点描随想




これまで私が臨床経験で
感じたことを
思いつくままに書いてみます





ゴッホが描いた自分の神経科主治医
パリ・オルセー美術館で
絵画から直接 撮影しました

1.こころの痛み
 
人の心の痛みは本来はその人自身にしかわからないものだと思います。しかし、一番つらいのはその苦しみを一人で抱え込んでいることだと思います。誰かに打ち明けることができたり、誰かといっしょに苦しむことができれば、つらさは半減すると思います。「ここに苦しんでいる人がいる」 そのことを知ることがこころの治療の第一歩と考えます。




2.治療する
 
人の精神を“治療する”ことなどはおこがましいことと思います。内科や外科のように「病んでいる」部位を直接治療したり、切り離したりするようなことは人の心にはできません。それを切り離してしまえば“別の人格”になってしまいます。我々“治療者”ができることはあるがままにその人の心を“そっと”受け止め、どのように人生と折り合いをつけるかを共に悩み、考えることだと思います。




3.手をつくす
 どの治療者も皆、世界で最高の知識と技術それに最高の道徳をもっていれば問題はありません。しかし、そんなことはありえません。私たちにできることは“手をつくすこと”だとおもいます。自分のもっている知識や技術、人脈をフルに活用することだと考えます。それらの努力はその場では実を結ばないことがあっても、患者さんや家族の気持ちに届くと思います。また、自分にも貴重な経験となり、いつかは報われるものと確信します。





4.祈る
 私は患者さんの治療がどうしても思うように進まない時は心の中で祈ります。「私には何もする力はありませんが、最善をつくします。どうかこの人に心の平安を取り戻させて下さい」 特定の信仰を持っているわけではないのですが、人知を超絶したもの「神」は確かに存在すると信じます。医学を含めた自然科学は万能ではありません、限界を知るべきです。







5.成長する

 人間は生きている限り成長して行くものとおもいます。年を取れば運動や記憶などの個々の能力は衰えて行きますが、実際の経験や見聞が増えることで物事を総合的に判断したり、他人を理解する範囲が広がります。総合的な“人間力”は増強します。その意味で人間は生涯、精神的に成長を続け停止することのない存在のようです。成長の方向は人によりさまざまのようです。 その意味でも私たちは決して指示的にならず、それぞれの人の成長を見守り、自分たちも成長していきたいと思います。




6.性善説
 
私は人間は元来、善良でひたむきな存在であると信じます。自分の人生に不まじめな人などは居ないはずです。誰でも自分が人生のヒーロー(ヒロイン)なのです。一見斜めに構えているように見えてもそれは、何かへの反発であったり、抗議であると考えます。本来の姿が何らかの力で曲げられていると思います。みんな“良い人なのです”我々はその人の存在を認め、その苦しみを共感することができれば、問題解決に至らなくてもその人を支えて行くことができると思います。




7.本来の姿
 
人間は元来、どんな状況におかれても生きていこうとする力を持っているものと思います。心の変調が起こる時はその力が何かにおおい隠されている時だと思います。時間ときっかけがあれば、“生き抜いて行こう”という本来の姿に戻るはずです。例えば、切望していた夢が破れ、悲嘆にくれる青年が受診したと想定します。もちろん、私たちは話をよく聞き、薬を処方します。しかし、そのことで失くした夢が復活するわけではありません。話を聞くことでその人の苦痛を共感して共に担います。また、安定剤、睡眠剤などでその苦痛の緩和をこころみます。激しい感情がおさまる“時と機会を待つ”のです。おさまった時には“どんな状況でも生き抜いていく”という人間の本来の姿に立ち戻るはずです。今“普通に”生活している人も肉親や親友を失ったり、人生に挫折した経験のない人はないと思います。それでもみんな、希望と生きがいを持って生きています。僭越ですが、“人間は強くたくましい存在でどんな状況におかれても生きていこうとする力を持っている”と私は信じます。




8.鏡
 私たちは自分の顔や容姿は“鏡”がないと見られません。それと同じように自分の精神の姿は自分自身ではだれにも分かっていないと思います。それは他者という“鏡”に写っているのです。自分の言うことやすることに対する他者の反応や態度が自分の精神の姿を写す“鏡”だと思います。イライラしたり、周囲の人とうまく行かなくなったと思うときは 自分の姿を“鏡”でうつしてみて 反省するべき時と考えます。例えば、エレベーターに乗っていると、自分は動かず 逆に周囲がすべて動いていると感じます。ここで動いているのは自分の方だと認識できなければ、自分の姿を見失っています。このような時に心の変調が起こるのではないかと思います。




