1.はじめに | 2.C点による仏教論 | 3.現在の仏教
 1・はじめに

これは信仰としての宗教論ではありません。また仏教学の論文でもありません。一般人による単なる思索に過ぎません。

「C点による時空論」に続くものでありますので、これを読む前に検索してください。ご面倒をお掛けします。

 2・C点による仏教論

さてC点とは、3次元の立体、2次元の平面、1次元の直線、を考えるとき空間に位置のみ占める体積の無い、粒子でも無い「点」であり、0次元の存在です。

C点は「有と無」とを同時同位置に持つ点であり、矛盾・無限の視座により瞑想するしか了解出来ず難解な有無合一体という存在です。

この矛盾・無限の視座に立つC点は、総ての始まりです。
C点の空間における意味はひとまずおいて、時間との関係を考えたいとおもいます。

時間が存在する為には、空間に於いて物質の変化・非変化が必要でそれにより持続・瞬間と言う時間が成立します。
「C点による時空論」の言葉を使いますと、変化とは物質Aが空間非Aになり、空間非Aが物質Aと成ることであります。

変化とは空間非Aの中を物質Aが移動することでは有りません。
空間非Aは物質Aとなる能力を持っており、単なる無ではなくC点では有りますが、「無」が優位に有るだけで非有非無のC点であることに変わりはありません。

これに対して物質Aは非有非無のC点では有りますが「有」が優位であり、純粋な有ではありません。
ただ現象世界では「無」は認識されませんので、我々の眼には特別なものには、物質Aは映りません。

現象世界は物質Aも空間非Aも[C点]より成り立っていますが、仏教学の基本「無自性」を導入せずに「非有非無」の仏教の世界に至ります。
それ故「世俗諦」も「勝義諦」も無しで、我々の見るまま有るがままがこの現象世界であります。仏の世界であります。もちろん、「本質論」です。
科学による認識を「世俗諦」仏教哲学による認識を「勝義諦」と言います。


さて時間をいま少し考えてみます。

現在という瞬間は0秒です。ここも非有非無の世界です。時間は過去・現在・未来と流れますが、数直線上の0と1が矛盾・無限と言う概念を導入することで、連続する様に、0秒と言う瞬間に於いて連続し流れてゆきます。「C点論を巡って」を参考にして下さい。

C点はエネルギーがあります。空間において物質Aは広がりを持っています。
一定の広がりが有るためには、C点同士互いに引き離す力と引き寄せる力を必要とします。

C点にはこの力があります。これがエネルギーでありますが、前にも書きました様にこのエネルギーにも単位は有りません。

C点は「有と無」と言う相反する性質を持っている為、非常に不安定であります。
それ故C点よりなる現象世界は、諸行無常であります。

137億年まえにビッグバンが生じました。ビッグバン以前には物質が存在しませんので、時間も空間も存在せず、「C点」のみの宇宙で仏教の言う「非有非無」の世界であります。

原始の太古の私共には理解の出来ないカオスであります。どうしてビッグバンが生じたかは解りません。仏教学では、諸々の因縁による縁起となるのでしょうが、この意味は正確には解りません。
意味は解りませんが、ビッグバン以後は、物質Aと空間非Aが生まれ、我々の現象世界となりました。

この現象世界も、物質Aも空間非Aも、「C点」よりなっています。ビッグバンの以前であれ以後であれ、宇宙はC点よりなってをり、仏教の世界であります。


般若心経の「色即是空」も中論の「非有非無」も、そこに至るプロセスは微妙に異なりますが、最期は「C点」と合一します。
ただ中論では、ビッグバンと言う知識の無い時代の思索ですので、現象世界も原始の太古のカオスも、分けていませんので、極めて難解な論となっています。それが、如何に難解であろうと「本質論」でしかありません。

「有と無」とを同時同位置に持つ「C点」は、有の性質の強い時は、無限に小さな殆ど0に近い、そして無の性質の強い時は、無限に大きな一様な変化の無い、金色に、黒に、白に、また赤に、様々な単調な無の世界となり、一即一切、一切即一 の華厳経の世界となります。

また有の性質の強い0は、無限に小さく、無の性質の強い無限に大きな0は、数え切れない無限に多くの0となり、一即多 多即一 として華厳経の世界となります。現在と言う瞬間は無限に短く、持続する過去・現在・未来もこの長い時間も瞬時で、無限に短いものと無限に長いものの同時存在で、これも華厳経の世界です。C点の世界は華厳経の世界でもあります。

なを、華厳経宇宙には「空間ノミ」で「時間」がありません。「本質論」の限界です。


これまで論じてきました、般若心経、中論、華厳経と言った流れは仏教哲学として一応纏まったものです。

仏教の宗教的使命「慈悲」は、私たちの心の中に阿頼耶識としてつまり遺伝子DNAとして存在していると思われますが、別の機会にいたします。C点のみで直接「慈悲」を論ずることは無理が有る様で、ここにC点論の限界を認めざるを得ません。


ここまで書いてきた「C点による仏教論」は、科学ではありません。
C点は、観測も計測も出来ません。ただ概念による宇宙に過ぎません。現象世界の研究は科学的に、観測され計測され数的処理をされて、真実を解明されてきました。

ただ「C点」は、思考の限界にチャレンジしたものであります。しかし仏教と通ずるものがあります。
だが、C点論では有無合一体(無は認識されない)は「有」であり、現象としては、色即是空は「あるもの」は「ある」となり、哲学としての論理にも矛盾しない。

