キリストに出会う

       カトリック松山教会・担当司祭
        ルイス・グティエレス神父
 どこで、どのようにしたら、キリストにお会いできるのでしょうか…。キリストにすべてをかけた私たちにとって、まさに核心に触れる問い掛けです。
 自分の信仰体験を振り返ってみますと、多分、受洗して間もない子どもの頃は、どちらかと言えば、いわゆる信者として義務を果たすことに力を注いでいたように思うでしょう。
 だから、キリストのイメージは、何か裁判官のように思えたのではないでしょうか。罪を犯さないように絶えず注意をしていたようですが、問題は罪をどのようにとらえていたか、ということです。

 福音で明らかなように、いわゆる道徳的な罪、例えば嘘をつく、盗みをする、みだらなことをするなどは、王であるキリストの裁きの対象になっていません。
 最後の審判(あるでしょう)、すなわち、この世界が終わり、神の国が完成するとき、すべての人々は、結局、自分を必要としている人に、どのように関わったかだけが問われるのです。
 『あなたがたが地上でつなぐことは、すべて天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、すべて天上においても解かれる』(マタイ18・18)。
 まさに今、ここで相手とどう関わるのかは、そのまま神の国、すなわち神の前で決定的な意味をもつということです。
 罪を犯さないで天国に入るというような狭いとらえ方は、福音書からはできなくなります。
 つまり、「罪とは何か」ということを正しく理解しようとするなら、どうしても自分自身の生き方そのものの基本姿勢を変えなければいけなくなります。

 自分が満足するような状態にいるとか、自分の思い通りにことが運んでいるとか、いわゆる道徳的にみて立派であるとかいう、すべて自分を中心にした基準でみること自体が問題です。
 大切なのは、相手が自分に何を求めているのか、相手のために何が必要なのか、相手が幸せになるにはどうしたらよいのか、相手が真に成長するにはどう関わったらよいのか、すべて相手が中心でなければなりません。
 このように、もし具体的な関わりを通して、相手が生かされていくという体験、出来ごとの中にキリストがおられるだけでなく、まさに相手がキリストになるということを、どれだけ実感として受け止めているのでしょうか。
 これは結局、私がどのように日々、キリストにめぐり合うことができるかどうかという、信仰の原点からの問いかけと招きによるほかありません。