2007年度
       カトリック松山教会・担当司祭
           ルイス・グティエレス神父
2007年3月 : 一緒に宣教しましょう
みなさんはご存じの通り、今年の高松教区の目標は「宣教」です。宣教は神父、修道者だけの使命ではありません。言うまでもなく教会の宣教活動には、信徒の活動が不可欠です。特に、教会が国民のものとして社会の中にまで深く根をおろしていない日本においては、信徒使徒職活動の重要性は、強調され過ぎることはないでしょう。なぜなら、キリストの福音は、共同的、積極的に信徒の活躍なしには、その国民の生活や働きの中に、心の中に深く浸透することができないからです。信者は、神の国の民であるとともに、その国の国民でもあります。信者は、信仰と洗礼を通して、キリストに属しています。同時に、わたしたちは、この国に生まれ、この国民の生活に結びつき、この国の発展に寄与することを通して、「良い知らせ」を広く伝えていく使命が託されています。
★ 十二使徒のように ★
信者は、各自の社会的集団において自分のカリスマにおいて、その家庭において、その職場において、生活と言葉と模範をもって、キリストを証ししなければなりません。そうしないと、「神の国」を広めることは出来ません。
信者の一人ひとりが、キリストによって新しくされた人の姿を、その国民として歩む生活の中に表し、示していかねばなりません。私たちはこの国の伝統と習慣に従い、その国の社会と文化の領域で、このキリストによる新しい生命(いのち)を証明するのです。
信者は、日常生活で、また職場の中で、家庭で、交わりのある人々の間に、キリストへの信仰の種を蒔いていかねばなりません。
このことは、特にキリスト信者が少ない日本においては、とても重要なことです。
日本では、多くの人々は、身近にいる信者を通してでなければ、キリストの福音を耳にし、そしてキリストに結びついていく機会が、あまりにも少ないからです。教会の司牧者は、信徒の使徒職活動を高く評価し、その促進を図るように助けなければなりません。かつて、司牧者と信徒とは、互いに、「神のことばを宣べ伝える」というその任務と責任を尊重しあい、まだ若い教会が、この国での救いの輝かしいしるしとなるよう、キリストを証しするのです。なぜなら私たちキリスト信者は十二使徒のように、キリストによって教会に呼び寄せられ、集められているからです。
★ 外に向け働く意識 ★
ここで、大切なことは、教会は内向きであってはいけません。自分だけの信仰生活を中心に考え、ともすれば教会に行くだけでよいとか、教会を何か利用する施設のようにしか考えていないとすれば改めねばなりません。アクション団体が勝手気ままに、また信者一人ひとりがてんでんばらばらにと言うのではなく、あくまでもお互いの関わりを通じて、「ひとつ」になり、開かれた教会づくりへ、外に向かって働いていく存在なのだという意識です。だから、キリストが教えるように使わされるときはいつも、二人ずつ組になって出かける必要がありました。その目指すところは教会共同体の宣教です。
★ パン種になること ★
復員宣教は私たちのお互いの関わりのあり方を根本から変える新しいメッセージであり、一つの出来事であるので、それを伝えるときも、当然まず態度に表さなければなりません。周りを見てください。今日、私たちはあまりにも機械や物に頼りすぎているだけでなく、逆にそれらに支配されているのではないでしょうか。その結果、家庭、学校また職場や近所隣でも、ますます人との関わりが薄らいで表面的になってきています。例えばテレビゲームやネットが親代わりになってしまうような状態が続くと、親子の関係は健全に育ちません。あげくの果てには家族同士で話し合う場がなくなり、人間として当然身につけなければいけない「相手を受け入れる」、「許す」、「謝る」、「感謝する」などの基本的な姿勢が育っていない子どもや若者たちが増えているのではないでしょうか。キリストに巡り会った私たちは、このような現代の真っただ中でキリストの示された人との関わり方を広げる使命があると思います。福音を伝えると言うことは、何もむずかしい理論を伝えることではないはずです。福音は頭で考えることではなく、体験すること。まさに世俗の営みの中にパン種となること。自分たちの存在と働きを通じてその営みを福音化することです。
★ 体験して証しする ★
すでに自分の中に福音が本当に入り込んできて、神の愛を肌で感じるようになったのなら、この喜ばしい出来事を一人でも多くの人に伝えたくなるでしょう。今まで、見ず知らずであった人が、かけがえのない友となり、兄弟姉妹の間柄になるとき、福音はまさに悪霊を追い出したり、病気を治す力となるのではないでしょうか。重ねて申しますが、キリストは、私たちがお互いに真剣に関わる生活の中で、社会の中でお会いできる方なのです。福音の願いをこのような人とのつながりの中でしっかりと体験し、未来への希望を証しすること、これこそキリスト者のミッションであり、教会の最大の課題なのです。
