2011年度
       カトリック松山教会・担当司祭
           ルイス・グティエレス神父
2011年4月 :ご復活、おめでとうございます
         『主の平和がいつも皆さんと共に!』

私たちは、ミサの祈りでいつも「主の平和がいつも皆さんと共に」と祈り、また「現代に平和をお与え下さい」「教会に平和と一致をお与え下さい」。そして「神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、われらに平安を与えたまえ」とも祈っています。よみがえられたイエスは弟子たちに現れ、『あなたがたに平和』とおっしゃいました。
 平和は主キリストから与えられるものです。キリストは、ご自分の命を通して平和をもたらされました。
平和は棚からボタモチ℃ョに、何もしないで、手をこまねいていて来るものではありません。平和は築いていくものであり、犠牲を払ってはじめて生まれてくるものではないでしょうか。イエスキリストが道であり、真理であり、イエスが歩まれた道を歩まなければ、主の平和はもたらされないのですから、私たちは十字架の道、苦難の道を歩まなければ、平和を樹立することはできません。
『平和(へいわ)のために働(はたら)く人(ひと)は幸(さいわ)い。彼(かれ)らは神(かみ)の子(こ)と呼(よ)ばれる』(マタイ5・9)。日本でも昔から、争っている人々を仲直りさせることのできる人は、周りの人たちの尊敬を集めていました。人々のもめごとを収める力量、人格の持ち主が次第に権威を強め、人々の指導者としての地位を確立していったのでしょう。
争い、憎しみ合いを解消できる人は、まことに私心のない人でなければなりません。自分の利益や名誉を求める人であってはなりません。自分を主張する人、自分のメンツを重んじる人であってはなりません。争いは人間の弱さや自己中心的な考えから起こります。
彼は、その結果を…苦悩をすべてわが身に引き受け、誰をも憎まず、恨まない人でなければなりません。
ときとして、彼は双方から憎まれることもあるでしょう。身に覚えのない非難、中傷を受けることもあろう。それでもじっと耐え忍び、希望を失わない人であってほしい。『神(かみ)を敬(うやま)う人(ひと)の死(し)は、神(かみ)の前(まえ)に尊(とうと)い』。
平和は死を通して勝ち取るべきものでしょう。人は生まれ、人は死ぬ。その生涯の意味は何でしょうか。一人の人が死ぬ。『神を敬う人』は、命をとおして、平和をもたらそうとする人でしょう。
一人の人の死は重い。私たちはキリストとともに死ぬ人の死を、もっと厳粛に受け止めなければなりません。
 キリストの復活は私たちの信仰の基礎であり、私たちに永遠の幸福への希望を与え、私たちの内に神の愛を燃え立たせています。
この愛こそは、私たちの復活のときに三位なる神の愛の内に全(まっと)うされるのです。
キリストのご復活の喜びが、今日も、明日も、いつも…。



