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1.C点とは |  2.C点によると |  3.科学と本質論におけるC点
4.「波」としてのC点 | 5.まとめ |  注記
 1.C点とは (この世の奥にあるもの)

私どもの現象世界(宇宙)の最も本質的なものは時間と空間である。これが、私のC点論の出発点です。

私どもの生きている感覚でとらえる一切の自然界(この世、宇宙)を現象世界と言います。それが、唯物論者の内科医の「いのち」からの思索です。

だが純粋な時間というもの、又、純粋な空間と言うものを客観的に正確に定義づけることは困難である。
それは、理解していますが、なぜ時間と空間と言うと、唯物論の老内科医の感性によるとしか言えません。前に述べた通りです。

だが、話を進めます。私どもが周囲を見回す時には多彩な物質が存在しており、その物質の存在により空間という広がりを考えることが出来、又その物質の変化により、時間と言う変化の流れを知ることが出来る。

時間も空間も物質の存在により了解が可能となる。
この世の物質は二つとして同じものはなく、それぞれ異なっていますが、今、それを一つ一つ観察するのではなく、つまり、科学とは言えませんが、C点論(私の本質論)への、論理を進めるために、ここ(現象世界)に物質Aというものを考えてみよう。

以下が、私のC点論へのアプローチです。話は理解しにくいでしょうが、できる限り考えて、論を進めます。


  私どもの空間は物質Aを考えることにより、2つに分割される。
   すなわち、物質Aと物質Aに非らざる空間非Aである。



     ここでは、 1・AはAである。
1・非Aは非Aである。
1・Aは非Aではない。
1・非AはAではない。


 
   これはどうしようもない現実である。

B  だがAと非Aとを分けるものは存在しなければならない。

   Aと非Aとを分けるものがないとすると、Aと非Aとは混合してしまう。
   ここではAと非Aとを分割するものは存在するのである。

   だが、それを理解はできない。
   しかし、現象世界の裏にある未知の真理(本質)かもしれない。

   これもC点論(本質論)のポイントのひとつである。


 
   とりあえずそれをB面と名づける。

   B面はAであり、同時に非Aである。
   Aと非AはこのB面により分割される。このB面は純粋な平面であり厚さは無い。
   B面は表面であると同時に裏面である。

   これも、理解し難いが、真理(本質)かも知れない。
   この矛盾したB面を認めざるを得ない。それなしには、空間は成立しないのである。


C  さて、次に時間とは何か。

   それは、物質の存在とその物質の変化を私達は持続として認識し、
   その流れが「時間」と認識されるものである。
    私達は、毎日時間の流れの中に生きている。
   そして、変化は次のように考えられる。

1・Aが非Aとなる、と同時に
1・非AがAとなる。

   AがAであり、非Aが非Aのままであると、非変化であり、物質の変化は生じない。
   この変化としての持続、非変化としての瞬間の矛盾した要素の合一により
   時間が成立するのである。
   現実には、非変化(瞬間)と言うものは、認識できないが、
   その存在は認めざるをえない。

   私どもには理解できないが、これが「時間」という概念で、真理(本質)かもしれない。
   私どもは物質を考えることにより、時間と空間の合一を知るのである。

   つまり、時間は空間における物質の変化・非変化の「概念」に過ぎないが、
   これは内容は同一(時間と空間)で「合一」と考えられるのである。
   つまり、「時間と空間」によっては、「物質のみ実在」しているからである。

   それは真理(本質)かもしれないが、現象世界に生きる私達に意味を持たないし、
   理解できない。
   それが、「本質論」である。

   なを、蛇足ですが、相対論では現実の総ての物質が、
   それぞれ別に時間を持っていると考えています。

D  さて、問題はひとまず置いて、科学の世界では、私達は物質を破壊することによって、
   分子に達した。
   そして分子を破壊することによって、原子に達した。

   その原子を破壊することによって、もうそれ以上は破壊できない究極の存在として、
   素粒子に達した。
   だが、乱暴だが思索のみにより、素粒子を無限に分割してゆき、
   最終的には空間に位置のみ有するところの有と無との両方の性質を持った点にまで
   分割してゆく。

   ここで、科学よりC点論(本質論)に至るために私のオリジナルな
   「矛盾と無限の視座」が必要となります。
   これについては、後に述べます。

   この有と無を両方の性質を持った点をC点と言い、これが矛盾そのものだが、
   現象世界の奥の真理(本質)があるとすると、C点が総ての出発点である。

   つまり、有と無と両方の性質を持った「有無合一体」であり、
   これは「有」=「無」であり、矛盾そのものです。 これが「C点」でC点論の中心です。

   ここで「有無合一体」は「有」でもなく「無」でもなく、第三の存在で、
   これがC点論の「本質論」で真理(本質)を示すものです。

   これが、後にも論じます。非常に難解ですが。


 2.C点によると (ここは読み流して下さい)