さあ、一緒に宣教しましょう。


2007年5月 : 私たちの教会 <上>
日頃、私たちは「教会へ行こう」とか「うちの教会には面白い神父さんがいる」などと話したり聞いたりすることがありますが、その「教会」とは、建物や聖堂を指していることが多いようです。
 しかし、教会とは、キリストを信じる人々の共同体、私たち自身ではありませんか。教会憲章は、「神の民」、「新しいイスラエル」と呼んでいます。(N・9)。
 「教会は古くさい」とか「今の教会は堕落している」と言うような批判を信者の中から聞かされることがあります。でもその人はその時、自分をどこにおいて考えておられるのでしょうか。その人自身も、その同じ教会共同体の一員です。
 どうも、私たちはそういうとき、自分を第三者のように外側において考えることが多いように思いますが、いかがでしょうか。
 このような時、「我々の教会の現状はどうなっているのだろうか、また、その刷新、一致のために、何が出来るだろうか」という発想ならば、「私にも何か出来ることはないだろうか」「みんなで力を合わせて努力しよう」という状況が生まれやすいのではないでしょうか。
 私たち一人ひとりが、教会の大切な「メンバー」であること、教会を形作っている一員であることを思うとき、見て見ぬ振りとか、関係ないというような、冷たい態度は取れないでしょう。
 信者一人ひとりは、「お客様」ではなく、大切な当事者なのです。その喜びも苦しみもともに分かち合い、その出来ごとに参加するとき、教会に対しての態度はずっと近しいものになっていくことでしょう。
 そうしますと、ある神父は「私の会の仕事は教会より優先させるべきです」とか、「私たちが属しているグループ、アクション団体が大切」という声が出てくるのは大きな錯覚だということになります。
 ここで、信仰共同体である教会の姿を、もう少し掘り下げて考えてみましょう。
 初めに、今、考えている教会とは、建物のことではないという側面に触れましたが、人間の共同体といっても、それは集落とか「サークル」のような、単なる集まりのことではありません。
 私たちキリスト信者が、古代教会のころから、信仰宣言として唱え続けてきた使徒信条の中で、「父なる神を信じ、神の御ひとり子、主イエズスキリストを信じ、聖霊を信じます」という宣言の後に、「聖なる普遍の教会を信じます」と唱えます。
 この教会という共同体は、信仰のあるなしにかかわらず、目に見え確認できるのに、なぜ「教会を信じます」と宣言するのでしょうか。 
 それは教会が単に目に見えるだけの集まりではないからです。「キリスト教とは何か」という本の中では、「教会とはキリストを信じる人々の聖霊によって満たされた共同体である」と説明されています。
イエズス様は、神の国の共同体について説教されたとき、「二人または三人が私の名によって集まっている所には、私もその中にいる」(マタイ18・20)と、そして使徒を派遣される時にも、「私は世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる」(マタイ28・20)と約束され、励ましておられるのです。
 「私は何も勉強していませんから」とか、「私は何も出来ません」とか、よく聞かされます。ご本人は、控えめにとか、謙遜のつもりで言っておられるのかも知れませんが、怠惰な心を、または無関心を「カムフラージュ」していることも多いのではないでしょうか。
 もちろん、私自身も、人前に立って命令したり、大きな声を張り上げて、えらそうな態度をとることは慎まなければならないと思います。お互いにいろいろな欠点や間違いもあるでしょう。
 そうなのです、だからこそ、ひざまずくこと、祈ることが大切なことなのです。ご一緒に祈りましょう。
 「主よ、私はこれだけの力しかありません。しかし、もしあなたが助けて下されば、あなたが私と共に歩んで下されば、私にも何か出来ることがあるかも知れません。どうぞ私にも何か手伝わせてください」と。
(次号に続く)


2007年7月 : 私たちの教会 <中>
私たちカトリック信者のいろいろな祈りの中で、一番大事な祈りはミサではないでしょうか。その中心にあるのがキリストの聖体です。私たちの教会のことが、私たちの生活の中に、如実に示されているのがミサであり、ミサこそキリスト信者の生命の泉であり、イエスが最大の愛をもって私たちに与えた最大の贈り物です。
 私が何か出来る、何かをする、という気負い(争い)ではなく、自分の弱さを素直に、勇気をもって認め、自分自身を主の御前に投げ出し、捧げ尽くして、「主のみ旨のままに」と生きていこうとする時、聖体こそ、私たちに生命を与え、大きな力となることでしょう。