2011年6月 : キリストの聖体  

私たちが手で分けるパンは、キリストの体を食べて一致することではありませんか。
パンは一つなので、私たちは大勢であっても、一つのからだです。みんなその一つのパンを一緒に食べるからです(1コリント10・16〜17)。
初代教会でミサ聖祭はパンを裂く式≠ニ呼ばれたらしく、一つの食卓を囲み、一つのパンを分かち合うことが一致と交わりの大きなしるしとなっていました。
現代では、ホスティア≠ヘウエファース¥の薄片で、食べ物というイメージからは ほど遠く、それも初めから分けられていて、一つひとつ独立の丸い小片になってしまっていて、本来の分かち合い(一つのパンを分け合って食べる)という意味は、分かりにくくなっています。  しかし、イエスキリストが最後の晩さんでパンとぶどう酒のしるしのものに、ご自分の命を与えようとなさった意味は、食べ物(命の源)を分け合うことによって、私たち信者一同が、命を、生活を分け合う家族であることを味わうためであることは言うまでもありません。
初代教会の信者たちは、それを味わい表わすために、財産まで共有したと、使途行録は記(しる)しています。ですから、一緒にミサに与り、共に聖体拝領することによって、日常の私た  ちの分かち合い、交わりが表わされ、またさらに深められるように養われるのでなかったら、私たちのミサへの参加、聖体拝領はまことのキリストの望みに従っているとは言えないでしょう。
さて、聖体拝領の前後、あなたの周りの人たちとの関係に思いを寄せ、考えてみましょう。
「私はこの人と日常、何を分け合っているだろうか。あの人の喜び、悲しみを、私は分け合っているだろうか。私の悩みや希望を分け合っているだろうか」。       
「私の信仰、命、生活、心は、何かの形で日常、あの人とふれ合っているだろうか…。私はあの人を知り、あの人に知られることを望んでいるだろうか」。
「…知り、知られるために、何か具体的な行動をしているのだろうか」…。
「私はこの交わり(分かち合い)を信仰の大切な部分として真剣に受け止めているだろうか」。…などなど。
例えばミサの時に、後ろの方の席で傍観者のようにぽつん≠ニ座っているだけで、交わり(分かち合い)の雰囲気を壊していることもあるのです。
最後の晩さんのときに、キリストは『彼らが一つでありますように…』と祈りをなさいました。聖体はこの祈りの実現でもあります。
聖体を拝領する人たちは、キリストの御からだにおいて完全に一つに結ばれていくのです。血肉を分けた肉親の兄弟よりも一層強く、一層堅く、一つのからだになるのです。
ですから、信者たちの間に不和や争い、憎しみやさげすみなどは起こり得るはずがありません。もしも仮に誰かに対して、良くない感情を抱いていたとしても、聖体拝領に際しては、その人を赦し、すべてを忘れ、憎しみや争いのない澄み切った心を整えたはずです。
聖体の秘跡こそ、神との一致、信者同士の一致の絆となっています。


2011年8月 :毒麦は抜いてしまおうか…  

「こういうことは、二度と再び起こらないようにしましょう」……こういう人々がいます。そして、そういう人はたいてい、善意で一生懸命な人です。
例えば、子どもが池で事故に遭うと「池があるからそんなことになる。池を埋めてしまおうか。子どもが絶対に入れないように、金網で囲ってしまいなさい」。
ナイフで怪我をすると、「そんなものを持っているから怪我をするんです。絶対に持ってはいけません」。などなど。
とにかく彼らは一生懸命で、善意です。それはそれとして悪くはないのですが、多くの場合、滑稽ですらあることが多いのではないでしょうか。
私たちの毎日の生活は、善意で一生懸命でありさえすればすべてうまくいく、そんな単純なものではなさそうです。いいえ、もっとはっきり言えば、そういう考えの奥には、自分の考えや自分の判断は絶対に正しいという自己に対する過信があるような気がしてなりません。
もしそうだとすれば、これほど信仰と相いれないものはないと思います。なぜなら、自己を絶対視するところに信仰はないからです。
確かに私たちの毎日は、一生懸命に考え、判断し、行動しなければならない毎日です。
「もうこれで精一杯、この上に何が必要か」と言いたくもなります。しかし、肝心要のことを忘れてはいないでしょうか。
私たちの判断や決意や計画をはるかに超えて、一番確かな目的に向かって、私たちを導いておられる方への信頼です。 
これは、だからすべていい加減でいいとか、どうせ自分のやることは間違っているとか、そういう投げやりな態度とは、まったく違います。
精一杯、一生懸命にやりながらも、そういう自分を「ポンと」突き放し、冷静に自分を見直す態度を言うのでしょう。
そして、そんな芸当(パフオーマンス)ができるためには、御父に対するしたたかな信頼と自分に対する「ユーモア」が不可欠のように思います。
それらなしに、いったい誰が冷静に自己を見直すなどということができるでしょう。  
信仰する者にのみ持つことの許される真のゆとりと「ユーモア」。これをもっと大切にしたいと思います。
事の善悪や白黒の判断を急がないのは、いい加減さやあいまいさが良いからではありません。
それでも「生ぬるい」という人は、御父の忍耐と愛とを思い浮かべてみてください。


