2010年度
       カトリック松山教会・担当司祭
           ルイス・グティエレス神父
2010年4月 : ご復活 おめでとうございます
              〜HAPPY EASTER〜

復活されたイエスが、弟子たちのなかに現れたとき『あなたたちに平和があるように』(ヨハネ20.19〜26、ルカ24.36)と言われます。
また『わたしだ、恐れるな』(マタイ14.27)とも言われます。
平和、平安は、イエスが私たちと共におられることの『しるし』なのです。神が共にいてくださるなら、いつもそこに『平和』があるのです。
恐れ、恐怖。平和の反対が"恐れ、恐怖"です。でも聖書の中に用いられている言葉『恐れ』には、この『恐怖』の意味以外にもっと積極的な意味で、人が自分の弱さや、惨めな存在であるということを悟り、神の偉大さの前に立つとき、『おそれ』を感じるという意味で使われています。
このときに言う『おそれ』はよい意味で、『神をおそれる人』のように、正しい人という意味があります(この『おそれ』は『恐れ』よりも『畏れ』と言う方がいいでしょう)。
もう一つの使い方は、前に挙げたように『怖がるな』『恐怖』の意味で用いるときで、『平和』と反対のことです。
マルコ福音書(4.15?41)で、イエスが弟子たちに『どうして怖がるのか』とお叱りになります。それは、イエスが一緒にいらっしゃるのに、イエスがそばにおられないかのようにあわてたり、怖がったり、心配するから、イエスはお叱りになるのです。
つまり、『怖がる』、『恐怖』は、神が共におられない、神から離れていることの"しるし"なのです。
ですから、『救われて』神とともに生きている人にとって『怖がったり』『恐怖』をもつことは、神が自分のそばにいてくださることを信じていないことの"しるし"になってしまい、矛盾することなのです。
詩編にも『神はわたしの逃れ場。わたしの砦。夜、襲ってくる恐れ、昼、飛んでくる矢も、あなたは恐れることはない』(詩編19.2・5)と、うたっています。
『平和』、『怖がらないこと』は、神が共におられること、神の子の"しるし"です。
私たちは日々の生活の中で、いろいろな"恐れ"を感じ、怖がることがあります。しかし、その時にも、神が私のそばにおられることを思い出し、「私は怖くないんだ」と考えることが大切なのではないでしょうか。

REJOICE……IT'S EASTER
ALLELUYA ご復活です。



2010年6月 : 『苦しみ』について  

『神は人間の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、嘆きも、苦労もない。なぜなら最初のものが過ぎ去ったからである』。
この神が約束なさった幸せの知らせを読みますと、私たちの心は大きな喜びと感謝でいっぱいになります。 
ところが、最初のものが過ぎ去ったときからでなければ、この幸せを受けることができません。私たちはいま、この世において生活していますから、悲しみや嘆きや苦労が私たちの日常生活に伴うものです。それで私たちは心配しているから、約束された幸せについて考える気持ちになれないし、その暇もないのかもしれません。
しかしカトリック的な人生観は、苦しみを否定しません。苦しみがこの世の中の生活に伴うものであることを認めています。
従ってカトリック的人生観は、私たちに苦しみの意味と値打ちを教えて、私たちがそれを理解するなら、この苦しみを一層軽い、一層耐え忍びやすいものとするのです。
ある青年がいました。この方は24歳のとき亡くなりました。気分が悪くなったので病院へ行くと、診察した医師から、もうあと5,6年しか命はないと言われ、彼は非常に大きいショックを受けました。しかし、彼は信仰深い青年でしたから、すぐ気を取り直し、それから6年間、貧しい人のために献身し続けました。最後に病気がひどくなり、入院を余儀なくされました。亡くなる3日前のこと、治療に当たった病院のシスターは、彼が大変苦しんでいる様子を見て「注射しましょうか?」と訊ねましたが、彼は微笑みながら「ありがとうシスター。でもしない方がいい。キリストは十字架につけられたとき、苦しみを和らげるために注射をいただきませんでしたね」と言いました。彼は最後の瞬間までキリストに従ったのです。
キリストは『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』とおっしゃいます。私たちはこの青年のような優れた人ではないにしても、私たちの日常の苦労を捧げることによって、心のきれいな、そして幸せな人になり得るでしょう。
私たちを神のお恵みに与らせるために、キリストはその尊い命までもご自分を十字架の上にお捧げになりました。
私たちも苦しみに出会うことがあるでしょう。今、苦しみに対して無関心を装っても、遅かれ早かれ苦しみを味わうことは避けられないでしょう。実に多くの哲学者が苦しみという問題と取り組んだのですが、それは神秘に帯びた問題ですから、なかなか分かりにくいものです。
しかし神が苦しみを取り除かれない理由は、私たちを愛してくださっているからです。人間への愛を示すために、神は人間から苦しみを取り除かれない代わりに、人間自身の苦しみを背負われました。ヨハネが書いたように『神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛してくださった。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである』。
キリストにおいて苦しみは、愛のしるしと、その愛に応えるような招きともなりました。今から私たちはキリストにおいて、またキリストとともに、苦しみをもすぐれた愛の行いにすることができるのです。ヨハネがおっしゃったように『友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない』…苦しみを通してこそ、人間は自分を完全に捧げることができます。
もし私たちが苦しむことを、キリストとともに苦しむことと見なすならば、生活は愛の生活となり、私たちも死んでからはキリストとともに復活するに違いありません。
私たちの苦しみは、他人の愛を促し、他人に親切な態度をとらせ、無欲の献身をすすめるのです。苦しんでいる人は、人間の心に潜んでいる最も尊いものに訴え、愛するように促すとともに人間の心を大きく変えていくのです。