   宇宙はC点の集合である。
   C点は空間に一様に分布しているのではなく、あるところは密に、
   あるところは粗に変化に富んだ分布をしている。

   C点は又、エネルギーを持っている。
   そしてC点自身は体積を持たない点であるため、膨大な密度の、
   例えばこの宇宙全体の存在するC点総てであっても、
   そこに閉じ込めてしまうような超高密度のC点の集合も可能と思われるのである。


   137億年前のビッグバンにより、私どもの宇宙が生まれたと言われる。
   ビッグバンは無からはじまったのではなく、そこにはC点の超高密度の集合体が
   準備されていたのであるとも考えられて、
   137億年前が私どもの宇宙の天地創造ではあっても、
   宇宙そのものはC点としてそれ以前にも存在していたと思われる。
   (サイクリック宇宙論など)

   ビッグバンにより、この私どもの宇宙が始まり、種々の特徴的な星が生まれ、
   又私どもの太陽系が生まれ、地球が生まれ、そこに私ども生物も生まれた。
   だが137億年以前には物質が存在した証拠が無いので、
   時間も空間も存在していなかったと現在は考えられる。


   ビッグバンがC点の離れあう力による爆発ならば、
   ブラックホールは引き合う力による現象ではないだろうか。
   (レベルが違うが、サイクリック宇宙論のビッグクランチのように)

   C点は空間に位置のみ有するので、その単位となるC点というものはなく、
   C点1個、C点2個と言うように数えられず、
   その無の性質から0個から無限の多数まで考えられる。

   又、そのエネルギーも単位となるエネルギーと言うものはなく、
   矢張、0より無限大まで存在するものである。
   (仏教の華厳経 一即多 のような思考)


   物理学では分子、原子、素粒子と研究、観測、実験を繰り返してきました。

   しかし、結論には達していない。
   それは矛盾を否定しながら、真理を探究していることの限界があるからと思われる。


   最終的にはそれはC点なのかもしれない。(仏教では矛盾も肯定する) 
   しかし、それは別にして、科学はこの複雑な宇宙を一定の基準作ることで測定し、
   統計処理をすることで真理に近づいて来た。宇宙は不可思議だ。

   C点が、どうして素粒子となり、原子となり、分子となり、物質を作るかは解らない。
   C点は有と無と両方の性質を持つと言う哲学的、
   または宗教的(特に仏教的)存在だが、「本質論」で宇宙を
   説明しようとは考えていない。


   物質Aの最終分解物質である素粒子はC点の集合だ。
   どうして、C点が素粒子になるかは不明である。
   だが、物質Aがその存在を続けるためには、
   C点同士に離れ合う力と引き合う力、つまりエネルギーが必要であり、
   C点にはエネルギーがある。
   (非常に乱暴な話であるが、本質論である。空想に近いと考えて下さい。)

E  現象世界(この世)の変化は、弁証法の正・反・合という形式を考えると理解しやすい。
   弁証法そのものも科学ではなく本質論のため、細かくこだわらない。

   だが、前にAと非Aを考えました。
   このように、二つを考えることは、二元論(デカルトの精神と物質、
   ゾロアスター教の善と悪の神、などが有名)や相対主義(主体と客体)などの
   発生に結びつくかも知れません。二つを考えることは、自然な思索であります。

   哲学的なことはわかりません。そして、この二つの合一が、時間の流れの中に
   Aと非Aとが有無合一体(C点)のように出来るかもしれません。

   つまり、A(正)非A(反)C点(合)と考えることも出来ます。
   弁証法や因縁説(縁起論)の原始形かも知れません。

   本質論であり、これを否定もできないが、肯定もできない。
   「この世」の変化は洋の東西を問わず、同一とも考えられます。
   弁証法を図にすると、



   また、同じく本質論の仏教では、因(A)、縁(非A)、果(A´)である。
   弁証法も仏教と共に「本質論」で、科学ではなく、ひとつの思想に過ぎない。
   いずれも、科学ではないので、拘る必要はない。と言ったら、乱暴すぎるだろうか。





 3.科学と本質論におけるC点

私達が、この世(現象世界、つまり、宇宙)の空間に多彩な「物質」を認めます。
そして、物質は此れまで論じて来た様に、「本質論」では「C点(有無合一体)」から成っております。感覚器官が物質を確認しますと、「無は認識出来ない」ので
「現象世界」では、我らは「生きて感覚する」ので。
   有無合一体の有が優位の時は   「ある」      
   有無合一体の無が優位の時は   「ない」

「本質論」では、そこに、我らは「生きる事が出来ない為、生きて感覚出来ない」ので
   「ある」
   「ない」
   「有無合一体」

の3種に成る。ここでは、この3種は渾然一体となっており、それぞれが独立して存在してはいません。

「有」と「無」との混合は「 →有→無→有→無→ 」として「波」の原型を成しているかもしれない。しかし、「本質論」には、流動する「時間」が無いため、「量子力学」とは、結び尽きません。



