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読書記録No.002(001211-010109)

夜明けまで1マイル(村山由佳、集英社、010109)

母&弟の、「もっと柔らかい本を!(Nの書評リストなんて読んでる人いないんじゃないの?)」とのリクエストに応えて、ふつうの(?)恋愛小説です。non-no連載時から、友人と二人で毎回チェックしてました。non-noの他の記事はあまり読んでなかったんですけど…。これが村山由佳のマイベストです。

身もふたもない言い方をすれば、教師(マリコさん)と学生(涯くん)の不倫+幼なじみのバンド仲間、うさぎと涯くんの淡い恋物語の同時進行、なんですけど、語り手である涯くんの心理がかなり克明に描写されてて、かなり感情移入しやすいです。迷っているところも、遠慮したり、嫉妬したりしているところも、きちんと書きこまれています。男性が主人公なのに、あんまり違和感なくシンクロできます。マリコさんのこともうさぎのことも大事に思っているのに、マリコさんに対するときと、幼なじみ(うさぎ)に対するときとでは涯くんの態度および感情にギャップがあって、でもどちらもとても自然で、とくにうさぎに対するほうはなんだかほほえましくて、村山由佳、うまいぜ!って感じですね。

でもさ、「運命の恋」なんていう特別なものがどこかにあるわけじゃないんだよ。ゆうべ、涯が寝ちゃってから考えてたの。あたしが生きられるのは、どうやったってひとつの人生だけなんだし、どれほどいっぱい素敵な人がいても、全部と知り合うなんて不可能なんだしさ。それどころか、本当の意味でちゃんと知り合えるのは、その中のほんのひと握りなわけじゃない?だから、運命なんていうけど、それってきっと、タイミングとか、相性とか偶然とかをそういう言葉で呼んでるだけなんだと思う。

ドグラ・マグラ(夢野久作、角川文庫、010108)

「奇書」ですね。「読んだ人は発狂する」とのうわさも聞いたことがありますが、わたしの経験から言って大丈夫です。

一応推理小説のジャンルに分類されているようですが、推理小説として読むとちょっと期待はずれかもしれません。推理小説として読むより、この本自体を、異世界として体験するつもりで読んだほうが楽しめると思います。胎児の夢(胎児が、母親の胎内で、生物の進化と先祖の経験を追体験するとの説)、とか、心理遺伝(先祖の記憶が子孫に伝わる)、とか、あまり堂々と語られるので、一瞬そういうもんだったかな、とだまされそうになりますね。角川文庫版で上下2冊、これだけ読み進むうちには、その世界にどっぷりつかってしまいます。これが「発狂」説の真相?

主要登場人物の一人、正木博士の天才(マッドサイエンティスト)ぶりがみものです。狂気の天才、って言葉がぴったり。

<狂い>と信仰(町田宗鳳、PHP新書、010107)

ふっと、水木しげるの妖怪談義を思い出すような、そういう本です。水木しげるも、たしか、だんだん街が明るくなってきて、夜にも照明が絶えなくなって、妖怪の住みかがなくなってきてしまって、でもそういうのって、人間にとっても妖怪にとっても、あんまりいいことじゃないんじゃないかな、というようなことを言っていましたよね。そういう談義を、比喩レベルから議論レベルに持ってきた(まさか水木しげるを参照したわけではないでしょうが)のが、この本かな、と思います。

この著者はいろいろな宗教を遍歴してきた人で、禅やキリスト教、法華経を例にひきながら、いろいろな宗教の底に潜むと思われる「狂い」について論じていきます。「狂い」というのは、人間の、理性とほぼ対極にある、どろどろしたエネルギーのかたまり、ですね。神もその一種でしょうか?祭りとか、儀式とかで、ちゃんと「狂い」を表に出してやらないと、とんでもないときにとんでもない規模で「狂い」が爆発してしまって、取り返しのつかないことになると。で、「狂い」を外に出してやって、それを乗り越えてもう一度穏やかな日常生活を取り戻す、それが「悟り」だとか「救い」だとかになるんじゃないかな、と。

それを考えると、いまコンピュータにはりついているわたしも含めて、自分の周りのできるだけたくさんのものをなんとかして理性で割り切って、デジタル的に納得して頭にすっぽりおさめてやろうとか思っているのは、ちょっと身のほど知らずかな、と思えてきます。だんだん無機質になっていく街並みを眺めながら、これでいいのかな、とかね。

