信仰の働き

       カトリック松山教会・担当司祭
        ルイス・グティエレス神父
 イエスは、重い病気を患っている友達のことを、そこまで心配している仲間の態度を『信仰深い態度』と断定します。
 屋根を壊したり、話を中断させたりすることは常識はずれの態度のように思えますが、イエスはそう思いませんでした。イエスの判断基準は違うのでしょう。
 そう言えば、これに似たようなことは教会にもよくあります。いつも静かにしている人々は良い人と見られがちで、いろいろな問題と関わっている人々に対しては批判が起こりやすいものです。
 その後者に対して目立ちたがり家≠セとか混乱を起こす人≠ニ言われますが、『信仰深い人』とは言いません。
 そんなことに出くわして、最近教会を訪れる人々が感じているこの種の問題にそれほど関心を示さなかった神父や信徒は、心地が良くなく、不安を感じるようになっていることは信仰の働きだと思います。

 私たちの主イエスキリストは『目に見える生き方』として、信仰のうちに希望、愛をもたらし、人類はそれを見ました。
 そしてイエスは、私たち人類の信仰を見ました。屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした人たちの信仰を見ました。
 それと同時に、人々を絶望と不安、裁きに恐れおののかせる信仰、自分を見せびらかす偽善者の考えを見抜いたのです。
 イエスを前にして、偽善者たちが自慢する信仰は、つぶやきと理屈に終始してしまいます。
 信仰は見えなくなり、不信と反感、そして偽善があらわにされます。
 振り返って、今の私たちの信仰はどうなのでしょうか…。
 「あの人たちは確かに良いことをしているように見えるけど、人の迷惑を考えてもらわないとね」。「教会全体の和≠ニいうことも考えて、筋をちゃんと通してもらわないと、皆から認められないね」などの声を耳にします。
 教会はいったい、何をするところなのでしょう…。人々や社会に対して見えない偽善≠ナはなく、共に希望、愛を育て実践する『見える信仰』の場として歩みたいものです。