 4.「波」としてのC点

「本質論」では、「時間」は空間における物質の同時同位置における変化、非変化の概念である。
「変化」とは、物質が空間の中を移動する事ではなくて、「物質が空間に変わり、他方、空間が物質に変わる事」である。
つまり、「C点」は、「有から無に」「無から有」に絶えず変わる事、有→無→有→無→ と変わる事でリズムを有して、「波」とも考えられる。 「光」も同様と考えられる。
この「変化」については、サイト「C点による仏教的宇宙論」 に記載している。

しかし、C点論は「本質論」であり、現象世界の時間とは異なり「0秒」 つまり、これも、有無合一の瞬間(現在)でしかなく、厳密な意味での「時間はなく」、明確に「波」を論ずる事は出来ない。

これまで、書きました様に、「C点」は、「空間に体積のない、粒子でもない、位置のみ有する、純粋な点」であり、「本質論」で現象世界の「奥にあるもの」で、科学的根拠は有りません。



 5.まとめ

時空の本質は矛盾であり無限であるが、
「矛盾と無限の視座」を導入しないと「本質論」とならない。
現象は流動して有限であるが矛盾はない。


         著者 内科医 S・イマムラ


注記 T

現象世界の真理(本質)の追求では、「本質論」は科学に比べて二の次三の次でしかない。
思索のための思索をされても、やむを得ない。

だが、「本質論」は弁証法の例で述べたように、「この世」では重要な意味がある。
アダム・スミスの「国富論」から、自由主義経済世界が生まれ、資本主義国家が生まれ、そしてこれらは(「みんなが平和に生きる」として集団主義の社会主義国家が生まれたように)「自分の行き方は自分で決める」として、自由主義の民主主義国が生まれた。

「本質論」は無意味ばかりではない。


注記U

「C点」は、有無合一体と言う、「有」=「無」と言う「矛盾」
この「矛盾」をオリジナルな「視座」とし、
また「C点」は限りなく「無限」に小さいという「無限」
この「無限」をオリジナルな「視座」とし、
「矛盾と無限の視座」により「本質論」を展開している。

しかし、仏教哲学も西田哲学も「矛盾」と私は考えていましたが、それは大変な誤解でした。
このことについては、後に少しずつ述べたいと思います。


注記V

科学では、この世(現象世界)は同じものは全くないと認識している。それぞれに異なる。
そこで、まず研究対象の観察、そして計測から始まる。

「数学は科学の女王にして奴隷」と言われるほどで、科学は思考の妥当性を%をもって語る。
論理の信頼度は「本質論」とは天地の差である。
数学は重要である。真理(本質)の重要な裏付けである。数学のない科学はない。


注記W

これ以後の、「小論」にも、「C点」につき思いつくままに書き入れていますので、混乱する様でしたら、ご容赦下さい。
C点論は「本質論」で科学では有りません。


注記X

なを、「時間」は「物質」の存在より論じているが、この世(科学)の物質には「質量(重さ)」があり、質量ににより「運動(重いもの程遅い)」が変り、「物質の変化」は「時間の概念」に直ちに結びつく。
よって、科学の世界では、「物質ごとに時間」がある。


注記Y

蛇足ながら、「哲学」は変化し、永遠不滅の「真理」では無い。
ある時代、ある地域、ある人々、により「合理的論理的了解出来る観念」(形而上、下の考えられる総て)から出発して、論理正しい観念を続けて(観念連合)、了解可能な正しい観念を「哲学的真理」と言う。ここでは、「矛盾は認められ無い」が「数学的な信用度は要求され無い」。

だが、時代、地域、人々の変化により「哲学の出発の観念の変化」があり、哲学的「真理」は変わる。




◆ 関連サイト 3 : 般若心経と矛盾(改定版)
◆ 関連サイト 4 : 生老病死とお釈迦様
◆ 関連サイト 5 : 精神について
◆ 関連サイト 6 : C点による仏教論
◆ 関連サイト 7 : C点による仏教的宇宙論(改定版)
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◆ 関連サイト 9 : C点論における矛盾と無限(改定版)
◆ 関連サイト10 : C点論と仏教論
◆ 関連サイト11 : 要約C点による時空論(改定版)
◆ 関連サイト12 : 曼荼羅とC点論
◆ 関連サイト13 : 仏教を巡って
◆ 関連サイト14 : C点論を巡って(改定版)
◆ 関連サイト15 : C点と生命雑感
◆ 関連サイト16 : 「いのち」ある限り、この世(宇宙)はある。「いのち」なき所に、この世(宇宙)もない。
◆ 関連サイト17 : C点と光速度不変の原理ならびに質量(老内科医の独断的空想的宇宙論)
◆ 関連サイト18 : 空想的宇宙論とC点(C点論の纏めに代えて―いのち)
◆ 関連サイト19 : 第三の世界(C点論)はあるか 人間の未来は――「いのち」は
◆ 関連サイト20 : 21世紀のパラダイム(第三の哲学)−「C点論」の纏め−
◆ 関連サイト21 : C点論により宇宙の存在を考える-老内科医の空想的宇宙の限界-