人と神の接点が<狂い>にあるとしても、その<狂い>の経験が祭りの興奮やトランスにおける恍惚の感覚においてのみ可能なのではない。そのような<狂い>の経験は、どちらかといえば特殊であり、むしろ<狂い>が人間の意識領域に進出してくるとき、狂おしいほどの絶望や悲しみという苦悩の形を選び取るほうがはるかに多い。そのような精神の痛みを歓迎する人間はいないだろうが、その否定的な体験の中にも、大きな啓示が隠されているのである。

心を知る技術(高橋和巳、筑摩書房、010115)

カウンセリングの本です。といっても、カウンセラーになるための本ではありません。カウンセラーになったつもりで読み進むことで、ひとの心および自分の心をもっとよく知ろう、そういう本です。

カウンセリングのステップは、3段階に分かれます。受容>気づき>自立、です。受容、は文字通り相手(クライアント)を受け入れること。具体的には、助言をせずにただ相手の言うことを「わかるよ」というメッセージを出しながら聞くこと。気づき、は、相手(クライアント)が、それまで自分を縛っていた思いこみから自由になること。気づくためには、まず絶望しなければなりません。そのとき、カウンセラーに受容されているという安心感が必要となります。最後の自立、は、クライアントが元気になって、もしくは成長して、カウンセラーと対等な立場に立つこと。ここまで来たら、お別れですね。少なくともカウンセラー・クライアント関係としては。

語り口が柔らかくて読んでて幸せな気分になります。また、ふつうに生活している人が生活の中でカウンセリング技術を生かせるように、カウンセリングの場を描写しつつふつうの人間関係にも逐一言及してあるので、とても役に立つ本だと思います。特に「受容」の章は、その気になれば読んだそのときからでも、ひとと話をするときなどに使えるでしょう。

「先生、私はこの10年間を取り戻せますか?」私は、多分取り戻せるでしょう、と答えていた。私の答えは単なる気休めではなかった。カウンセリングによって心が整理できれば、10年、20年という時間も取り戻せる。「普通の」生活以上の価値を知ることができれば、時間の見方も変わることを私は知っていた。私が出会った何人かのクライアントが私に教えてくれたことである。彼らは言った。「この病気になってよかったですよ。病気っていうのは、不幸な事故や偶然の出来事じゃないんです。私にとってはとても大切なメッセージだったのです。」

わたし自身は、上に挙げた引用部分のためだけでも、この本を読んでよかったと思いました。

学校はなぜ壊れたか(諏訪哲二、ちくま新書、010104)

学校が、崩壊しているそうですね。わたしが中学・高校に通っていたころでも、父母から聞いた話と比べてみると、ある程度崩壊しかかってはいたのでしょう。しかしその後、崩壊の度合いはますます進んでいるようです。今の大学に通っていても、現役・一浪の皆さんとは少し世代が違うかも?と思ってしまったり。「外の世界には規範があって、自分が望もうと望むまいとあきらめて従わざるをえないものだ」というような意識が、どんどん薄れてきているというのは、さほど長い時間を生きているわけでもない私でも、自分自身についても含めて、感じます。

こういう話をすると、家庭でのしつけがなっていない、とか、受験受験で「こころ」(!)を無視した教育が横行しているからだ、とか、今の生徒は忙しすぎる、だとか、「お受験」が間違っている、だとか、いろいろな説が出てきます。

この本の著者のいうのは、子どもは変わってきた、でもそれは、家庭が悪いとか学校が悪いとかそういうこと以前に、子どもを取り巻く社会が変わってきており、その社会の影響をもっとも早く、もっとも強烈に受けるのが子どもであるがゆえに、まだ旧時代(それが悪いという意味ではありません)の気分で生きている大人から見るとエイリアンに見えるのだ、ということです。著者は、戦後の子どもを、社会構造の変かになぞらえて、「農業社会的な子ども」(規範は自己の欲望に優先する)・「産業社会的な子ども」(規範と自己の欲望は等価である)・「消費社会的な子ども」(自己の欲望は規範に優先する)に分類します。そしてそれらを、高校教師としての自らの体験を語りながら、描写していきます。

「世代が違う」ってのはこういうことか、と思ってしまいました。それと同時に、産業社会的な子どもから消費社会的な子ども(?)へと、ある程度意識的に変化してきた(らしい)自分自身の姿も見えるような気がしてきました。学校崩壊の本、というより、世代間ギャップの精密なレポートかもしれません。

