感謝を捧げましょう

       カトリック松山教会・担当司祭
              ルイス・グティエレス神父
祈りは信仰の呼吸≠ニ言われますが、私たちの日常の祈りの内容を振り返えると、信仰の姿を知る手がかりになるかもしれません。
 日本人が一般に「祈り」という言葉を使うとき、考えることはどんなことでしょうか。商売繁盛、無病息災、家内安全…。
どれもよく口にされる言葉ですが、内容は結局、自分中心の願いごとで、私の役に立ってくれる、つまり利用価値の高い神様ほど「霊験(れいげん)あらたかなありがたい神様」と言われ、自分の思うように動いてくれないと「神も仏もあるものか」ということになります。
 その点、キリスト教の祈りは根本的に違います。祈りの中心は、いつも「私の願い」ではなく「神のみ旨」が行われることで、どんな切実な願いの後にも『わたしの願いではなく、御心(みこころ)のままに行ってください』(ルカ22.42)と加えられます。

マリア様の祈りも同じで、『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように』(ルカ1.38)と、神の意思への完全な従順が示されています。
 この従順は、奴隷のように畏れおののいて従う従順ではなく、私たちを愛し、その善のためにすべてをはからってくださる父への信頼から生まれてくるものなのです。
 ひとことで言うなら、この父への徹底した信頼こそ、キリスト教信仰の中心とも言えるもので、それは私たちの世界観、人生観、価値観のすべてを変えてしまうような信頼に基づくものなのです。
 『父は、あなたがたが願う前から、必要なものを知っておられる』(マタイ6.8)という信頼が祈りの土台になります。
 どんな祈りも、この信頼に支えられていないと、キリストの示される祈りとはかけ離れてくるでしょう。
 信頼から生まれる祈りの典型は、賛美と感謝の祈りです。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます(マタイ11.25)と、キリストとともに父をたたえ、『絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい』(1テサロニケ5.16)と、いつも感謝に生きる姿は、真(まこと)の信仰の姿です。
 まず私たちの受けた恵みの一つ一つに心から感謝を捧げることから祈りが始まります。
 『神を賛美するために帰ってきたのは、この1人だけなのか』