2010年8月 :典礼憲章に基づく刷新<3>
               文化的多様性の尊重  

典礼憲章は「刷新と促進」に向けて新しい風を起こしました。典礼の場の形としても役割の分担としても、祈りへ参加や、その内容の理解の深さとしても、信仰の行動的、積極的参加が促され、40年前とは見違えるばかりになりました。
ミサの中で信徒が積極的に関わる場面の一つに「共同祈願」があります。
信仰のうちに福音と説教に答え、洗礼による自分の祭司職の務めを実行して、全ての人の救いのために神に嘆願の祈りを捧げます。 
私たちの教会では2年前から「ローマ典礼書総則」(61〜71)に沿って、信徒の一人が会衆に向かって意向を告げ、参加者はその祈りが自分のものであること、それがみんなのものであることを歌で呼唱するようになりました。いつも一同が心を合わせて、心の内から出てくる「祈り」であることを願っています。
また一同がお互いの喜び、平和、一致、愛の心を表わす場として「平和のあいさつ」があります。方法については、それぞれの国の司教協議会が決めることとなっています。
同じ心の表現であっても、文化によって、その表現の仕方は異なります。親愛の情を表わすあいさつに、ロシア人は男同士で抱擁し合い、接吻しますが、日本人は互いにお辞儀を交わします。ニュージランドでは、鼻と鼻をこすり合わせるそうです。
日本人には日本人の、ニュ―ジランド人にはそれなりの表現であり、それが一番"ピンとくる"し、自然でもあります。
それが文化的多様性というものですが、典礼は信仰の表現であり、神の恵みがしるしを通じて伝えられる場ですから、それぞれの文化によって"ピンとくる表現"、自然で、分かりやすいしるしが使われて当然です。
アメリカのある地方の人々にとって、踊りなしの祈りなどというものは考えられないと聞きましたが、その人たちは踊りに通じてこそ信仰が表現できるでしょうし、踊りなしの典礼は意味がないでしょう。
公会議は、このような文化的な多様性が典礼の中で、特に重要であることを認め、それぞれの文化の中で育てるように励まします。
「教会は……厳格の一律の形式を義務付けようと望んでいるのではなく、かえって諸国と諸民族の特質と才能を伸ばし、育てる。民族の慣習の中で、迷信や誤りと切り離せないもの意外は、すべて好意を持って評価し……典礼そのものの中に取り入れる」(典礼憲章37から抜粋)。
日本人の日本の文化のよさを十分に取り入れて、日本人にピンとくる、自然な分かりやすい典礼を生み出していかなければならないと思います。
美しい日本語、そして日本語による典礼音楽、しぐさ、目に見えるシンボル、祭器具、祭服、建築物、装飾、式次第などなど、やるべきこと、やれることへの課題がたくさんあるといえるでしょう。