一方、仏教哲学では色(有)は即(ただちに)空(無)となり、「あるもの」は「ない」と言う。
「本質論」としても、無理は認めざるを得ないが、「宗教」故に許さざるを得ないのかも知れない。
よってここから生ずる「不生不滅」と言う言葉も、科学では全くナンセンスであると言わざるを得ない。


注:以上は、「本質論」であり、科学ではありません。私共の生きる現象世界(この世)とは、異なることをご了承下さい。



 3・現在の仏教

私共は、現象世界に生きています。
生命は、何に増しても重要です。宗教にとっても生命は重要です。私共の仏教もそうであります。

「いのち」は本質論では、「瞬間で永遠」な存在です。しかし、「いのち」ある限り、この世(宇宙)はあり、「いのち」のない処、この世(宇宙)もない。これが現象世界です。

現象世界に生きる我々には、この世の変化が気になります。
以下は「本質論」で科学ではありませんが、仏教ではその変化を因・縁・果と言い、弁証法の正・反・合と言うのも是に近い考えです。学問的にそうだと言う訳では有りません。いずれも「本質論」です。

この世の変化の中で生・老・病・死ほど苦しいものは有りません。釈迦も其の為に出家しました。
そして悟りました。だが我々一般人は簡単には悟れません。この事は前にも述べました。

日本仏教全般を考えますと、仏教は死にました。
あるのは葬式仏教であり、観光仏教であり、その間隙を「新宗教」が埋めてをり、大多数は無宗教であります。

生まれたからには、死は避けられません。それ故日本人の多くは軽鬱状態なのでしょうか? 
またキリスト教の原罪と言うのも、この様なものなのでしょうか? 

だが我々は日常性のなかで、普段は死を忘れています。死は身近に潜んでいます。
だが仏教の出番は殆ど有りません。
「死も老化」も、医学や介護の問題となり、ビジネスとして業者は「人々の心」まで届く、リーゾナブルなサービスもしています。それでいろいろ論じて参りましたが、仏教は日本人の心に深く根ざしております。

仏教の最高位に例外的に歴史上の人物の釈迦如来、この他に歴史上の人物ではなく、概念の存在ですがこの世の支配者薬師如来、宇宙の支配者大日如来、あの世の支配者阿弥陀如来、そしてそれ以外にも多くの如来、菩薩、天部、明王と沢山の仏達が私共の周囲におります。 親しみがあり信仰もされています。

京都、奈良を始めとして日本国内至るところに、仏教寺院があり、建築、仏像など国宝、重文はもとより数多の美術品が私共の心を癒して呉れています。
また仏教の葬儀は、私共悲しみに沈んでいる心に一つの区切りを与えて故人を偲ばせてくれます。

科学的で有ろうが無かろうが、前世、現世、来世の思想は、輪廻転生とも連なって、因果応報の教えを与えてくれます。
地獄、極楽もこの世にこそ有りますが、それが死後にあっても一向に差し支えありません。
また修行僧も居り尊敬を集めておりますが、是はこれで爽やかな話題であります。だが仏教は私共から縁遠くなっています。それは、確かな現実です。

仏教徒で有ろうと無かろうと、良識ある心豊かな日本人は、沢山居ます。
今、心について精神について、改めて考えるべき時です。「精神について」検討下されば幸せです。「C点による仏教論」からは脱線しましたが、これで終わります。科学に戻る冷静さも、現実には必要です。



著者  内科医 S・イマムラ




追記 メモ

釈迦は文献を残していない。その思想の真意は不明である。推測するしかないと考える。

古代インド。(紀元前16世紀ごろ)アーリア人が、ガンジス川流域にインド文化の原型を作り、ヴェーダと呼ばれた。これが古代インド思想の聖典となった。これが、信じられ研究された。(紀元前7世紀ごろ)最盛期となり輪廻、業の概念生まれ、輪廻の主体アートマン「我」と世界形成の根本原理、絶対者ブラフマン「梵天」生ず。

この頃、生きるために、乞食をする修行者シュラマナが生じ、苦行し悟らんとする。(紀元前6世紀)苦行を否定する釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタ「釈迦」が出て、既成概念なしに論理も否定する修行体験「無分別」で、総ての現象は関係性の中にあり実体のない「縁起」「無我」を説いたと言われる。(紀元1世紀)中観派といわれる竜樹が「空」の概念を説き、(紀元4-5世紀)総ての現象は知覚により存在との「唯識」学派が生まれた。

この知覚の認識主体はない。釈迦の真意、仏教の本質は不明ですらある。
 
因みに今日インドの宗教と言われるヒンズー教は(紀元前20−15世紀ごろ)インド原住民によりヨーガがインダス川流域にあったが、(紀元8世紀ごろ)シャンカラにより最初のヒンズー寺院が建った。仏教がより古いようである。

しかし、ヒンズー教では古代からのヴェーダに始まるアートマンとブラフマンを受け継ぎ、広く古代インド宗教思想全般を受け入れ、仏教も今日ではヒンズー教の一部と信じられているようです。

しかし、今日の仏教世界は古代インド宗教思想が渾然一体となり、その中より釈迦が生まれたように思われる。これは無学な私の独断と妄想である。多謝。



関連サイト1:C点による時空論(改定版) http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/
関連サイト2:般若心経と矛盾(改定版) http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/hannya/
関連サイト3:精神ついて http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/seishin/
関連サイト4:生老病死とお釈迦様 http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/syaka/
関連サイト5:C点による仏教的宇宙論(改定版) http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/ucyuu/
関連サイト6:C点論における矛盾と無限(改定版) http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/cpoint_mm/
関連サイト7:C点論を巡って(改定版) http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/around_cpoint/
関連サイト8:C点と生命雑感 http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/cpoint_seimei/