9.ビールの味と人生
 「苦味がなければビールでない」と以前にCMがありました。私はこれをもじって「苦しみがなければ人生でない」と言っています。ビールは苦さにだいご味があるのであって、苦くないビールは誰も飲みません。のど越しの爽快さを楽しむのです。人生も苦味(苦しみ、ストレス)のない人生は味気がないし、誰ものまない(送らない)でしょう。うつやストレスに苦しむ人は言わば、「ビールの苦味」に耐えかねてビール(人生)を飲めなく(送れなく)なった人だと思います。我々治療する者はビールに砂糖を入れて苦味をなくすのではなく、苦味と共にうまみ(喜び)を感じるようになってもらうのが目的と思います。その方法は人によりさまざまです。例えば単に休養することで気持ちの整理がつく人もいますし、今までとは別の趣味や生きがいを持つことに解決を見出す人もいました。哲学や宗教的思索に救いを見つけた人もいます。精神的な危機をのりこえることによって“人間”として一段階 成長するわけです。治療者は“指示”するのではなく、その動きをそっと見守り支えるのが役目だと思います。





10.百年たてば
 私は“死にたい”と訴える人に言うことがあります。「百年たったら、あなたも私も死んでる。自然に、勝手に死ねるのに どうして今、自分で死のうとする?」 患者さんの反応はさまざまです。でも、これは私の本音です。本当に人間は必ず亡くなるのですから最後まで生きてみようではありませんか。仮に残りの人生が苦しみの方が多くても、途中でやめると、二度と味わえないのですから





11.神経症(ノイローゼ)と精神病
 
H病院在職中、O医大精神科に新入局の研修医はほぼ全員がH病院で非勤務をするのが慣習でした。私は毎年 新入の研修医に最初にききました。「ノイローゼと精神病との違いは何ですか?」いろいろな解釈が従来からありますが、私は解答をいつも例え話でしました。「試験におちてガックリし、 場合によっては自暴自棄になるのが ノイローゼ。」 一方、「試験におちて“周囲の人が皆 敵になって自分の命がねらわれている”とか“神さまの声が聞こえる”等々言うのが精神病。」というふうに説明しました。私たちに“了解(理解)”できる事象(症状)はノイローゼ、私たちに“了解できない”ものは精神病ということです。ここに境界があることは世間一般でも他科の医師の間でもあまり知られていません。社会的な影響の軽重と精神病の有無とは関係がありません。




12.認知症とストレス 
 
私は認知症の研究をしてきました。認知症、特にアルツハイマー型認知症は心理的要素を持っています。政治家や音楽の指揮者、芸術家などは認知症になる確率が低いことはよく知られています。一方、激しいストレスが認知症を引き起こすことも証明されています。例えば、配偶者と死別した時、逮捕拘留された時、重い病気にかかった時などです。しかし、ストレスが少なすぎる時も認知症になるようです。例えば、定年退職で何もすることのなくなった時、子供が巣立った時、長年の心配事が一挙に解決した時などです。認知症にならないようにするにするには政治家、指揮者のような適度のストレスが必要です。認知症も心身症の要因を持っています。




13.認知症の功罪
 
私自身、これまで肉親を含め、多くの認知症患者をみてきました。認知症になれば周囲の人の驚きや悲しみ、その後での介護の苦労は大変です。しかし、たいていの認知症の方はその過程で色々な問題行動があっても、本人はそのうちに穏やかな“仏さまのような”表情になっていく人が多いようです。そして本人は病気や“死”についても従容としています。認知症になるということはすべての悩みをなくし、一種の“さとり”に入る究極の方法かも知れません




14.認知症患者さんの家族
 
認知症患者さんの家族のご苦労にはいつも頭の下がる思いがします。「そこまでできるものか!」と感動することもしばしばです。介護保険が導入され、さすがに以前よりは少なくなりましたが、今でも一人で24時間、365日介護している方もいます。「本人が嫌がる」「親は子供が看るものだと親族が言う」などの理由があります。 しかし、患者さん自身もデイサービスやホームヘルパー、訪問看護などで、家族以外の人に接することが重要です。そのことが認知症の進行を遅らせることは明らかです。少子化社会では家族がすべての高齢者を支えられません。周囲にいる人は特に「世間体」にこだわることなく患者さん自身のことを第一に考え、さらに介護者のメンタルヘルスにも充分注意してください。




15.ことば
 
葉には限界があります。「百聞は一見にしかず」と言われるように百万言をつくしても言葉では表現できないものがあります。その人の雰囲気とか、顔の表情、目の色、しぐさなどです。こころの診断にはこの要素がかかせません。逆に一種の“職人技”で言葉を聞かなくても一目で診断がつくことがあります。モニターやネットを通じての遠隔診断や治療はこころの病気には永久にできないと思います。 
〇これに関してエピソードを思い出しました。ある日、某拘置所に呼ばれて拘置中の人を診察しました。最初はサスペンスドラマに出でくるような“透明の板”(アクリル板?いくつもの小さい穴が放射線状に並んで開いているもの)を隔てて話しました。しかし、いつまで聞いても診断できません。そこでお願いして特別に拘置者の人と同じ部屋で机をはさんで話を聞いたところ、たちまち診断がつきました。目で見たり、耳で聞いたりするもの以外にも、何か一種の“気”のようなものも利用して診断しているのかもしれません。




