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読書記録No.003(010111-010326)

兎の眼(灰谷健次郎、理論社、010326)

灰谷健次郎の小説はほとんど読みました。その中で、これが一番好きです。初めて読んだのは小学生のときで、難しい漢字に下手な字でフリガナがふってあるのが散見されます。そう言えばこれを読んで、小学校の先生になりたいと思った一時期があったなあ、と思い出しました。

小谷先生という新任の先生と、彼女が受け持つ一年生のクラスの話です。その学校には「処理所」(=ゴミ処理所)に勤める親を持つ子たちが通学しており、彼らは陰に陽に差別を受けています(こういう言い方は好きじゃないんですけどね)。小谷先生のクラスには鉄三という、言葉を全くしゃべらない、気に入らないことがあるとかみついたり引っかいたりするという、問題児がいます。ハエを飼っています。処理所の子です。話は、小谷先生と鉄三を中心に展開していきます。

小谷先生ははじめ鉄三の行動にかなりショックを受けます。どうしてそうなるんだろう、と考えるうちに、同僚の足立先生の影響もあって、だんだん処理所の子どもたちと深く関わるようになり、鉄三も心を開くし、小谷先生も成長していく、そういう話です。なんだかこういうふうに書くとありきたりなユートピア物語みたいなんですけど…

ユートピア(=どこにもない場所)物語かもしれない。けれど、この物語は、そのために努力するに足る目標、理想像を示してくれていると思います。小谷先生は子どもと関わりすぎているかもしれない。自分の幸せ、というものだけを考えるならそこまでしなくてもいいのかもしれない。そこまでしなくてもいいのだろうけど、そうすることで、彼女はきっと、なにかとても大切なものを得ていると思うのです。

この話では、小谷先生と足立先生(&バクじいさん=鉄三の祖父)が対比されているように思います。小谷先生は若い。どちらかというと幸せに育った、お嬢さんです。だから偏見がない。視線がまっすぐだと思います。それに対して足立先生とバクじいさんは、過去にとてもつらい経験をしています。自分のために人が死んだということを認識しています(「みんなひとの命を食べて生きている」と表現されています。)。それゆえに、優しさと厳しさを同時に持ち合わせています。

久々に読んで、あたしが思い浮かべていた理想の人生ってこんなんだよな、と思いました。小谷先生みたいにまっすぐ努力したいし、いつかきっと、足立先生やバクじいさんみたいな優しさと厳しさを持てるようになりたいです。

医学生(南木佳士、文芸春秋、010316)

久々の更新となりました。この本は,このサイトをはじめる直前(当時の記録によると,2000年11月12日)に読んでずっと気にかかっていた本です。わたしが病院実習に行こうと思いついたきっかけの本でもあります。

表題どおり,医学生の話です。舞台はできたばかり(二期目)の秋田大学医学部。医者である著者の自伝めいた作品です。といっても主人公は4人;東京から来た,別に医者になるつもりのなかった開業医の息子和丸、長野の旅館の息子であり在学中に年上の女を妊娠させてしまい結婚することになる雄二,長野の田舎から出てきた真面目な優等生京子、そして、高校教師を辞め家族を養いながら医師を目指す修三。

出てくる登場人物はなんだかそのへんにいそうな人たちです。基本的にはなんだか重苦しいような日常が続いていくだけです。雪国の冬が暗いせいでしょうか。でもその中でちゃんとイベントは起こって,医学生ならではのイベントももちろんあって,そういう中で四人が成長していくところが妙にリアリティーがあってわたしはこの小説,好きです。四人いるからその時々で誰かに自分を重ね合わせることが可能ですし。

ただね、この人の書く小説に出てくる医者は,特にターミナルを扱う医者は,なんだか疲れているのですよ。解剖学講師の依田さんは内科を10年やっているうちに胃と十二指腸をやられて解剖学に移ってきているし。京子が実習に行く先の病院にいる呼吸器内科の上田さん(この人憧れです♪なんだか飄々としていてかっこいいです。「兎の眼」の足立先生みたいな?)はうつ病にかかって第一線を退き,人間ドックにいるし。これは,この作者の実感なのでしょうけれどそういうものなのでしょうか?気になります。

