰り返しである。その中で、まったりと脱力して、でもそこそこ楽しく生きよう」ということなんですよね。S君は、そこに引っかかってしまった。彼は容姿の非常に優れた青年だったし、コミュニケーション技術にもたけていて、「人気者」になることは簡単だったけれど、「人気者」でいることに意味を感じられない。宮台のまねをして、テレクラで「出会い」を繰り返してみたりするんだけど、救われない。日記から感じられるかぎりでは、彼はどのような出会いも「分類・分析」しないと気がすまなかったみたいです。でもそんなことをしているから、ますます楽しめない。意味なんて見つからない。ますます落ち込む。

このようにまとめて書くと、「なあんだ」と思ってしまったりするのですが、「これって、意味あるのかなあ?」という問いは、わたしも共有しています。「意味あるのかなあ?」を突き詰めていくと、かなりの確率で、「意味なんてない」に到達してしまいます。暫定的な意味はいつでも見つかるけれど、それだって突き詰めれば「意味」になってくれない。S君の悩みは、他人事ではないのです。

だったらどうすればいいのか。本の中にも書かれていますけれど、「意味はないけど、楽しい」に転換するしか、道はないのかもしれません。「将来のために」という物語も、今ではほとんど崩れてしまったから、まずは「現在のために、現在を」生きるしかないのかもしれません。頭ではわかっていても、どうしても「意味」を探してしまうわたしは、またいずれ、この本を開くことになるのでしょうけれど。

分数ができない大学生(岡部恒治・戸瀬信之・西村和雄編、東洋経済新聞社、010518)

2年ほど前に非常に話題になった本ですね。今、続編の「小数ができない大学生」も出てます。

要旨としては、「とくに私立文系学生の数学能力が落ちている」「それは入試科目にないからだ」「しかも、『数学は不要だ』という論議が幅を利かせている」「確かに二次方程式を生活で使うことはないかもしれない」「でも数学は必要だ」「厳密に、論理的に思考するトレーニングになる」「初等数学を完全に理解するためには、その次の数学を学ばねばならない。たとえば一次方程式を理解するためには、二次方程式を理解することが必要である」「たとえ本当に必要ではないとしても、現在の科学技術の基礎には数学があるのだから、一度でも頭を『通して』おくことは決して無駄ではないだろう」という感じです。

なんだかこの論議、ともすれば「役に立たない」の一言で切り捨てられてしまいそうな他の多くの科目にも、適用できそうですよね。今すぐに役立つ知識、ってのは、往々にして応用が利かないからなぁ、とか、思ってしまいました。

空の色紙(帚木蓬生、新潮文庫、010429)

帚木蓬生、初期短編集です。「空の色紙」「墟の連続切片」「頭蓋に立つ旗」の三篇がおさめられています。

どれもわたし好みですが、中でも取り上げたいのは彼のデビュー作「頭蓋に立つ旗」です。帚木蓬生の母校九州大学と思われる大学医学部、解剖学教室の名物教授石郷教授の話です。10カ国後を読むことができ、毎年初回の授業ではラテン語を暗記して板書し、黒板に描く図は教科書のものより正確で細かく、毎年何人もの落第者を出すという。その石郷教授の内面にはさまざまな葛藤があります。たとえば戦時中の人体実験(彼は関与しないが恩師が関与・・・彼はあえて蚊帳の外に置かれていた?)。息子の先天性障害による死亡。学生には気持ちが通じない。通じないどころかどんどん離れていく。

小説のストーリー、というより、石郷教授の人物造形そのものが、医学を学ぶ、現在まさに解剖学を学んでいる、私に何か大切なことを伝えようとしているような気がするのです。

「装飾に過ぎないような骨の突起、あってもなくてもいいような溝、気紛れについたような粗面、偶然の産物としか思えない稜線、それらはきみらが考えるように無意味なものではない。突起から筋が起こって粗面に付き、溝には血管が入りこみ、稜線の陰に神経が走るという風に、どんな些少な部分にも理由がある。ましてそれらはきみら自身の一部ではないのか。自分自身に関する限り我々は知りすぎるということはないのだ。」
「いいかい。血管の一本一本まで確かめながら腑分けされた屍体と、表面だけ取り繕って切り刻まれたものとはひと目見ただけでも判るものだ。君たちはこの人に対して済まないとは思わないかね。」