「農業社会的な子ども」にとっては、教育や文化の伝達、知識を身につけることは自ら望む輝かしいものであった。戦前の日本の子どもたちも(おそらく)みんな学校へ行きたがったし、世界の発展途上国の子どもたちの現在もそうであろう。
「産業社会的な子ども」にとっては、学校へ行くこと自体が当然であり、必要なこととして受容されている。もちろん感度のいい子どもたちがいて、学校文化の指し示している近代の価値が、必ずしも人間や「この私」にとって有益なものばかりではないことに気づく。
「消費社会的な子ども」たちは、家庭が「産業社会期」まで引きずっていた規範性を喪ったので、子どもが成長する上で必要なオブセッション(抑圧)を受けないで学校に入ってくる。

人体部品ビジネス(粟屋剛、講談社選書メチエ、010103)

題名どおり、臓器だの組織だのの人体が(提供者にとっては「無償」であっても)商品化されている、その実態をレポートした本です。臓器を無償で「提供」するのは善行である、でも臓器売買はいけない、というのが、結構一般的な認識かな、と思うのですが、実際には腎臓なんか、インドなどでは結構簡単に売買されているみたいです。腎臓を売って、結局、一体何がいけないんでしょう?売ることと無償で与えることの間には、そんなに大きな開きがあるのでしょうか。そもそも、人体の一部を、他人に与えたり、他人からもらったりしても、いいのでしょうか。

私は、たとえば腎臓を売るということは、仕方ないのではないかと思います。

よいことだとは思いませんが、もしそれが、売る人の生活を改善したり、売る人の夢の実現に一役買ったりできるのならば、そういう意味で今のところ困っていないわたしが、それをどうこう言う権利はないかな、と思うのです。もちろん、そうしなくてよければそのほうがいいのですけれど、現段階では、それを根絶できるほど世の中豊かじゃないでしょう。それに、臓器を摘出したり移植したりするには、いずれにせよ人手が要り、薬も要り、設備も要りますから、結果的に、臓器には原料代はともかく付加価値がついてしまう。最終的な「値段」は、ゼロではないわけですね。無償で提供できる人はそうすればいいけど(代金を受け取らない、と言うのは自由ですが)、そうでない人もいるのだから、臓器を売って対価を得る、という道は残しておいていいのではないでしょうか。もちろん、臓器の流通自体をストップさせるというなら、話は別です。

ところで、なぜあなたは臓器を売るのか、という問いと、なぜあなたはインドのそのようなところでそのような境遇に生まれついたのか、と言う問いとの間の距離はどのくらいあるのだろうか。
しかしながら、そもそも基本的に、我々は今のところ、「人体」を離れたところで人間というものを考えることはできない。人類は誕生以来、肉体(身体)に規定されて生きてきた。これからも少なくとも当分の間はそうであろう。そうであるならば、「人間」の尊厳を担保するもの(手段)として「人体の尊厳」という概念を措定することはむしろ必要とされることであろうと思われる。

哲学の味わい方(竹田青嗣&西研、現代書館、001231)

また西研です。このひと、Dr.Nと挫折のパターンが酷似していて(「勉強なんかできてもどうしようもないじゃん」と思いつつそこにプライドを置かないとほかにプライドの置き所がなかったり、どっかに絶対の真理があるはずだ!と思っていたのにやっぱ違うかも、とショックを受けたり、あるところでかなり手痛い失恋をして「もう自分のこと好きになってくれる人なんていないんだろうなあ」とか、しばらくぼーっとしていたりね)、先達、って感じで、「そっか、そうすればいいのか!」と、とてもつぼにはまるのです。

西研(&竹田青嗣)の入門書としては、この本が最高ではないでしょうか?哲学・恋愛・就職・社会・自我と、カバーしてほしい分野は網羅してありますし、対談ですから読みやすいです。哲学、って、役に立たない学問の代名詞、みたいなところがありますけど、この本は、哲学を「使える」ようになるにはどうするかいいか、ヒントをくれます。しかも、哲学は怖くないってことを伝えてくれます。特にこの本では、二人とも若いころを思い出しながら語ってますから、いま20代くらいのひとはとくにピンと来るんじゃないかな。

