1.はじめに

私は、生涯を田舎の内科開業医として、そして今も現役で、診療をつづけております。
60年安保の頃は、医学生で、70年安保の頃は結婚し二人の子供も居りましたが、大学の無給医師で、働いて居りました。

研修医まえのインターン制で医師になった老人です。
若い頃は、受験の失敗、失恋やら思うに任せず、哲学書を覗いたりし、「矛盾」こそ、この世の真実では無いかと、考えました所、古代ギリシャ哲学者(故人)の身内から、「矛盾を認めたら、総てメチャメチャだ」と諭され、その時から「矛盾の否定」こそ、自然科学の精神と、生涯忘れたことは在りません。

だが、社会主義と自由主義との対立する世の中、「矛盾」はあるとしか、思われませんでした。



 2.矛盾との出会い

読者の皆様も十分ご存知の様に、この世に生きる時、至る所で「矛盾」に会います。
だが、当時は生きるのに、また、医療に夢中であり、建前(正論、または、真実の本質)は、それはそれとして、本音(生きてゆく偽らざる心)とを、上手に使い分ける のが「一人前の男」の様に考えて居ました。

「矛盾」は有って当然と無理なく考えて居ました。
そんなある時、西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」と言う言葉に出会いました。

私は内科医で哲学は若い頃、少しばかり西洋哲学史を「ななめ読み」しただけで、何の素養も、逆に寧ろ「哲学的白紙」ですので、忙しくもあり文献など探さず、読まずに、暇な時に、畳に寝転がって「紙と鉛筆」であれこれ一人空想、思索にふけったりして居りました。
また、別の日ですが、偶然にも般若心経に「色即是空 空即是色」と言う言葉を見つけました。

だが、お経を唱える気はなく、私は仏教徒でなく、関係者の不幸に儀礼的に行動するし、参列はするものの、建前仏教者です。そんなわけで、ここでも、「紙と鉛筆」の迷走三昧?です。



 3.西田哲学、般若心経への独断的で乱暴な解釈

「絶対矛盾的自己同一」と言うのですから、「絶対矛盾」と言うものが無くては成らない。
お互いにどうしても「相容れない」もの。皆さんも考えて見て下さい。

私は、考えた末に、「有と無」では無いかとしました。
しかし、「有と無」との「自己同一」となると、もうダメです。どうにも理解出来ません。

「ぜったいに相容れないもの同士が 相容れる」とは、どう言うことでしょう。
「矛盾を否定」する科学の精神に、明らかに反します。 他方、「色即是空」とは、色(現象、存在、有、アル)が即(直ちに、とりもなをさず、そのまま)つまり、イコール空(非現象、非存在、無、ナイ)と言うことであり、「有」=「無」となって仕舞います。

これも、科学の精神に反します。 つまり、両者とも、「矛盾」そのものと、結論づけました。



 4. 自然科学と本質論

内科医の私は、もちろん、唯物論者で自然科学の信奉者です。
上記の二つの矛盾は、とりあえず捨て置きました。

科学では、現実の自然が、もっとも大切です。
そこでは、自然の観察、測定(もちろん、数学が大切)し、統計処理し、再現実験が出来て、まるまるパーセントで、真理とされます。

と言うのは、この現象世界(我らの生きているこの世)では、同じものは二つとナイからです。
時には、珍しく「一例報告」と言うこともあります。だが医学が現在すべて科学的とまでは行きません。とりあえず、経験症例が重要であり、医学は毎日、日進月歩で進んでいます。

さて、西田哲学も、般若心経も、科学ではありません。
よって、「矛盾」と考えましたが、だから、誤りとは言えません。

この世には、「本質論」と言うものがあります。
「見たところ」は矛盾の様ですが、「本当は、見かけの奥の真実」は、矛盾ではナイのです。

ここが、科学と本質論の差異です。
とは言っても、「本質論」はその真理(本質)へのアプローチでは、科学に比べ二の次三の次でしかありません。




 5.この世と本質論

単純に科学と本質論とを比較は、出来ません。
宗教も、哲学も、政治経済理論も、芸術も、その他多くの「本質論」が、建前があります。
「生きんがための」諸々の考え、希望、願い、欲望などなどより、出来ています。

