- 1・はじめに
これまでに、C点論として、ネットに
「C点による時空論」(http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/)
「C点による仏教論」(http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/bukkyo/)
「C点による仏教的宇宙論」(http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/ucyuu/)
「C点による般若心経」(http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/cpoint_h/)
として4本の小論を出しましたが、なにしろ「矛盾」と「無限」ですので、難解であることは、避けようがありません。そこで、ここでは「無限」の行き着くところが、「矛盾」ですがそれをポイントを絞り、取り上げて見たいと思います。ここで読者の皆さんは、上記4本の小論をお読みの事との前提で以下を書きますので、宜しくお願い致します。ご面倒をお掛けします。
- 2・C点における矛盾
C点は、「空間」と「物質」より成る「現象」を「無限」に分割するところから論が始まります。まづこの無限に分割の「無限」が問題です。書き始めから、唐突で御免なさい。「無限」と言う言葉も、解るようで分かりにくいですね。さて、この無限とは「終わりの無い事」です。私達の現象世界では、総てが「有限」です。終わりが無い事は、私達には、不安であります。まずこれが第一の難関です。この「無限」
と言うことばが、曲者です。今後何度も出ますが、ポイントです。
科学の分野では、「無限」は存在しません。科学の対象は現象世界で、総て「有限」であります。観察し計測し、それにより真実を解明し、了解可能な真理に達します。C点論は、科学では有りません。哲学では「矛盾」や「無限」は、境界領域です。ここでは何処までも「思考」が研究の手段です。C点論は、「宗教」です。ここでは、「瞑想」が最後の切り札です。
「瞑想」とは何か? この答えはこの小論を最後まで読んで、そこに何か納得できるものが有れば、それが答えと言えるかも知れません。宗教とはその様なものです。宗教とは、理論でのみ了解するもので無く、何か全精神で無条件に納得することである様にもおもわれます。
さてC点に戻ります。
物理学では、物質を分割する事により「分子」に達しました。そして分子を分割する事により「原子」に達しました。そして最後に原子を分割する事により、最早これ以上は分割出来ない「素粒子」に達しました。ここが科学の限界です。「無限」の分割は科学には有りません。
これは「概念」のみの世界ですが、宗教では「瞑想」により、素粒子を「無限」に分割します。すると素粒子は、限り無く「無」に近づきますが、それは無では無くてどこまでも「有」であります。ただそれは、究極において空間に「体積の無い」そして、空間に「位置のみ占める」ところの「粒子で無い」純粋な「点」となります。瞑想においてそこまで分割します。ここが「無限」と言う難解なところであります。
とにかく一つの関門です。幾何学的には、3次元の空間における「点」であり、数学的には「0」であります。ここで少し「C点」に近づきました。とにかく、物質を無限にと言うことには、なにか抵抗感を覚えますが、先に進みましょう。極めて小さな謎に満ちた「点」に達しました。
「謎」に満ちた「点」ですが、ここで一歩退いて、冷静に考えてみますと、空間に体積の無い点、これは空間に「存在し無い」点でもあります。そして空間における「位置も無い」存在でもあります。この点は私達の感覚では、「無」であります。無
は空間において漠然とした全体、「無限の広さ」であり、また数えきれない「無限の多数」でもあります。この点は確固たる「無」であり、最早、有なる点では無くなっています。
いま私達は、無限に小さな「有」と無限に大きな「無」とに、同時に同位置で直面しております。これは難解な「矛盾」であります。ここでは「有」も存在出来ません。存在出来るのは、瞬間の「0秒」です。また「無」も存在出来ません。ここでも存在出来るのは、瞬間の「0秒」です。有と無とが存在出来るのは、つまり「矛盾」が存在出来るのは、瞬間の「0秒」しかありません.この「0秒」に「謎」に満ちた点と空間は、「C点」と成ります。「C点」とは、「有」と「無」との合一した存在で「有・無合一体」と呼びたいと思います。「C点」は「0秒」の瞬間のみの存在です。ここが「C点論の最難関」で「瞑想」を要します。「0秒」がポイントです。「0秒」だけは、有と無との同時同位置存在が可能であります。だがこれは「瞑想」しか了解する手段がありません。
- 3・「0秒」における矛盾
現象世界は、「時間」と「空間」とから成っております。時間は、空間における物質の「変化」と「非変化」とから成っております。物質の変化は、「持続」を要します。また物質の非変化は「瞬間」でしか有りません。この持続・瞬間と言うたがいに相容れない「矛盾」の同時同位置存在が「時間と言う概念」です。つまり物質の変化・非変化と言うたがいに相容れない「矛盾」の同時同位置存在が時間であり、実在するのは物質のみで、空間のみが実在で、時間は概念に過ぎません。
時間は、過去・現在・未来と流れます。過去から現在に至る瞬間を「−0」とします。現在から未来に至る瞬間を「+0」とします。すると現在は、「±0」となります。「−0」は過ぎ去ったもので存在しません。無であります。「+0」は未だ来たらぬもので存在しません。無であります。現在は「実在」しております。しかし、「±0」は前後の無、「−0」と「+0」に挟まれ、無限に圧迫されて、その究極は、「0秒」となります。そして、物質の「変化・非変化」の矛盾が、0秒において合一します。現在と
言う「0秒」も有・無合一体、「C点」とこれは矛盾なくむすびつきます。
現在が「0秒」であります。ここが最難関の「無限・矛盾」であります。過去・現在