医者という職業の内容は多様であり,病気の予防をする者,行政に参加する者、診断する者、治療するものなどさまざまであるが、すでに晩年という言葉を意識し始めている修三は、自分は看取るものであろうとしていた。
「おらあ、死んだらどこ行くんだべ」
老いた漁師が聞く。
「海だよ、この広い海に還るんだよ」
修三は病室の窓を開ける。
「死んだかかあもいるなあ」
「ああ、いるよ」
「海荒れで死んだ仲間もいるなあ」
「ああ、いるよ」

わたしも、「看取る者」を選ぶかもしれません。先のことは分からないけれど。

神の汚れた手(曽野綾子、文春文庫、010206)

産婦人科医院の物語です。産婦人科だったら日常に出会いそうな日々の物語。

高校生が中絶手術を受けにやってきます。かと思えば、どうしても子供の出来ない夫婦が不妊治療にやってきます。生まれてしまった子供を養子に出そうとあちこち駆けずり回る人がいるかと思えば、中絶手術の失敗で結局子供を産むことになり、それでよかったな、と思う人がいます。外見は女で、自分も女と思って過ごしてきたのに、生物学的には男という人がいます。待ちに待った子供が、ラストチャンスであるにもかかわらず、奇形であることが分かって、ずっと世話をするわけにも行かず、中絶せざるを得なくなる人がいます。貧しい家庭に奇形の子が生まれて、どこかで早く死んでくれないかな、と思いつつ、やっぱり育ててしまったりします。

事実は小説より奇なり、と言いますよね。実際にこの世界のあちこちで今起こっている現実は、もっと切羽詰っていて、もっと一筋縄では行かないのかもしれません。わたしは、この小説の中でもかなり、何が正しいのか、どうすれば最も誠実なのか、さっぱりわからないという気分を味わいました。現実世界はもっとすごいんですよね、たぶん。

主人公の産婦人科医、貞春と、その友人の瑶子、そして瑶子の友人の神父さんの会話がなんだかよいです。悟ったような、悟らないような。でもそういうふうに生きて行けたらいいな、と思うような。なんだか覚めていて(冷めていて、ではなく)淡々と語ってくれるところがよいです。以下に少しだけ引用します;

人間はいつだってどこかで生き損ねているんですよ。
自分を肯定するためではないが、たとえ医者ではなくとも、誰もが皆いいことも悪いこともしている。生かしも殺しもしている、ただ医者は直接にそれをやり、多くの人は間接的にしかするチャンスがないというだけの違いである。
人間は本当はその程度にいい加減であった。「オレ」が死ぬのは困るが、「アイツ」が死ぬのなら致し方ないのである。そしてその現実を認めさえすれば、痛みながらも心は楽になるのに、多くの人々は、なぜある人間が理由もなく死ぬかについて、本来無理な理由を何とかしてこじつけようとしてきたのであった。
素直と正直は、昔からいいことだったんですけどね。それは、いざという時には嘘をつける能力も自制心もあった上のことでね。自分もなくて素直だなどというのは、いわゆる愚民ですよ。この世でもっとも危険な分子だ。もっとも、それでもなお、生きていく権利はありますよ。

火車(宮部みゆき、新潮文庫、010204)

怖いです、はっきり言って。面白いので何度も読み返すのですが、そのたびに電気をつけっぱなしで寝る羽目になっております。(そういう怖さではないような気もしますが…)

休職中の刑事、本間俊介が、遠縁の男性に頼まれて彼の婚約者、関根彰子の行方を探すことになります。しかし調べるにつれて、彼女は「関根彰子」でないことがわかる。入れ替わっているのです、ほかの女性と。戸籍・名前を乗っ取って。

入れ替わる、というのは、怖いですよ。戸籍を扱ったミステリーには時々見かけるのですが、自分が自分であるという確信が揺さぶられるような恐怖を感じます。戸籍なんて、物理的には単なる紙の束に過ぎないとは思うのですけれど、それはつまり名前および血縁の証明書、であす。名前および血縁というのはかなり根源的な、自分が自分であることのよりどころ、みたいなところがあるでしょう。だから、戸籍が乗っ取られるというのは恐怖なのでしょうかねえ?