誰のために愛するか(曽野綾子、角川文庫、010404)

両親の本棚に転がってました。ひょっとして母が結婚前に読んだのかしら、と期待したのですが発行年を見る限り結婚後に購入したもののようです。うーむ、ちょっとつまんないなあ。

題名を見て分かるとおり、恋愛と結婚についてのエッセイです。この人の書くものは、概してごくまっとうだから好きなんですよね。変に理想に走ることがない。偽悪的でもない。「え、そうなん?」ではなく、「やっぱそうだよねえ」という感覚です。

ステキな夫婦になってはいけない、滑稽でいい、凡庸でいい、でも、それを20年、30年、と続けていくのはやっぱりすごいことで。そう言い切る曽野綾子は、きっと、人間(自分?)というものに対して過剰な期待を抱いてないんだろうと思います。だから淡々と軽やかな文章が書けるのではないかと。

この本に、ぜひ紹介したいセリフが一つあります;

人を愛するって申しましても、そうそう心から愛せるときばかりじゃございません。そんなときでもまず、態度だけはその方のためになるように優しくいたします。そこから始まるのです。

広島に原爆を落とす日(つかこうへい、角川文庫、010328)

なかなかショッキングな題名ですよね。この題名だけでもつかこうへい、なかなかやるな、と感心してしまいます(こういう反応をするのは私が広島人だからでしょうか)。もちろんフィクションです。史実を下敷きにしたパラレルワールド。大本営は京都にあるし、東条英機→東郷英樹、山本五十六→山岡五十六などなど、昭和史に詳しい人ならもっと楽しいかもしれません。

主人公は犬子恨一郎。朝鮮王族の子で、戦争に負けて母ともども日本に連れてこられています。とても才能のある人で、海軍少佐に取り立てられています。この小説では、彼が真珠湾攻撃を指揮し、大和を作り、大和を沈め、原爆投下のスイッチを押すのです。彼は、誰よりも日本のために働きます。才能があるから、使えるのが彼しかいないから、いろいろなことを任されます。でも「朝鮮人だから」、少なくとも表立っては評価されない。はなはだしくは「国(朝鮮)を売った」などと、日本人からも朝鮮人からも非難されたりするのですね。

もう一人の主人公として、恨一郎の恋人、髪百合子がいます。彼女の一族、髪一族は、代々葬式の泣き女、兼、刺客をつとめる一族です。恨一郎と結婚の約束をしていましたが、彼女はそれを一方的に断ります。「あなたが朝鮮人だから」…本当は、そうでもしないと恨一郎の身に危険が及ぶからなんですけど、それは言えない。彼女はヒットラーに、アメリカに宣戦布告をさせるため、ドイツに送りこまれます。

そう、この小説のでは、世界はこの二人によって動かされるのです。

恋する男と女が添い遂げようとしているんです。国の一つや二つなくなりますよ。

全編こういう調子です。この手のせりふは何度か聞かれます。国がなくなっては困るんですけど…でもこの世の、いろいろな出来事が起こったその元になるエネルギーって、実はその辺にあるのかもしれませんよね。

左手に告げるなかれ(渡辺容子、講談社文庫、010327)

第42回江戸川乱歩賞受賞作の推理小説です。保安士(スーパーやデパートで万引きを取り締まる人)の八木薔子が主人公。八木の元不倫相手である木島の妻が殺害され、その嫌疑が彼女にかかります。彼女はその疑いを晴らすべく自分で捜査をはじめます。推理小説なのであらすじはこのへんで。

主人公の八木さんはなかなか好感の持てる、というか、共感のしやすい人物です。心理描写が細かいせいかな、気持ちの動きがあまり抵抗なくこちらに伝わってきます。しかし私がなんと言っても好きなのは坂東指令長。一人称が「坂東」で、男言葉を話す女性です。なんだかさばさばしていていいんだなあ。八木さんの気持ちを的確に見抜いて短いけどぐっとくるアドバイスをくれるところがよいですね。

あと、保安士やコンビニの内幕も詳しく書き込まれています。わたしはこのどちらもあまりよく知っているわけではないので正確かどうかは判断しかねるのですが、もし虚構であったとしてもここまで綿密に構成するなら許す!というレベルです。あと、万引きを行う人々、特に裕福な主婦についての描写は注目に値すると思います。

一気に読みきれる本です。再読ですがかなり新鮮な気持ちで楽しめました。


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