2011年11月 :分かち合い≠生かすために
             カトリック新聞 「意見・異見・私見」にも掲載
高松教区は来月23日、初めて開く「宣教大会」へと最後の仕上げを急いでいます。目指すは教区の「一致と再生」です。一つになって明日の教会のあるべき姿を探り、新しい福音宣教に向け沖へ漕(こ)ぎ出していくのです。
私たちの教会は、「こんな教会を目指します」という3章18項目の具体的な目標を設定。それをしっかり根付かせようと、みんなで分かち合うための約束事として4つのお願い≠作りました。この1カ月間、7つの委員会と4つの地域、9つの活動グループごとに分かち合いを深めていきます。
同大会の構想を煉る教区の準備員会は、地区・小教区で分かち合いの場を随所に設定し、実践するよう勧めています。それに従い当教会でも何回か分かち合いましたが、「分かち合いは、どうも苦手」と敬遠される傾向がみられました。
苦手と言われ人たちの声を聞くと@本音で話しにくいA過去に恥ずかしい思いをしたB後で自分の話が噂された―などの理由が読み取れ、分かち合うための土壌作り≠ェ大切だと分かりました。4つのお願い≠ヘ@思うことを自分の言葉で話すA人の話を批判しないB気づきを大切にするCプライバシーを守る―というのが骨子。それぞれ3つずつ優しい言葉で注釈を加えました。これらはすべて頂きもので、1987年(京都)、1993年(長崎)と2回にわたって開かれた福音宣教推進全国会議(NICE)で画期的に展開された「分かち合い」の体験を生かしたものです。
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分かち合いは一般的に、思いや考えを言葉で表わすものと、行動に現していく2つのことが考えられます。言葉による分かち合いは、向き合う事柄について、心を開いてあるがままの自分の思いを話し、人の話に耳を傾ける。
それを相互に受け入れ合うこと。自らの気づきを大切に、聞いた話を重ね合わせ、もう一度自分に問い掛けてみる。
この繰り返しで共感、共有感が強まり、交わりを深めるうちに一致へと導かれる有機的な
関係づくりのグループ・ワークです。
分かち合いで気づきのレベルを深め合うためには、互いに敬意をもって対等な立場で関わり合うこと。何でも自由に安心して話せる、受容し合う誠実な信頼関係が大切な要素です。こうして、お互いに支え合う関係づくりが「一致と再生」を目指す交わりの教会∞開かれた教会≠テくりの原点だともいわれています。
いいグル−プ、いい話に出会って、交わりが一層深まる。そこからの気づきが新しい自分の発見につながり、行動が伴って、ともに生きる喜びが生まれてくる。生活に根ざした信仰が相互に養成され、ひいては『よい知らせ』をのべ伝える一人ひとりの力に結びついていく。そのような実り豊かな分かち合いがもたれるようにと祈っています。


