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| ピーター・ウィアー (Peter Weir, 1944- ) | ||
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ピーター・ウィアーは1944年の8月21日に不動産屋の息子としてシドニーに生まれた。シドニー大学に進み、芸術・法律コースで学んでいたが、思うところあって学業を半ばで放棄して父親の商売を手伝うことになった。1960年代初めの好景気に乗って不動産業は繁盛し、数年の間にかなりの金を稼ぎ出した。そこで、その金でヨーロッパ行きの片道切符を買ってギリシャ船に乗り込んだ。21歳の時であった。当時のオーストラリアの若者にとって、ヨーロッパへの船旅は欠くことのできない体験教育の場でもあった。けれどもウィアーにとってその船旅は、初めのうちは期待に沿うものではなかった。船のなかには娯楽施設がなく、退屈きわまりないものであったからである。そこで船のなかで知りあった友達二人と、その退屈な状況をなんとかしようと考えた末に、船内の有線テレビを利用することを思いついた。こうして小さなテレビ・スタジオの使用許可をとって始めたショー番組は、船客や船員たちに大いに気に入られ、これに気をよくしたウィアーはショービジネスの世界に入る決心をすることになるのである。彼は大学を中退した理由について、「そこでの理性主義にうんざりしていたからで、もし、ちゃんと卒業していたら映画を作る仕事には絶対についていなかった」とも語っている。 ヨーロッパの各地を歩きまわった末に1967年に帰国したウィアーは、シドニーのテレビ局ATN-7に小道具係として入社した。そこで何か新しいものに挑戦したいと考えている人々と知りあい、彼らと一緒に最初の短編映画 Count Vim’s Last Exercise (1967) を作った。けれどもこの行き当たりばったりのコメディタッチの作品は、素人っぽさも目立ちすぎていて無視されてしまう。そして、二作目の宗教的崇拝をパロディ化した短編 The Life and Times of the Rev. Buck Shotte (1968) が、1969年のシドニー・フィルム・フェスティバルで上映されて初めて認められることになるのである。 ウィアーはATN-7が昇給を認めてくれなかったために、1969年に記録映画の製作でよく知られているCFU (The Commonwealth Film Unit) へ移ることになった。CFUへは監督の仕事をしたくて入社したのだが、初めのうちは仕事がなく、演出助手やカメラマンの助手を務めていた。そんな彼に翌70年、チャンスがめぐってきた。三話で構成されるオムニバス映画 Three to Go のうちの挿話の一つ Michael の演出を任されたのである。ヒッピー文化に引きつけられた実直な北部沿岸出身の事務員を主人公としたこの作品で、ウィアーはAFI賞 (The Australian Film Institute Awards) のグランプリを獲得した。そして続く1971年には、Homesdale という52分間のブラック・コメディを製作する。離れ小島にある人目につかないゲストハウス・・・。そこは、訪れてくる人たちが自らの内に秘めた想像力を思いきり表現して行動に移すことのできる場所。このゲストハウスを舞台にして、そこを訪れたロックスターと舞台女優の関わりを描いたこの作品が、前年に引き続いてAFIのグランプリを受賞したのである。 こうして短編や中編を中心にオーストラリア国内で力をつけて認められだしてきたウィアーは、CFUを休職して再びヨーロッパや中東へも足を伸ばす充電の旅に出ることになった。この休暇旅行中に、彼は後に製作するいくつかの作品のための重要なヒントを得ることになる。長編処女作の『パリを食べた車』(1974)の下敷きになったアイデアも、この旅行中に得たものである。この、人を食ったようなブラック・コメディ・タッチの処女長編については賛否両論の反響が上がったが、ウィアーの名前をオーストラリア映画界に知らしめる機会にはなった。そして翌年に発表された『ピクニック at ハンギングロック』(1975)が、オーストラリア映画史上で第二の収益を上げるほどにヒットしたのである。オーストラリアの太古の自然を背景に、寄宿制女子学校の生徒たちの失踪事件をミステリアスに描いたこの映画は、国内はもとより英米をはじめとしてヨーロッパの人々にも広く知られることになった。こうしてオーストラリア映画界でニュー・ウェーブの旗手として台頭したウィアーは、アメリカからの資本を得て、『誓い』(1981)と『危険な年』(1982)の二つの作品を発表する。前者は第一次世界大戦下の地中海のガリポリ戦線を、後者はスカルノ政権崩壊直前のジャカルタ(インドネシア)をそれぞれ舞台にして、オーストラリア人の生きる姿を描いている。そして『誓い』がオーストラリア国内や英米で大ヒットし、国際的な評価がいっそう高まったウィアーは、本格的にハリウッドに進出して映画作りを始めることになったのである。主な作品としては、ハリソン・フォードを主演に起用してアカデミー賞の脚本賞と編集賞を受賞した『刑事ジョン・ブック/目撃者』(1985)をはじめとして、『いまを生きる』(1989)、『グリーン・カード』(1990)、『トゥルーマン・ショー』(1998)、『マスター・アンド・コマンダー』(2003)などがあり、いずれもアカデミー賞にノミネートされ、そのノミネート部門のいくつかをも受賞してきている。 ウィアーは1983年に豪日交流基金の招きで初来日し、『オーストラリア映画産業の発展』と題して講演を行なっている。その講演で、彼は「作品を世界の人々に知ってもらうために、世界の映画配給権を握っているアメリカ資本に頼らざるを得ないのはしかたがない。しかし、だからといって自らの信念を曲げてまで配給会社の意向に迎合したくはない」と述べている。そこには、人口が希薄で市場の狭いオーストラリアという国に育った映画人の苦悩の一端がうかがえる。そしてその言葉の通り、彼はアメリカで映画を作りながらも、自らの拠り所となる場所は母国オーストラリアに置いて、製作スタッフもオーストラリアで映画を作っていたときの人たちとチームを組むことが多い。また、じっくりと時間をかけて自らの関心のあるテーマを中心に作品を作り上げるという、制作態度の丁寧さには定評がある。 (注) ここで述べたウィアーの経歴については、主として下記の文献を参考にしています。また、中・短編作品は日本では未公開のために、題名は原綴りとしました。 D. Stratton, The Last New Wave: The Australian Film Revival, Sydney: Angus & Robertson, 1980. [2004/10/04] |
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