2010年10月 :イエスの『たとえばなし』
『種(たね)を蒔(ま)く人(ひと)』のたとえ。
イエスはたとえを用いてお話になった。『種(たね)を蒔(ま)く人(ひと)が種(たね)蒔(ま)きに出(で)て行(い)った…』(ルカ8.4〜15)。『聞(き)く耳(みみ)のある者(もの)は聞(き)きなさい』…。
音や言葉が『聞こえてくる』レベルで満足するのではなく、音や言葉を『聞く』レベルに達することができたら、受動的な聴聞に変わってきます。 
社会に対し"アウトサイダー"として参加することの労苦を避け、距離を保ち、"サングラス"の内側から人を見るように、気づかれないように社会を眺めるのではなく、社会の一員として参加したら、人との出会いが楽しくなれます。
『たとえばなし』の題材は、いつも現実生活の中からとられたものです。 
現実からいつも私たちがより深い意味を読み取ることができたら、深い意味はものごとへの関心とその積極的な関わりに生まれ変わります。
「主よ、私たちが忍耐によって実りをもたらす人になれますように。あなたのみ言葉は、種のように生き、成長します。その根は、ときには岩をも砕き、芽は"コンクリート"を持ち上げます。主よ、どうぞ私の心の固さを、あなたの言葉と行いによって打ち砕いてください」…と祈ればいいのではないでしょうか。
私たち人間の心を『道端(みちばた)、石路(いしじ)、そして茨(いばら)の土地』と、イエスは指摘されます。清さと光を失った世界、それは人間が罪を犯して以来、この世の姿といえます。
この世は腐敗し、金と欲に満ち,すべてが堕落しているかのようです。
一体何が原因なのでしょうか。それは人間のエゴイズム、自己中心にほかないと思います。人間はみんな多かれ少なかれ他人よりも幸せになりたいと望んでいるのです。
それに反して、ただ自分を無にされたイエス、十字架を甘受されたイエス、彼だけが人間を清め、罪を赦すことのできるお方です。
私たちは自分のうちに腐敗と闇を感じる限り、謙虚にひざまずいて、このイエスのみ言葉を聞き、守り、忍耐して、実を結ぶようにと求め続けなければなりません。
「主よ、私が自分のうちにある腐敗と闇を知れば知るほど、あなたのみ言葉をもっと聞きたいという望みが増してきます」。
「主よ、あなたのみ言葉を人に説明しているときに、この人たちは、聞きたくないような顔をしながらも聞いています。それでいて内心は真剣に求め続けているのではないかと思うのですが、このような土地には、どのように種を蒔けばよいのでしょうか」…。
「主よ、世の中にはヘソを曲げている人がいます。その人たちは何かにつまずいて、ヘソを曲げたのでしょうか。そういえば私の中にも、曲がったところがたくさんあるのです…。どうすればいいのでしょうか…。主よ、先にお赦しください。そのあと、あなたのみ言葉を素直な気持ちで、開かれた心で聞くことができますように」…と、心から祈っています。


2010年12月 :クリスマスおめでとうございます
神の子イエスの誕生を祝うクリスマス。この日は子どもたちにとって、夢と期待に胸がふくらみます。大人にとっても、それは同じです。
この地球上に、1年に一度、こういう祝いの日があることは、なんと喜ばしいことでしょう。キリスト教的意義をしかじか言うまでもなく、こうした夢と希望、喜びに彩られた日が人類に与えられたこと自体、とても素晴らしいことです。 
この地球上に悲惨な状態があったとしても、また絶望的な状況があっても、クリスマス・神の子の誕生を祝い、喜ぶ中に未来に希望のあることを強く感じさせてくれます。
旧約時代に、次のように預言されていました。『見よ、乙女が身ごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれる』と。
このインマヌエルとは『神は、われらと共にいます』という意味です。
この地球に、神の子を迎えたという事実こそ、希望です。私たち人類は見捨てられたものとしてではなく、神と共に生きる者として、お互いに見つめ合い、許し合えるようになりました。
どんな孤独の中にあっても、人間は誰でも神に見守られているという思いが、クリスマスに届けられる希望の基(もと)いです。神の子・キリストは赤ん坊の姿をもって沈黙と静けさの中に、この事実を私たちに告げ知らせました。
大げさなジェスチャー≠示すことなく、最も小さく貧しい姿でこの事実が告げられたからこそ、真理の強さを何倍も多く感じさせるのです。
貧しさと沈黙の中に神が人間のうちに住まわれたことは、なんと素晴らしいことでしょう。
こうした神の神秘を考えるほど、そこに生命の神秘が脈打っています。生命の神秘の本性こそ喜びであり、希望、夢、期待なのです。
クリスマスは命の神秘の祝い日です。クリスマスは、キリスト教だけの祝いではなく、人間、そして生命あるすべてのもののお祝い日なのです。
皆さん、クリスマスの夜、もしも闇の底でひざを抱えている人がいるようでしたら、救い主の誕生を思いながら、そっと一言(ひとこと)つぶやいてみませんか。
「生まれてきてよかった」…と。その瞬間、生まれ|生まれてくる宇宙の神秘、その流れが自分の心と体を突き抜けてきらめき現れ、大きな恵みと喜びを味わうことでしょう。
『!メリークリスマス!』