16.face to face
 私の所は“外注クリニック”です。
諸検査(頭部MRI、脳波等)、他科疾患、心理検査(カウンセリング)、入院治療、訪問看護、保健センター、各作業所、地域生活支援センター、基幹型相談センター、包括支援センター、介護サービス等々これまでの人的ネットワークを生かして他の機関に依頼しています。(詳細情報参照) 逆に各機関からの受診依頼も活発です。これからの医療はおそらく どんなに設備や人員を増強しても単一医療機関で検査、治療を完結することは困難になると思います。地域での“チーム医療”が重要と思います。IT技術の進歩により 瞬時にだれにでもどこにでも連絡できるようになり、世界中の知識に接することができるようになりました。しかし“逆に”人間と人間の直接リアルなつながり即ち「face to face」がますます重要となってくる考えます。実際の人物は電話やメール等の印象と全然違うことが多々あります。“地域チーム医療”のためにも積極的に「face to face」の発展につとめていきたいと思っています。




17.薬
 薬はのみたくない、カウンセリングだけでできませんか?」ときかれることがあります。私はいわゆるカウンセリング(精神療法)のみで治療できるケースは多くはないと思います。即ち、「こころの疾患は病気ではない、心の持ち方一つだ。服薬は絶対必要ない。」という考えには賛成できません。向精神薬は"かぜ薬”と同じです。かぜ薬も病気の原因であるウィルスや細菌には作用しませんが、発熱や咳、鼻汁をおさめて 体力を回復し、結果として治癒をはやめます。向精神薬も服薬したからといって、原因のストレス、環境要因などは除去できませんが、不安やイライラ 不眠などの症状を改善することにより、生活しやすくします。
 一方、内分泌異常や頭部外傷などの、原因が明らかに身体にある疾患(外因性)でも症状だけをきいて薬の処方を調整しているのみでは患者さんに不信感を起こすと思います。日常生活の悩みやストレスなどに耳をたかむけることによって信頼感を得られれば、薬も一層効果をあげると考えます。心(精神療法)と身(薬物療法)は密接に関連し、切り離すことはできません。「薬不要論」(世間一般に多い)と「薬だけで治療」の両極端は排除するべきと考えます。





18.家族の力
 
家族の力はこころの治療に特に大きな役割を持っています。それは代償を求めない大きなエネルギーであり、正しい方向に向えば、どんな治療者や薬剤も及ぶものではありません。「あの人がこんなに良くなったのか!」と驚嘆される成果をあげることができます。しかし、家族が治療(特に服薬することなど)に不信を抱いていると、そのことは患者さん自身に言葉には出さなくても伝わります。そうなれば、いくら治療者が努力しても効果がなかったり、治療を途中で放棄してしまう結果になります。患者さんと家族と治療者の3者に相互の信頼関係がなければ治療は成立しません。家族の方で疑問があれば、それは遠慮なく治療側に聞いてみてください




19.やる気に火をつける
 自分で言うのもおこがましいことなのですが、私も一応医学研究をしました。後輩の指導もしました。後輩を指導する時、一番感じたことは知識や技術を伝えるのではなく、その人のやる気に火をつけることが重要だということです。火がついてしまえば、その人は研究の途中で困難なことあっても一生懸命考え、全力を挙げて取り組み、かならず成果をあげてました。神経科の治療も同じと思います。患者さんや家族に本気とやる気をだしてもらうことが重要です。







20.矢
 人はかならず死に、亡くなった人にはそれぞれ、悲喜こもごもの思い出があり、胸に迫るものがあります。この年齢になってふりかえると、両親や親友など数多くの墓標が心の中に立っており、それぞれの墓標に「思い出」という花束が供えられています。故人は人知を超絶したもの(神)に帰したものと考えています。肉親や親しい人がなくなった時、いつも読む言句がありますので紹介してみます。「この世における人々の命は定相なく、短く、苦痛に繋がれてつながれている。生まれたものは死を免れない。だからといって嘆き悲しむ必要はない。亡くなった人をみて“かれはもう私の力の及ばぬものなのだ”とさとって嘆き悲しみを去れ、煩悩の“矢”を抜いて平安に帰せ、(自らは)生存という河を渡り切って二度と現世に戻って来てはいけない」(ブッダのことばより短く改変)。月並みですが、日ごろの診療に力を注ぐことがすべての親しかった故人への供養と考えます。 





21.日昏れて道遠し
 最近提出したある書類に臨床経験年数を書く欄があり40年と記入しました。思えばはるかにやってきたものです。年数を重ねるごとに人を理解する範囲が広がっているのを感じます。逆に、至らないことが多いことも実感します。人間の精神は崇高な驚異にみちています。少しでも近づこうと思いますが、おそらく終着点はありません。「日昏れて道遠し」私の心境そのものです。










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