ご復活おめでとうございます
  典礼憲章に基づく刷新<4>
キリストは いつも共におられる          
       カトリック松山教会・担当司祭
               ルイス・グティエレス神父
復活されたキリストは、偉大なわざを成し遂げられるために、常に私たちの教会、私たちの信仰生活の中に、共におられます。ミサの犠牲のうちに、ご聖体とともに、また諸秘跡のうちに……。かつては十字架上でご自身を捧げられたキリストが、今日も、司祭の奉仕によって、司祭のうちにおられるのです。
『聖書が教会で読まれるとき、キリスト自身が語るのである』               (典礼憲章第1章・7項)。
この言葉は、復活されたキリストを最も身近に感じます。
そして『主は 皆さんとともに』という呼び掛けに答えて、心の琴線に触れる典礼へと招かれ、神の愛のうちに、キリストに出会って、新しい命に与っているという意識を大切にしたいと思います。
ですから典礼が儀式のようになってしまうと、日常生活と切り離されて、別世界の行為になりがちですが、そうであっては困ります。
公会議は「典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る泉である」と述べていますが、言い換えますと、「私たちの日常生活が目指す頂点であり、日常生活の力が流れ出る泉」とも言えます。

つまり、私たちは洗礼によって、預言者・王大祭司であるキリストと結ばれ、世界を聖化し、御父に結ばれるために、ご自身を捧げられたキリストの使命を受け継ぎました。私たちの毎日の「1分、1秒」は、言葉と行いで神の国を証しし、その実現のために奉仕し、生活の奉献と祈りによって世界の聖化のために働く生活となったのです。
この毎日の私たちの生活、失敗も数多くありますが、小さな祈りと働きを捧げる日常生活は、典礼の中で永遠の大祭司キリストのみわざに結ばれます。
世界の救いの秘跡によって、あまねく世界を聖化し、神の国をもたらすキリストの恵みによって、私たちの日常生活を新たにしていかねばなりません。
典礼において私たちの生活は、みじめな罪びと≠フ取るに足らない″祈りと働きから、キリストのからだの働きに変えられ、真に意味と価値のある生活となるのです。
その意味で、「典礼は私たちの生活の頂点」と言うべきでしょう。
同時にキリストの恵みをもたらす典礼において、弱い私たち一人一人の生活をキリストと共に、キリストによって生きる力が与えられ、日常生活の十字架に喜びと希望をもって進んでいく恵みが与えられるのです。
つまり「典礼は、あらゆる力が流れ出る泉でもある」と言われるゆえんです。
教会の宣教司牧活動は、すべて典礼と深く結びついています。だからこそ典礼が本当に生き生きとした信仰の表現であり、日常生活がより豊かな恵みの場となり、ひいては『出会う人に よい知らせを』伝える力がわき出る泉≠ナもあるように努めたいものです。   (続く)