 ミサの中で、聖体の秘跡において、パンとぶどう酒の形態のもとに復活して、今も現にここに生きておられるイエスキリストが、聖体拝領によって、私たちの食べ物、飲み物となり、生命の糧として与えられます。
 かわいい幼子や孫を「食べてしまいたいほど、かわいい」と耳にすることがありますが、聖体拝領の時、私たちはイエス様を実際に食べてしまいます。これほど深く一致することは、ほかに考えられません。 
 そして、この生命の糧に養われるキリスト信者は、やがて、キリストのものになっていきます。パウロは、教会をよく「キリストの体」(1-コリント12・27、エフェソ4・12など)と呼んでいます。これはキリストの御体によって養われたキリスト信者が、人間の体とそれぞれの部分が互いに深く影響しあって一つの体となっているように、主キリストと深く有機的につながっている姿を表しています。
 キリストによって生かされているということ、キリストに食べられる、キリストと一致している、ということは、キリストによって救われた者の姿を表しているのですけれども、ルイス神父はこのことについて、十字架を見ながら,つくづくと考えます。
十字架の縦の棒は、私たち人間と神様とを結ぶ棒、横の棒は人間同士を結ぶ棒、そしてその中心となる結び目に、主御自身がおられます。主の生け贄によって、父なる神にまともに顔を向けて「アッパー父よ」と呼びかけることができます。
 また、人間同士が手を結び合わせることが出来るという恵みが、イエス様の言われる第一の掟と第二の掟が重なって追ってくるのを感じます。
 ところで、現実の周囲を見回しますと、教会の中でもいろいろな仲たがいにぶつかることは悲しいことです。初代教会においても、「パウロ派」、「アボロ派」と互いの間に壁を作っていたことがあったようです。(1−コリント3・4)
 仲間を作るのは、一緒に宣教するためとか研究のためとか、活動をするのにも、それはそれでよいことだと思うのですが、変に凝り固まって、排他的な「グループ」になりますと、人間の病気に例えればガンのようなものではないでしょうか。
 それはほかの組織との交わりがないばかりか、ほかの臓器を害し、やがては人体そのもののいのちを脅かすことにもなってきます。
 パウロは、コリント人への手紙の中で、人の体を例にとって、鮮やかに共同体の姿を描きだしています。(1-コリント12・12)
人の体は目や鼻、胃、腸、心臓と多くの器官からなっていますが、それらは何一つとして不必要なものはなく、それぞれが一つにまとまって、素晴らしい一致、尊いいのちを形成しているのです。
 目が大切な器官だからと言って鼻はいらないとは言えないし、心臓が重要だからと言って胃はいらないとは言えません。例えば、体全体が目だったらとか、心臓だけで出来ていたらと考えて見ればよいのです。
 ここで、大切とか重要とか言われているけれど、それを等級とか上下の差として扱うのは適当ではありません。
 罪人、病気の人、社会からさげすまれている人などなど、私たちキリストの教会ではそれぞれに違った役割を持っているのであって、みんな大切な人なのです。
 盲腸は、今や不必要な器官だとの意見もありますが、果たして、そうでしょうか。
 「まだ、十分には明らかにされてはいないけれど、やはり何か役割を持っているものと思われる」と言っておられたあるお医者さんの言葉が私の心に強く残っています。
 まして、教会共同体においては、一人ひとりがイエス様から大事にされ、ご聖体を通して深く一致をしている人なのです。誰一人として、どうでもよいという人はいないはずです。それぞれの人が、現に今、その場所で、神様から独自の使命が与えられているのです。
 だから私たちは、互いに愛し合いましょう。   (次号につづく)


2007年9月 : 私たちの教会 <下>
私たちが洗礼の恵みをいただいて神の民と深く結ばれたとき、一人ひとりは特別の使命をもいただいたのです。
 イエス様のこの世での生活は三十三年余りでした。その中で公生活と呼ばれて神の国の福音を宣べ伝えられたのは三年ほどでした。そして、そのあとのこの世での仕事を使徒たちを通して教会に、私たち一人ひとりに託されました。
 「今度は、あなたたちの出番だよ…」と言う声が聞こえるような気がします。
 そんなとき静かに考えてみますと、「この私が…?」と、荷物が重過ぎるようだと不安になります。しかし、主は単に使命を与えるだけではなく、そのための力をも与えて下さいます。
 主ご自身を私たちに与え、主が私たちを力づけ、勇気を与えて下さいます。私が何かをするというのではなく、主が私たちを優しく包み込み、何かをさせて下さるというのが実感です。すべての人、特に貧しい人びとに神の国の福音そのものであるキリストが宣べ伝えられ、キリストの救いの恵みにあずかり、一つの神の民となって、神を父とする家族に集められることは神様の望みであり、計画なのです。