2011年12月 :クリスマスと新年、おめでとうございます    
高松教区では初めての「宣教大会」が開かれました。その時しみじみ思ったことですが、これからの教会づくりは、特に若い人たちの声を聞いてみましょう。
 若者は、どんな教会だったら来たいと思いますか?…。「みんなが仲良しの教会」「楽しい教会」「友達を誘える教会」…。もっと細かく言えば、「神父がもっと分かりやすく説教する」「もっと短く、誰にでも分かるように神様のことを伝えてほしい」「子供を、お年寄りを大事にする教会」…。日本の教会はどこも聖堂が小さいです。もっと広かったらいいのに、窮屈に感じます。きつく聞こえるかもしれませんが、「どうして教会の人(信者さん)はうれしそうな顔をしていないのでしょうか…」。
ある青年たちはこうも言いました。「人の悪口を言ったり、非難するのは止めてほしい。情けない」「開かれた教会づくり≠ニ言っているが、言うだけで全然開かれていないように思う」「今のままの教会には若者は来にくい」。「若者の悩みに耳を傾けてほしい」…。とにかく若者は、ぐっと身近かに感じられる教会づくりを望んでいることは確かです。
 教会の中にいろんな人がいて、各自にはさまざまな能力や役割が与えられています。それはよく分かりますが、その違いが分裂のもととなってはいけません。カリスマ≠ヘ、みんなのために与えられているのです。
 教会はキリストのからだ≠セと言われます。だから弱く見る部分や格好が悪い部分、見苦しい部分がその中にあります。それを互いに分かち合って、みんなが救われなければなりません。自分だけ、私だけ、私のグループだけという部分的な発想≠ヘ、教会の望むところではありません。
 最近、教会から離れている人が多くなりました。主日のミサに来る人が少なくなっています。どうしてでしょうか。今、教会に来ている私たちは、このことをしっかり考えたいところですね。まさか、私のせいではないでしょう…。とにかく、主日(日曜日)のミサに参加できる人だけが教会のメンバーではありません。ミサに来られない人、来たくないと思っている人でさえ、教会の「みんな」なのです。
 この発想をもとに教会づくりを考えていくと、教会は「みんなが平和で、喜びに満たされた集い」になるのではないでしょうか。「みんな違っている」という当たり前の現実に目を留め、それを受け入れるところから、教会づくりは始まると思います。
「開かれた教会」と言えば、どうしてある人は敬遠するのでしょうか…。 本来、教会は信者であろうとなかろうと、みんなに開かれたものなのです。しかし、ある人たちからは、「昔のように…変わらなくてもいい」「変化し過ぎる」と言う声が聞かれます。これは教会の使命がまだ十分理解されていないことの表れです。私たちが信者になったのは、出会う人に、『福音=よい知らせ』を、喜びをもって伝えるためなのです。
 心と耳を澄まして聞いてください。みんな呼ばれています。私一人が呼ばれたのではありません。あなたも、私も、そしてもう一人≠フ人に呼びかけることで救いの輪≠ヘ教会(私たち)を通して広がっていくのです。
クリスマスと新年を迎えて、この救いの喜び≠多くの人たちに肌で感じてほしいと願い、行動すること。そのために一人一人が「ともに喜び」をもって信仰を生活の中に表わしていくことが大切です。
 これが福音宣教の土台だと思います。教会はその地域に住むすべての人たちのために存在し、誰でも等しく神から愛され、呼ばれているのです。誰でも受け入れる雰囲気があるならば、教会は「みんなの教会」になり、自然な姿で宣教の使命を喜びのうちに果たしていくことができるでしょう。いまこそ神様に呼ばれている私たちが、もっと神様と人々に心を開かねばならないと思います。


2012年2月 :神の愛のことば           
信仰ということは、神様と私たちとの交わりです。
それは神様が私たちに話しかけ、呼びかけてくださって生まれるもので、私たちの力で生み出すことの出来るものではありません。
ですから、信仰の土台は、まず神様の語りかけに耳を傾け、従順な心でその語りかけに答えることから始まります。
神様の呼びかけは聞く耳さえ持てば、日常生活の至るところで聞き取ることが出来るでしょうが、まず何よりもその中心、基礎となるのは、み言葉=聖書によってです。聖書は歴史の中で、そして特に生ける神のみ言葉であるイエスキリストにおいて語りかける神の愛の呼びかけです。
 この神のみ言葉である聖書に耳を傾けることは、信仰、祈り、礼拝(ミサ)に欠くべからざる大切な行いです。
祈りは神との語り合い、会話ですから、神のみ言葉を聞くことが大切なのは当然なのですが、私たちの祈りはともすると、一方的なおしゃべりになってしまう危険があります。聞くことを忘れた祈りは、薄っぺらな自己中心的な祈りになりがちです。
教会共同体の礼拝であり、信仰の表現である聖体祭儀(ミサ)も、まず『み言葉を聞く』ことから始まります。
旧約聖書、使徒書、福音書の朗読によって、神の救いのみ言葉が宣言され、救いの計画を通して神が私たちのために実現してくださった恵みの出来事が思い起こされます。
それを通して、今もまた神が私たちに、その恵みの力ある言葉を語りかけてくださるのです。
『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む』(ヨハネ14 ・23 )
こうして救いが実現され、その救いの言葉を宣言してくださる神の語りかけに答えて、私たちは賛美と感謝の祈りを捧げ、キリストの死と復活の記念を行います。このように、み言葉の典礼は一体となって、聖体祭儀を形づくっています。
神のみ言葉を心深く聞くためには、やはり準備することが大切です。
よく聖書朗読の途中あたりで、ミサに遅れて来る人もいますが、その意味では半分しかミサに参加していないようなものです。
神のみ言葉を落ち着いて、祈りのうちに味わうように心がけたいものです。 
また、朗読をする人も神のみ言葉がはっきり伝えられ、人の心にしみ込むように、よく準備して、聞きやすく朗読する大きな責任があるのです。