現実的と非現実的

       カトリック松山教会・担当司祭
        ルイス・グティエレス神父
 私たちは、よく「現実的」という言葉を使います。「それは現実的でない」とか「君の考えは非現実的だ」とか。私たちは日々の生活が現実の上に成り立っていることを、十分過ぎるぐらい知っているのです。
 お金がなくなれば、明日からの生活に困ることが実際に分かっています。病気になれば、医者が必要だということを知っています。子どもが勉強をしなければ、親の願いが果たせないという現実もあります。
 日々の生活において、現実的な対処がいかに必要であるか、私たちは体験において学んでいます。しかし、人間にとって現実的なものが全てではありません。現実的である、ということが全てであれば、真実を見失うことになります。 人々は善意とか、柔和とか、謙遜といったことを現実的でないということがあります。例えば、武力の前に非暴力といったことはどうでしょう。

 あの非暴力を徹底したガンジー氏もキング牧師も、確かに暴力という力の前に倒れました。
 しかし、非暴力が現実的でないということで、力に対して力を持って戦おうとすれば、結局、平和はいつまでたっても訪れないのだということを歴史は物語っています。
 だからこそイエスは『柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ』(マタイ5・5)と言ったのでしょう。地を受け継ぐ(支配する)者、それは今、まさに力ある者こそが地を受け継がなければ、本当の平和は訪れないのだということではないでしょうか。
 人々は確かに力の前に力で対応することが現実的と思っています。しかし、その現実的な対応は真実ではありません。そう言った意味で現実的であることは、ときに真実性を排除してしまうのです。
 人間にとって真実なもの、それは現実的でない部分に属していることが多いのです。

 愛であるとか、思いやりであるとか、あるいは信仰であるとか、希望であるとか、そういったものは、ときに極めて非現実的であり、私たちはまま、そういったものを選ばずに、現実的なものを追い求めてしまうのです。でも、やはり一番大切なものは現実的でない部分に属しているのではないでしょうか。
 神の聖霊も、やはり現実的でないと思われている部分に働きかけているに違いありません。