要するに、向こう側にほんとうの生き方というものがあって、そこに行かなきゃいけないと思っていたんですよ。でも、そう考える必要はない、自分が自分自身を捉え返してそこから自分にとっての生きる可能性みたいなものを作り出していくことができるか、そこだけに実は課題がある、と現象学は言うんですよね。向こう側にあるものに追いつかなきゃいけないという強迫みたいなものを現象学の方法はちょっと取り払ってくれるところがある。それは強迫を持ってはいけないということではなくて、その強迫を持っている自分もいるということも含めて受容してしまっていいんだけれども、現象学の方法は基本的に、自分を肯定するという方向に向かっている考え方の方法だと思うのね。

「ケータイ・ネット人間」の精神分析(小此木啓吾、飛鳥新社、001216)

今年出た、現代を語る本の中で一番、かな、という感じがする本です。ネット世界への引きこもり、仮想世界と現実の混同、他人と全面的にかかわることを避け、それによって傷つくことを回避する内的引きこもり・1.5の人間関係、自己愛人間、モラトリアム人間、スーパーウーマン症候群…最近出た、社会病理についての本のレビューの様相を呈しております。「やさしさの精神病理」、「パラサイト・シングル」などとも、かぶるところがありますね。

他人と全面的にかかわることを避け、それによって傷つくことを回避する人(主流。かっこいいとされている。)に対して、全面的なかかわりを求める人は、かなり深く傷ついてしまってその結果引きこもったりストーカーになったりする、とか、「苦あれば楽あり」の「苦」を極限まで取り除いた結果欲望が薄まってしまった、とか、「みんな平等」の福祉国家の理念が行き渡った結果、どうして働かなくてはならないのかが不明確になってしまった、とか、思い当たる節がいろいろと。

あんまり自覚はなかったんですけど、あたしもしっかり、現代的な病理に染まってるな、と痛感してしまいました。たくさんのことが書いてあるのに、そのそれぞれについて「あ、それって、あるある!」とうなずける稀有な本です。

朱儒の言葉(芥川龍之介、岩波文庫、001212)

個人的には,この作品が芥川のベストだと思っております。彼の作品は,どれも短編で,ピリッとスパイスが効いた感じですけど,この「朱儒の言葉」は、1行・2行の世界で,その分内容が凝縮されて,しかも皮肉が効いていて,読んでてかなり楽しいです。あまり文学的すぎず,よってわかりやすいのもいい。書いてるほうは,しんどそうですけどね。こういう目で世界を見ていたら,そりゃー自殺したくもなるかなぁ,と思います。

火星の住民の有無を問うことはわれわれの五感に感ずることのできる住民の有無を問うことである。しかし生命は必ずしもわれわれの五感に感ずることのできる条件をそなえるとは限っていない。もし火星の住民もわれわれの五感を超越した存在を保っているとすれば,彼らの一群は今夜もまた篠懸を黄ばませる秋風と共に銀座へ来ているかもしれないのである。

現代広告の読み方(佐野山寛太、文春新書、001211)

広告は,はじめ、「人々に商品を繰り返し見せ,記憶させることでほしいという気持ちを起こさせる」ためのものでした。しかし、だんだん広告のあり方が多様化してきて,「とりあえず店に来てもらうための広告」とか、「自分たちの大きさを印象付けるための広告」とか、巧妙になってきています。

そして、広告産業は今やとても巨大で,ほとんどのメディアを支配しているので,メディアに流される情報は基本的に広告の延長であり,メディアを通して広告は,私たちの生活をコントロールしています。広告の効果を考えたとき,視聴率などの「調査」はとても重要な意味を持ってきます。だから、視聴率が最重要目標となり,視聴率工場を目指すあまり,テレビ番組がどんどん同じようなものになってしまうのですね。視聴者の,限られたメディア接触時間を,必死で奪い合っている。

この陰には,もちろん,企業のとても激しい競争があるわけで。その結果,みんな右往左往,踊らされている?なんか、レイ・ブラッドベリの「華氏451度」を思い出しますね。

小人閑居して不善をなす,という諺が言うとおり,われわれ凡人は,忙しさにまぎれていたほうがいいのかもしれない。暇になったら、テレビでも見ながら何も考えずに時間を過ごすほうがいいのかもしれない。少なくともその方が,あれこれ考えつづけるより楽なことは確かだ。「受身の時間」を積み重ねて「受身の人生」を送る「知らぬが仏」の人生。だが、「知らぬが仏」という言葉は「知ったら地獄」という意味を隠しているのである。人間が何も考えずただ前へ前へ走りつづけているうちに,それこそ「知ったら地獄」という事態がどんどん進行しているではないか。

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