2011年2月 :大切に思う心
『イエスが舟(ふね)から上(あ)がられるとすぐに、汚(けが)れた霊(れい)に取(と)りつかれた人(ひと)が墓場(はかば)からやって来(き)た。』  (マルコ5・1)
私たちの心の中で働く悪霊は、実にたくさんあるのではないでしょうか。
ぶつぶつと不平を言ったり、思いどおりにならないとイライラして人に当たったり、人を中傷したり、嫉妬したり、周りを不愉快にさせたり,傷つけてしまった体験は、限りなく思い出されるでしょう。その結果、人に受け入れてもらえなくて、自己嫌悪に陥ることがよくあります。
しかし、こんな私でも、周りの人から示される愛によって、神から見捨てられていなかったと気づき、少しずつですが自分の不自由さから開放されるようになりました。 
そしてそれが、心から人を大切にしようとする原動力になってきています。こんなふうに神に変えていただいた喜びを誰にも伝えていきたいと思います。
しかし、こんなことも考えられます。何一つ不自由なことがないと思っていた子どもが反抗し、登校拒否、万引き、シンナー、補導、家出…。正視できないような服装や言葉使いなど、加速度的に落ち込んでいきます。
両親からみれば、まさに悪夢であり、悪霊に取り付かれたように思えるでしょう。新聞の記事で他人事のように聞いていたことが、我が子のことになってみると、ほとんどの親はなすすべを知りません。
実のところ、その子どもは本当に楽しくて、そのようなことをしているとは思えません。能力や外見だけを評価する世間に対する抗議の一種なのでしょうか。
ここで考えてみて下さい。そのような抗議は、とかく社会から締め出され、その子どもはますます落ち込んでいきます。家庭はその子どもを繋ぎ止めておくことができないばかりか、"墓場≠フようになっていきます。
汚れた霊とは、人間の心に誰でも持つ自己矛盾なのかもしれません。こうした方がよいと思いつつ、それとは反対の行いになってしまう弱さなのかもしれません。
私たちキリスト信者の心に響く主イエスの声に気づいていなければ、私たちは人間らしさをすぐ失ってしまうことを忘れてはなりません。
汚れた霊に取り付かれた人々は、自分で自分の身を傷つけています。現代でも教会の中にもこの霊は働いていて、私たちを傷つけようとしています。
現代は使い捨ての時代で、まだ十分に使えるにもかかわらず、少し古くなったと言っては惜しげもなく捨てていきます。
昔、モノがなく、すべてを大切にした時代には、考えられない状況です。衣服一つにしても、私の子供のころ、母は古いものを解き、再生して着せてくれました。格好は悪かったけれど、母の心のぬくもりを感じ、結構大事にしたものです。
今ではいろいろなモノが簡単に手に入るので、よほど高価なモノでなければ大切にしようという心も薄れているのではないでしょうか。悪い霊のおすすめなのでしょうか。
恐ろしいのは、このモノに対する態度が、人とのかかわりの中にも表れ始めていることです。一人ひとりの関係が希薄になっており、ちょっとしたつまずきで容易に切り捨てられてしまうのです。人間同士なのに、これでいいのですか…。
それは、他人を傷つけてしまうだけでなく、知らず知らずのうちに自分も損なっているのです。とにかく主に近づくことにより、身近にいる小さな人、特に心身ともに苦しんでいる人、小さくされた人を慈しむ心を絶えず取り戻していかねばなりません。
「主よ、あなたに倣って、どこの組織にも表れる多数決≠ノよる軍団を恐れずに、常に弱い立場におかれている人々の側に立つ勇気と大きな力を与えて下さい」。