 そのための道具、秘跡として、教会が建てられたのですから「宣教活動が、教会そのものの本性から流れ出ることは明らか」と言えるでしょう。
 宣教活動の中心は、「生活(模範)と言葉による証し」です。
 「すべてのキリスト信者は、自分
 が生活している場所で、模範的生活とみ言葉の証しをもって、…聖霊の力を現わさなければならない」と述べられているように、宣教は何か特別なことを、特別な場所に出かけて行ってすることよりも、毎日の自分の生活の中ですることが大切です。   
会社員は会社へ、学生は学校へ、病人は病院へ、宣教のために、キリストの証しをするために派遣されるのです。  
日本人の中にはキリスト教は“ばたくさい”、つまり、西洋的だという感じを持つ人が少なくありません。 
 そのような感じを与えているとすればキリスト教は、なお一層日本の文化や社会的生活に参加し、貢献する必要があるのではないでしょうか。
 日本の文化や宗教、習慣や風俗の中にも美しく正しいもの、福音的なもの、福音と出会って花咲くべきものがもちろん、たくさんあるわけですが、敏感な感受性と福音の光に照らした識別によって、この福音の種子を見つけ、育てることが大切だと思います。
 教会とはミサにあずかるために集まるところという印象が強く、宣教は司祭や伝道師の役割で、共同体と余り関係のないところでなされているような感じがあります。
 しかし、信徒の共同体(みんな)は本質的に宣教する共同体でなければなりません。そして宣教者の目的はそのような共同体を育てることにあります。
 教会の自給自足が経済的、人材的な面ばかりでなく、信仰教育、宣教、霊的な恵みといったいろいろの点でも自立する共同体をつくることが大切です。
 つまり、自分たちで祈り、自分たちで学び、自分たちで互いに(例えば子供たちや求道者を)教育し、自分たちで宣教する共同体です。
 もちろん司祭も共同体の一員ですから、その中に役割を持っていますが、しばしば今まではあまりにも司祭に頼り切っていた面が多過ぎて自立からは遠ざかっているのが本当のことではないでしょうか。
 そんなふうに共同体を育てた司祭たちにも責任はあるでしょうが、それに安住していた面があることも否定出来ないでしょう。
 初めに「教会へ行く」ということを言いましたが、いま、私は反省しますと「教会とは"行く"ところではなく"帰る"ところ」なのですね。
 自分たちの本当の家は教会であって、一週間の祈りと働きをもって帰って来て、英気を養い、そしてまた実社会へと出ていく、派遣されるのだということですね。
 ミサの終わりに「ミサを終わります。行きましょう」と、心から出発するのです。自分のそれぞれの場での日々の生活をミサの中で神様に捧げ、そこで主キリストの最後の晩餐(ばんさん)と生け贄(にえ)とに参加し、新しい力をいただいて派遣されるのです。
 さて、教会憲章で「旅する教会」(aE9)という表現があります。私たちの教会はこの歴史の中に大きな目標に向かって進んでいる途中なのです。
 いま私たちが生活しているこの教会が完成されたものではありません。なんといってもこの私が受け入れられて、その旅に加えていただいているのだから。
 この教会の中に現存される復活されたキリスト、その導きを信じるとき、いま、ここでの自分の使命をしっかりと見つめ、主のあとに従い、私たちは旅を続けているのです。


2007年11月 : 一致を求めて
イエスの祈り『父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります……』。
 みなさんは、このキリストの言葉、気になる言葉ではないでしょうか。
 最近、私たちはよく使う多様性の一致=cなどと言葉でいうのは簡単ですが実現されるとなると、この上なく難しいです。いいえ、本当の意味でこの世に実現できるのでしょうか……。
 「一致する」というのは、同じになることではありません。個々がそれぞれのもつ独自性を出しつつ、しかも互いを補いつつ、調和がとれている…ということですね。
 しかし、職場で、家庭で、教会での人間関係をみてみると、とてもそんな理想からは遠いようです。いつの間にか、二つか三つかの派閥のようなものができていて、あの人はこの派閥、この人はこの派閥などとついつい色分けする傾向があるようです。
 自分はどのグループ≠ノも属せずに、中立でいたい、むしろ互いが歩み寄ることができる働きかけをしたいと思っていてもそれが逆に誰にでもいい顔をする八方美人≠ノ思われる時もあるのではないでしょうか。