「関根彰子」を追いかけていく過程はスピーディーでよそ見のできない展開です。分厚いけれど、途中で飽きないです。サブキャラが時々深いせりふを言うのも見逃せません。眠れぬ夜には、ぜひ、って、もっと眠れなくなるかしら?

コミュニケーション不全症候群(中島梓、ちくま文庫、010203)

コミュニケーション不全症候群とは,一言で言うと,知り合いでない他人を人間として知覚できなくなる知覚障害のことです。どうしてそうなるのか。それは人間が増えすぎ,この世界が過密になっているから。たとえば満員電車の中で,目の前の人を一人一人きっちり認識していたらやっていけないように,この人口過密状態に過剰適応した状態が,コミュニケーション不全症候群だというのです。だってわたしたちには、もう自我を打ち立てるだけのスペースが残されていないから。著者は言います;

多くの他人から交換を持たれれば持たれるほど,その個人の個人としての居場所は大きくなる。今や人間にとって,最後の王国は他人の心の中にしかないからなのだ。一人より五人の,五人より百人の,百人よりも一万人の心の中に縄張があれば,それだけその個人はたくさんの保証を得て,安定するだろう,というか安定するだろうという錯覚を持ち得るだろう。

著者によると,我々はみなコミュニケーション不全症候群。その急先鋒として,彼女は,オタクと拒食症(彼女言うところのダイエット症候群)を挙げます。オタクはさまざまな競争,人間関係の軋轢から自分一人の世界にいわば身を引いて,機械もしくは漫画の世界に閉じこもってしまった状態。生身の人間より機械のほうがよいのですね。それに対してダイエット症候群は,社会が与えてくれるあまりにも狭いスペースに身をさしはさもうとわが身を削りつづける状態。女の子は選別に(オタクになるなどして)背を向けることさえできないから。女の子は,常に選別されるべき存在だから。自分も他人も,選別する対象(=商品。人間扱いとは言えないですよね。)とみているからこその発想?

他の人々を自分の存在の保証としてだけ見ることをやめなさい,と私は云いたい。

このせりふが,わたしにはぐさっときました。だれかに「君はここにいていいんだよ」と言ってもらおうとあれこれ画策するのではなく,ただ、「あたしはここにいていいのよ。だってここにいたいんだから。」と胸を張ること。そして、自分が他人を人間として見ていないことがあるかもしれないと,時々振り返ってみること。なかなかできないんですけど、ね。

れとると(なだいなだ、角川文庫、010129)

この本とのつきあいは、長いです。わたしが高校1年のころからだから、かれこれ10年近くになります。市立図書館で読んで、泣きそうになったから借りて帰って、ことあるごとにまた借りて、手に入れたくなったんだけど絶版で、古本屋をさんざん渡り歩きました。

この角川文庫版には、表題作の「れとると」のほかに、もうひとつ、「トンネル」という短編が収録されているのですけれども、ここでは、「れとると」についてのみ、言及することにします。

精神科医(「私」)が、不登校の小学6年生ユキを、治療する話です。平行して、「私」がはじめて受け持った患者、テル子とのエピソードが語られます。主題は…いわゆる、陽性の転移感情。心理療法をすすめていくうちに、患者が医者に対して、愛情、ときには恋愛感情を、抱いてしまうこと、です。

そう、一つの病気が、それが人間の精神の恥部から発していることがある。その病気の秘密を探るために、人間は裸にならねばならない。その恥じらいを消すことができるのが、愛というものだ。ある意味で、患者が自分の秘密を告白できるまで、十分に、医者は愛されねばならぬ、ということだ。