・ 未来という時間も「0秒」のなかを流れます。有・無合一体つまり「C点」の謎で
あります。現象世界に生きる私達の率直な「感覚」からはC点論は、ギャップがあり過ぎます。「瞑想」と言うも限度があります。だがC点論をパラノイアと決め付けることも出来ないとおもわれます。現在と言う瞬間は「0秒」なのです。十分に「瞑想」
して下さい。
「0秒」が現在と言う瞬間、「0秒の連続」も「0秒」、しかし一方では、これは「無限の過去」と「無限の未来」に結びついています。ここでも「無限」が問題です。無限に短い「無」に近い持続が、そしてこれは瞬間でもありますが、「有」が、無限に長い「無」の持続と成っております。これはC点論の特徴のようです。私達の感覚では、長い長い宇宙の歴史、地球の歴史、人間の歴史、そして人生とどんなに考えても、長い時間は、実在のようです。しかし、実在するのは、「0秒」です。
C点論では、時間的にも、空間的にも、「無限」は「矛盾」となり、0=∞ を暗示している様に思われます。宗教的瞑想の戯れでしょうか? 「0秒」の謎です。
- 4・現象について
ここで現象について考えます。物質は、物理学によれば素粒子から成っています。
しかし、どうして「C点」から素粒子に成るかは分かりません。宗教と物理学のあいだのギャップは、どうすることも出来ません。だが物質はC点から成っています。物
質には空間における「拡がり」があります。この「拡がり」の維持のためには、空間において、C点同士の「引き合う力」と「離れあう力」を必要とします。C点にはこの力があります。つまり「エネルギー」があります。どのようなエネルギーかは分かりませんし、数量化も出来ません。
物理学で言う大爆発「ビッグバン」がこの現象世界、宇宙の始まりとしますと、C点は体積の無い存在ですので超高密度の集合も可能で、C点の「離れあう力」が爆発の原因かも知れません。これは全くの空想です。ビッグバン宇宙以外にも宇宙はあるかも知れません。
さて、現象の変化とは何でしょうか。それは
物質が空間に変わり、空間が物質に変わることであります。つまり、物質はC点の「有」の性質がメインで、空間はC点の「無」の性質がメインですが、この性質が「0秒」でかわることで有ります。蛇足ながら書きますが、人が歩いています。人の前方の空間が人に変わります。すると人の後方に空間が残ります。つまり、空間が物質に変わり物質は空間と成りました。これが「変化」です。瞑想して下さい。
また、現象とくに物質は液体・個体・気体と大きく三つにに分けられます。ここで遺伝子を持ち物質代謝を行う個体が生物です。遺伝子を持ち物質代謝を行う個体の発生が「誕生」であり、その消失が「死亡」で、これがC点論の「死生観」です。
ここからは「仏教」の考えを私なりに、引用しました。仏教哲学とは関係なく、私の私見です。暴論かもしれません。
「縁起」からの引用です。原因の「因」が卵子であります。条件の「縁」が精子であります。そして、精子と卵子の合一が生じ、その結果として「果」である受精卵と成りました。「因縁果」として、「性欲」が説明されました。
「因」として受精卵があります。「縁」として栄養、酸素、水、などが受精卵に取りいれられ、不要物が捨てられました。「果」として成長があり、「食欲」が説明されました。これも「因縁果」です。
この変化「因・縁・果」も、本質的には、C点論の説く「0秒」でおこなわれます。
なを蛇足ですが、「食欲・性欲・睡眠欲」は生物の生きる基本です。
現象世界にはさまざまな「変化」がありますが、「因・縁・果」の縁起でよく説明できます。また、学問的にそうだとは言いませんが、「正・反・合」と言う弁証法でもよく説明できます。洋の東西を問わず現象世界は、同一です。
宇宙の本質論は、「無限」と[矛盾」になります。「0秒」という「現在」において、変化は接続され、現象世界では、
現在という瞬間の[0秒」も、有・無合一体のC点の[無」も、私達の感覚器官では認識されないため、「有限」で
「矛盾無く」、私達の現象世界と成っています。
- 5・おわりに
これまでC点論における「矛盾と無限」について書いてきました。それに仏教から「因縁生起」について引用させて貰いました。意味が了解願えたかどうか、不安です。仏教は、巨大な山岳です。頂上は「無記」に隠れています。般若心経における「色即是空」、華厳経における「一即一切」「一即多」、中論における「非有非無」など登山道は幾つもありますが、それぞれ頂上に近づいているようですが、いま一歩です。C点論の「有・無合一体」もその中の登山隊です。とにかく仏教は巨大な山岳です。これからの研究をまっています。
しかし、ここでは「宗教」としての、「信仰」としての仏教は論じておりません。これらは多くの僧や信徒にお任せします。最後に、この小論を古希を迎えた妻に。
著者 内科医 S・イマムラ
関連サイト1:C点による時空論 http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/
関連サイト2:C点による仏教論 http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/bukkyo/
関連サイト3:C点による仏教的宇宙論 http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/ucyuu/
関連サイト4:C点による般若心経 http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/cpoint_h/
関連サイト5:C点論と仏教論 http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/cpoint_bukkyo/ 関連サイト6:要約C点による時空論 http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/summary_cpoint/ |