 私たちは地域、職場、家庭、教会と様々なグループ≠ノ属しています。残念ながら…イエスの時代の共同体、理想的な共同体に少しでも近づくことが出来るよう祈らなければなりません。
 『父よ、あなたが私の内におられ、わたしがあなたの内にいるようにすべての人を一つにしてください』。キリストがこのように御父に祈られたように私たちも切に自分の祈りにしなければなりません。
 それでもなかなか一つになれない。やはり人間には不可能だと落ち込んでしまう時もあります。しかし、祈れば祈るほど一つになりたい気持ちが強くなるから不思議です。
 利害に絡む分裂、意見の対立、自分の立場だけから物事を見る他人軽視による分裂、自分から一つになりたいと近づけば相手が逃げる矛盾、数え切れないほどの亀裂があります。だからこそ、私は強く祈りたい。
 「主よ、すべての人を一つにしてください。毎日新たにこの道を歩ませてください」。
みなさん人間関係ほど難しいものはないでしょう。みんなそう感じているのではないでしょうか、心の中で。
 今、私たちが住んでいる社会は高齢化社会です。教会に来ている信者さんはほどんど年をとっている人です。だから、年齢を重ねていくたびに強く感じます。
 遠くにいる貧しい人、見捨てられた人、軽蔑されている人のためには優しい気持ちになれても、近くにいて、自分の気にいらないことばかりする人には、ついつい当たり散らしてしまいます。
一対一の付き合いでさえ難しいのに、一つの家族、共同体の「和」を保っていくのは至難の業です。馴れ合いでも、諦めでもないまことの一致と調和をつくり上げることは、同じ信仰に結ばれていてもその難しさに変わりはありません。みなさんは夢を見なければなりません。しかしユートピアなのでしょうか。すべての人が一つになった世界、それはとても素敵な世界に違いありません。「世界がもし一〇〇人の村だったら」は世界を一つの村に例えています。
 インターネットを通して、人から人へと伝えられていった短いエピソード=B伝えられるうちに、細部は少しずつ変わっていきましたが、基本的メッセージは変わっていません。
 男性、女性、子供、大人、異性愛者、さまざまな人種、言語、宗教、「いろいろな人がいるこの世界では、あなたとは違う人を理解すること、相手をあるがままに受け入れること、そして何よりそういうことを知ることがとても大切です」。
 さまざまな境遇に生きている人がいるこの世界、「まずあなたが愛してください。あなた自身と人がこの世界に生きているということを」、「もしも、たくさんの私たちがこの世界を愛することを知ったなら、まだ間に合います。人々を引き裂いている非道な力から、この世界を救えます。きっと」。
 受難の前に、イエスは弟子たちのため、そして弟子たちの言葉によってイエスを信じた私たちのために長く祈りました。願ったことの一つは彼と天の父が一つであるように、すべての人も完全に一つになるということでした。
 さらに、イエスはその願いどおりに私たちが完全に一つになれば、天の父の私たちへの愛がこの世界に証明されると言っています。本当に私たちはこれを信じていますか……。
 しかし、いまだにこの世界のすべての人々は一つになれず、偏見、差別、敵意、戦争などが絶えません。
 キリスト者として、すべてのひとが一つになることを積極的に求めているはずの私たちも、それらの実態を他人事≠ノしてしまい、十分な反対の声を上げていないのです。それは、天の父の私たちへの愛を実感していないからなのでしょうか。
 ある教会で新しい活動を始めました。最初は人数が少なく、どうなるか分からなかったので、信徒も神父もお互いよく協力し合いました。
 そうして、活動がうまく軌道に乗り、参加する人がだいぶ増えたので、他の活動グループと教会全体との関係を明確にするため、組織化することになりました。
 ところが、組織ができると、その中で権力を握りたい人、上に立ちたい人、他の人々の悪口を言ったり、批判したりする人が出てきました。「他の人々を指導しなければ……」、「なになにの伝統を守らなければ……」などなど。
 『あなたがたの中で偉くなりたい者はみんなに仕える者になり、一番上になりたい者はすべての人の僕になりなさい』。というキリストのことばを忘れたくありません。
 キリストの生き方に倣って、『仕える』とは、何なのかを、身につけたいのです。それと今一度、自分の信仰に対して常に問う姿勢を忘れない光と勇気を祈り求めなければなりません。
 「主よ、あなたもよくご存じだったはずです。喧嘩ばかりしていた弟子たちと三年間も付き合われたのですから。それでもあなたはすべての人を一つにしてください」と祈られます。
 すべての人が一つになることは、人間の力をはるかに超えています。人間に不可能なことです。それを可能としてくださるのは、ただ神のみ。
 「主よ、私たちの一致は、あなたにおいてのみ可能であることを深く悟らせてください」。