だから、心理療法は、診察室という閉鎖空間の中に、閉じ込められていなければなりません。診察室の外に持ち出してしまったら、それはもう、治療ではありませんから。でも「私」は、ユキとの面接の中で、あえて、診察室から出ます。家を訪ね、車で外に連れ出します。そうでもしなければ、心を開いてはもらえないと判断するのです。そしてやっぱり、ユキは「私」に対して恋愛感情を抱いてしまいます。当然、この関係は、診察室の中にもう一度戻されねばなりません。そこで、

「先生にとって、私は結局、一人の患者にすぎなかったのね」

というユキのせりふが、出てくるわけです。

昔、これを読むたびにわたしが泣いていたのは、きっと、ユキに自分自身を重ね合わせていたからでしょう。当時、わたしのことをとても可愛がってくれる先生がいて、「でもこれは、先生-生徒の関係があればこそなのよね」と頭では分かっていてもそれを直視するのが怖かったから。恋愛感情だとまでは、自覚していませんでしたけれど。これからはわたしが、転移をひきうける側になるのよね、と、この話を読んでも泣かなくなったいまは、思うのです。

犠牲(柳田邦男、文春文庫、010129)

次男を自殺で失った、柳田邦男の手記です。次男が精神を病み、自殺に至る過程と、自殺後、意識不明の状態から脳死、そして心臓死へと至る過程が、平行して記されています。

脳死へと至る過程もとても興味深いのですけれども、わたしには、次男(洋二郎)が精神を病んで、苦しんでいる過程を、柳田邦男が記憶と洋二郎の日記からたどっている部分のほうが、よりしみじみと共感できるように思われました。自分自身のかつての姿、あるいは、ありえたかもしれない姿を、そこに重ねているからかもしれません。

心を病むものは、限りなく人恋しく、人の愛を求めている。棘のない平凡で穏やかな会話を求めている。しかし現実に人に接すると、たとえ友達であっても、過度に気を使い、緊張し、気楽な会話ができなくなる。そして、人付き合いの下手さを意識して、ますます苦しむことになる。

ほんとうに、そうなんだよなあ、と思うわけです。そして、「自分は誰からも必要とされていない、誰の役にも立っていないんだ!」という感覚。本当に健康な人ならば、「というわけで○○をしよう」とか思えるんですけれども、病気でエネルギーが低下していると、気があせるばかりで何もできない。身体は元気なだけに、まわりも分かってくれないし、何より、自分が自分を責めてしまう。甘えなのか正当な苦しみなのか、わからなくなってきてしまって、ますますしんどいわけです。

もちろん、自殺はしてはいけないことですし、自殺した人を過度に賛美するような傾向は厳に慎まなければならないと思います。親の欲目も入っているだろうし、あえて書かなかったこと、もしくは見えなかったこともあると思います。でも、わたしとしては、洋二郎さんには、よくがんばったね、と言ってあげたいのです。

鋭い感受性を持ち、他者の苦悩を深く理解することのできた洋二郎さんは、幼い日から傷を負われ、病を持ち、挫折し、知らずして多くの人のために、身代わりになられたのではないかと思います。

この感覚って、とても大事だと思うし、そういうふうに感じられる人間でありたいと思います。

閉鎖病棟(帚木蓬生、新潮文庫、010122)

病気はほとんど治っているにもかかわらず、引き取り手がいないために長い長い間精神病院に入院している患者さんたちと、心的外傷のために学校に行けなくなって通院するようになった中学生の少女の物語です。

精神病院は舞台になっていますけれども、近頃はやりの(?)異常心理ものではありません。むしろごくごく「まとも」な人々の物語です。病気、という背景は、登場人物一人一人を明確にし、また、一人一人の抱えているさみしさ、みたいなものを浮かび上がらせる働きはしていますけど、病気だからどうこう、という視点はないように思います。

一人一人の過去は、とてもとても悲しいものです。精神を病むということ、病まざるを得なくなるということ、それは本人にとって、また、その本人を大事に思うまわりにとって、とても悲しいことであろうと思います。でも、それでもなお、幸せになることは、可能なんだろうと思いますし、そうでなければならないと思います。たとえばわたしが、いま、そういう病気にかかっていないのは、いくつかの幸運な偶然の積み重ねに過ぎないのですから。

