「できること」は何ですか?

       カトリック松山教会・担当司祭
        ルイス・グティエレス神父
 この秋開かれる「教区民の集い」(愛媛地区)は、信仰共同体の養成に取り組む実践テーマの一つ「信徒の奉仕職」を掲げ、信徒の皆さんに「私にできること」を問いかけていく企画が準備されているようです。
 「今、あなたに『できること』は何ですか?」。
 神から与えられたタラント≠ヘ、出し惜しみしないで使わなければいけません。たくさん与えられたものも、そうでないものも…。
 あなたにできる「それを使って商売をする」というのは、具体的にはどういうことなのでしょうか。
 堅固な信仰と賢明さにおいて優れ、教理も良く知っている人は、要理研究の手伝いをします。かつて職場で経理の仕事を経験した人は、教会の財務委員として奉仕します。手芸の上手な人はバザーの出品作りをします。
 何も芸のないという人でも体力があれば、教会の草むしり、そのほか何でもいろんなところに奉仕の場があります。『神の道具』として奉仕することは良いことで、何をしても周りを明るくし、みんなに喜ばれるでしょう。

誰でも何かができる

 これとは違うことも考えられます。キリスト教は愛なのですから、愛の実行こそ大切です。
 病人を見舞ったり、貧しい人や困っている人に援助の手を差し伸べることです。いや、それもありますが、公害病や薬害などのように社会がつくり出している病気に苦しんでいる人たちのこともあります。
 争いを引き起こしたり、人々の貧しさや生活の困難を生み出している社会の仕組みに目を向けることも忘れてはいけません。これと戦うことこそは、本当のキリスト者の姿では…。そういう意見も、もっともなことです。 では、そうしたことのどれもできない人は、どうすればよいのでしょうか。そんな人はいません。誰だって何か一つぐらいはできることがあるはずです。
 例えば、長い間寝たきりの病人で、何から何まで全部他人の世話にならなければならない人でも苦しみを神に捧げ、感謝の生活をし、柔和と忍耐で模範となることができます。人のために祈ることも、とても大切なことです。
 なるほど…。でもそれさえもできない人が私たちの周りにはいます。自分の状態を苦しむことさえ知らず、自分がどんなに全面的に人の世話になって生きているのか、それすら分からない、そういう人たちもいます。
 こういう人たちは、どんな商売≠して、神のためにタラント≠もうけているのでしょうか。この問いに答えられなければ、私たちはまだ神を信じているとは言い切れないでしょう。 「存在そのものによって」、と答えることはできますが、この人のもうけたタラント≠ヘ幾らか?と計算するでしょうか、私たちは…。