「現実」にイエスの目と心を

       カトリック松山教会・担当司祭
        ルイス・グティエレス神父
 福音に読まれるファリサイ派の人の祈りを冷静な気持ちで読みますと、ひどく高慢な祈りだと思います。
 そう感じるのは、ルカ自身が「自分を正しい人だと信じ、他人をさげすむ人」という「コメント」をつけていることに大きく左右されていると思われます。

 さらに、「私はほかの人たちのように」と言って、他人と比較して自分を誇っているように聞こえるのも気になります。
 しかし今、評論家になっている読者の立場を捨てて、当時の状況の中でこの人の祈りを聞いたとしたら、どうなるのでしょう。
 ファリサイ派の人々や律法学者たちは、ユダヤの社会において自他共に認める、神の律法を受けている民の指導者です。
 周りの人に尊敬される身分です。ですから、罪を犯さないばかりか、律法をしっかり守り、寛大に自分を捧げています。
 彼らは現在の自分の身分を神に報告し感謝しているのですから、これは彼らなりに素晴らしい祈りだと思っているのではないでしょうか。
 しかも、誰もが彼らのことを認めているのです。それがだめだと言われるのなら、いったい誰が正しいと言うのでしょう。

 正直言って私は、イエスに槍玉≠ノ挙げられているこのファリサイ派の人が、たとえ話の中の人物だったのに、ほっとしています。 また同時に、イエスを信じる者の一人として、「今、生きている」中味を、常に点検するように促されていることに気づかされます。
 人はそれぞれの考えを持っていますし、社会には「常識」という判断の基準があります。
 そして多くの場合、常識的な人は社会に歓迎され、そうでない人は、いとも簡単に、変人、悪人のようにみなされがちです。
 常識と言われているものが、本当の判断の基準ではないと思っている人においてでも、多かれ少なかれ同じ傾向があるように思われてなりません。
 私たちは聖書の言葉を聞くときに「そうだ」「なるほど」とうなずきながら聞いています。しかし、多くの場合、うなずけるのは「非現実」の中で聞いているからではないかと思われるのです。
 現実をイエスの目と心で見ようとする時、福音を生きることの困難さと、「生かされている」ことの重みと喜びを本当に感じ取れるのでしょう。