精神科医である帚木蓬生が、こういう物語をかけたというのは、ひょっとしたら精神科医になるかもしれないわたしにとって、とても励みになります。最後のほうに出てくる新しい女の医師、新川先生は、わたしの憧れ、ですし。読めばこれから生きていくためのエネルギー最大値がきっと大きくなる、そういう小説です。

患者はもう、どんな人間にもなれない。秀丸さんは調理師、昭八ちゃんは作男、敬吾さんは自衛隊員、ドウさんは大工、キモ姉さんは芸者、ストさんは会社員、ハカセは医師、テシバさんは畳屋、という具合に、かつてみんなは何かであったのだ。おフデちゃんだって、働いたことはないが、内科医院のお嬢さんだった。それが病院に入れられたとたん、患者という別次元の人間になってしまう。そこではもう以前の職業も人柄も好みも、一切合財が問われない。骸骨と同じだ。チュウさんは、自分たちが骸骨でないことをみんなに知ってもらいたかった。患者でありながら患者以外のものになれることを訴えたかった。

近代絵画(小林秀雄、新潮文庫、010111)

トーンを元に戻して、小林秀雄、です。小林秀雄といえば「モーツアルト」が有名ですね。確かにあの評論もすごいとは思うのですけれども、この「近代絵画」のほうが、わたしとしては思い入れが深いです。単に音楽より絵のほうが好き、だからかもしれません。

扱われているのはモネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ルノワール、ドガ、そしてピカソです。ほかの画家も時折登場します。わたしとしては、ゴッホの章が一番面白かったです。彼の生涯が一番、切実だったからでしょうか?

時々画集におまけのようにくっついている、画家の伝記とか製作事情の解説とか、そういうものとは迫力がぜんぜん違います。いろいろな人の研究とか、画家自身の残した書簡集とか、絵ではないものもたくさん参照しながら、このひとは自分の言葉で語っている、そういう気がします。たぶん、自分が受けた衝撃の大きさを、正直に表現しているからなのでしょうね。そういう正直さって、保つのは、結構難しいのではないでしょうか?

惜しむらくは図版がほとんど白黒です。できれば画集を手元において読みたいですね。ちなみにわたしは、ドガの画集、これを読んで買ってしまいました。

以下に挙げる文章は、ゴッホの書簡集について書かれたものです。わたしにはかなり、ぐさっときたのですけれど…?こういう厳しさが、全体を通して見うけられる、真剣な本です。

自分自身を守ろうとする人間から、人々は極く自然に顔をそむけるものである。他人を傾聴させる告白者は、むしろまったく逆なことを行うであろう。人々の間に自己を放とうとするであろう。優れた告白文学は、恐らく、例外なく、告白者の意思に反して個性的なのである。彼は、人々とともに感じ、ともに考えようと努める。まさにそのところに、彼自身を現してしまうのである。ゴッホの手紙が、独立した告白文学と考えても差し支えないような趣を呈しているのも、そういう性質による。

天使の卵(村山由佳、集英社、010111)

「夜明けまで1マイル」紹介したらこれも再読したくなってしまいました。で、読んでしまいました。結構何度も読んでますね。数えてませんけど。短いです。分かりやすいです。すぐ読めます。でもって、泣けます。主人公の歩太(あゆた)くん、いい子です。年上の春妃先生(精神科医)にぞっこんほれてます。あれ?なんだか「夜明けまで1マイル」と設定が似ているような気が…わたしは2冊とも、大好きなんですけどね。

いま手元にあるのは県立図書館で借りたハードカバーで、表紙は青い海。村山由佳の小説は、色にたとえれば、たぶん青、ですね。空の青でも海の青でもいいんですけれど。ありそうで、でもやっぱりなさそうで、いろいろと悲しいこともあるんだけど、なんだか静かで、どっか救われているような。感傷的に過ぎる、との意見もありそうですが、感傷にひたるのもたまには悪くないですよ。


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