この世には「建前」はどうしても必要です。

私たち人類の歴史を思い出してみましょう。
仏教も、キリスト教も、どちらも「本質論」であり、科学ではありません。

しかし、共に長い歴史の中で、政治経済、文化文明、もちろん、信仰にも、大きな影響を今日まで及ぼして、居ります。

科学および科学技術は、これら「本質論」の発展途上の道具(手段)でしか、ありません。
「本質論」の重要さの一例です。別の例では、哲学の「弁証法」は「共産主義理論」に発展して、「階級闘争」を産み、革命の末に、「社会主義国」がこの地球上に生まれています。

ここでは科学は本質論の実現の「道具の一部」でしかありません。



 6.本質論を求めて

内科医として、毎日患者様と顔を合わせております。

病院は「いのち」と触れ合う現場です。そこでは、患者様が「あの世」に行かぬ様にと、頑張っています。それでも、そこに行かれる患者様も居られます。

だが、そこから帰って来て呉れた患者様は、居りません。
そこがどんなところか、全くわかりません。

では逆に、「この世」とは、本当は如何になっているのでしょうか。
いろいろ考え、私らは、「時間」と「空間」の中、この世(宇宙)に生きていると、思われます。

この研究は科学が行っています。この研究は科学に任せて、「時間と空間」とは本当は、真実は、何かを、考えて見たく成りました。

そこで、「矛盾」そのもので、結論は出ないかも 知れませんが、もちろん、科学でなく、「本質論」ですが、西田哲学、般若心経も参考にして、S、イマムラ独自で、「時間と空間」(これが後で論ずるC点論)を考えて見るに当たり、「有と無」とが合一した有無合一体(これがC点)と言う「矛盾」をオリジナルな視座(視点、立場)として、また、C点を思索するに「無限」(限界無く、終わりなく、何処までもつづく)をC点論でのオリジナルな「視座」とします。

哲学者達に於ける「無限」の議論は取りませんので、予め、了解をお願い致します。



 7.C点論と仏教との関係

C点論は、「矛盾と無限の視座」により、独自の「時空論」となっていますが、仏教哲学(釈迦、竜樹による思索制限がある仏教理論)には、参考となる問題多く、問題点に種々触れましたが、「仏教」自体は、本質論であり、科学ではありません。

2,600年を超える歴史の中で、複雑多様に、変化し今日に至って居りますが、それぞれの人びとの宗教的「感性」を認めるのが一般的でしょう。



 8.おわりに

「C点による時空論 改定版」以下のホームページから、田舎の老内科医の「いのち」への思いが、少しでもお読み下さいました皆様に、伝われば、幸せです。

なを、今回「C点による時空論」を改定いたしました。

関連サイト0:C点による時空論(改定版)http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/
関連サイト1:般若心経と矛盾(改定版) http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/hannya/
関連サイト2:生老病死とお釈迦様 http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/syaka/
関連サイト3:精神について http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/seishin/
関連サイト4:C点による仏教論 http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/bukkyo/
関連サイト5:C点による仏教的宇宙論(改定版) http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/ucyuu/
関連サイト6:C点による般若心経 http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/cpoint_h/
関連サイト7:C点論における矛盾と無限(改定版) http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/cpoint_mm/
関連サイト8:C点論と仏教論 http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/cpoint_bukkyo/
関連サイト9:要約C点による時空論(改定版) http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/summary_cpoint/
関連サイト10:曼荼羅とC点論 http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/mandara/
関連サイト11:仏教を巡って http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/around_bukkyo/
関連サイト12:C点論を巡って(改定版) http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/around_cpoint/
関連サイト13:C点と生命雑感 http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/cpoint_seimei/