いつくしみ深く 御父のように

       カトリック松山教会・担当司祭
        ルイス・グティエレス神父
 『自分を愛してくれるものを愛したからと言って、何の報いがあろうか。そんなことは、徴税人でさえもするではないか。自分の兄弟にあいさつしたからといって、何か特別なことをしたのだろうか。異邦人でさえも、そうするではないか』。
 今年2016年は『いつくしみの特別聖年』です。個人的に、実際的に、私たちは、何をどのようにしているでしょうか…。
 年間第22主日の福音にこの言葉がありました。キリストは『宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい…」(ルカ14 ・13)とおっしゃいます。これは物質的、外観的な意味ではなく、精神的な意味をもっています。すなわち、私たちは広い心をもって、恵まれていない人々を迎えなさい、と強調されています 。
 人間は誰でも好き嫌いがあります。気に入る人もいれば、気に入らない人もいます。これは自然です。しかし、私たちに諭されることは、もう1歩進んでそれらのことを乗り越え、その人々こそを迎え入れるようにと…。

 キリストが両腕を広げられたように、私たちも両腕を広げていつも兄弟たちを心から迎えなさいということなのです。特に恵まれない人々を。
 キリストご自身も、人生として、自然に罪びとに対していやな気持ちを感じられたのではないかと思います。それにもかかわらず、キリストはその一時的な反発を乗り越えて、心から人々を罪人たちをお迎えになりました。
 姦通の罪で捕らえられた女、7つの悪霊にとらわれていた人など、キリストは心からお迎えになりました。聖書は、このような話を数多く伝えています。
 キリストの言葉(福音)は、味わい深いものです。私たちは狭い範囲で人を判断したり、決め付けたりしないように。
 キリストの一番弟子であったパウロは、かつてキリストを迫害しました。そのうえステファノとの間に悲劇もありました。そういう訳で、パウロは回心した後も、ほかの弟子たちから冷たく見られました。『この人はアナニアから洗礼を受けたけれども、ステファノ殺しにも加担していた』と。
 パウロは、いつもその寂しさを感じていましたが、キリストの弟子の1人のバルナバは、そのような過去を取り立てず、心からパウロを迎えました。パウロはその温かい心と言葉を感じたときに喜んでその持てるすべての力を生かしたのです。
 日ごろ、私たちが歩む人生の道の両側には、倒れて救いを求めている人、ひとつの温かい言葉を求めている人、理解を求めている人が、ともすると見過ごしてしまうほど大勢いるのです。一人一人の心の中にこれらの人々を迎え入れることができますように。
 「人々を分け隔てなく、温かく迎え入れること」…それは、救い主のいつくしみの泉へと優しく招き入れることです。その泉とは教会です。キリストを信じる私たちが、それを行動で表していくこと、神から恵まれたいつくしみを具体的なしるしを通して証しすることです。
 ノーベル平和賞を受けたドミニックピールはいつも繰り返し「なぜ、私たちの心はある人に対して冷たいのでしょうか。人を見るときに一番気になり、目に付くのは自分の相違点です。しかし、意外と共通点も多いのです。共通点を見出すようになれば、人々を心から迎えられるでしょう」と。

  人間の体がそれぞれの働きと協力で成り立っているように、私たちの心も違った部分の色によってより豊に成長したいものです。
 広い心、迎える心、一歩進んで、キリスト的ないつくしみの心をもって周りの人々を温かく迎え入れることができるよう祈り求めましょう。