長岡半太郎

 世界的な物理学者である長岡半太郎は、 慶応元年(一八六五)六月二十八日肥前大村城下の上久原の旧家に生まれた。 祖父尚平は「大村藩第一の詩人」と広瀬淡窓から賞賛され、 伊能忠敬の門人でもあった人である。
父治三郎は幕末大村藩血盟勤皇三十七士の一人として、主命を受けて京都の情勢を探り、 戊辰の役では官軍先鋒の軍監となり、江戸、会津で功を立てた後、 選ばれて明治政府に仕え、岩倉具視に従って欧米視察にも行った先覚者であった。

 半太郎は幼時、父から漢学を習い、 上京して十才で本郷湯島小学校に入学し、一時大阪英語学校に入学したが、 廃校と共に上京して大村の先輩長与専斎(衛生局長)の家に書生として寄寓し、 共立学校から大学予備門(旧一高)に学んだ。

 はじめ植物学、次に歴史学に志したが満足できず、 過去、現在の研究よりも未知の世界を探究する物理学を専攻することにした。 そして明治二十年(一八八七)、東京帝国大学理科大学物理学科を卒業した後、 大学院に進みさらに助教授となった。
二十六年、理学博士となりドイツに留学して、 ヘルムホルツ、プランク、フオックス、シュワルツ等に数理物理学を学んだ。 三年の留学生活を終えて二十九年に帰朝し、物理学教授に進み、 三十八年には学士院会員となった。

 四十三年、東北大学開設の時、自ら理学部に転じようとしたが、東京大学側の無理な引き留めで果たさず、 本田光太郎が代わって行ったという。 大正六年(一九一七)、理化学研究所主任研究員となり、十四年、大学を退官して名誉教授となった。  昭和六年(一九三一)、大阪大学開設と共に初代総長に就任、理学部を設立し、後の 湯川朝永の素粒子グループを育成した。

九年、総長を同郷大村出身の楠本長三郎医学博士に譲り、名誉教授となって以後は、 もっぱら理化学研究所で研究を続けると共に貴族院議員としても活躍した。 十二年には最初の文化勲章を勲章を受けて、翌年一月読書始めに御進講申し上げた。
十四年、学士院々長、日本学術振興会理事長となり、 学会の大御所、世界有数の物理学者として尊敬されたが、 昭和二十五年(一九五〇)十二月十一日、八十六才をもって逝去し、 正三位勲一等を贈られた。

 登代夫人との間に、 治男(理研理事長)・正男(日本光学社長)・順吉(理研所員)・ 遼吉(嵯峨家に入り東大教授、日本原子力発電取締役)・鉄吉(帝国人絹)のほか、 冠吉・振吉があり、子ども達の名は日露戦争の古戦場の地名をとってあるが、 それぞれ父の志を継いで学界産業界に活躍している。

 半太郎は剛腹な性格、そして負けじ魂の強かった人で、「雷親爺」のニックネームで門下から恐れられていたというが、 学問に熱中する純真さのあらわれであろう。明治・大正・昭和の日本の代表的な物理学者の大半はその門下として指導を 受けた。すなわち山川健治郎・田中愛橘らによって確立された物理学を大成して、 特に遅れていた理論物理学を世界的水準にまで高めた業績と門下育成は、まことに偉大であった。
本多光太郎・寺田寅彦・石原純・仁科芳雄・湯川秀樹朝永振一郎らの 生みの親といっても過言ではない。

 京都大学の学生であった湯川秀樹は、 朝永振一郎(大村出身の哲学者朝永三十郎の子息)と共に 「物理学の今昔」という半太郎の講演を聞いて、 「先生の六十才とは思えない若々しい情熱と、 世界的大学者にふさわしい見識の高さに敬服し、 原子の問題は古典物理から量子論によって解決すべきだという話に非常な刺激を受けた。」 と「旅人」の中に述べているが、 中間子発見による日本人最初のノーベル賞受賞も、 半太郎の推薦によるところが多いとされている。

 半太郎は自ら死ぬまで精密な高等数学を用い熱心な観察実験を続けて 多数の研究論文を発表したが、 「学者は本など書く暇はあろうはずはない。」といったように、 著書はわずかに「物理学現今の進歩」、「田園鎖夏漫録」、「原子時代の曙」 の三冊しかない。
なお、大正九年(一九二〇)、ケンブリッジ大学から日本人として初めて贈られた 名誉理学博士の緋色のガウンと暖青色の帽子をかねがね自慢にしておったという話も 伝えられている。

 さて、その業績は理論実験の両面のあらゆる分野にわたり、 磁気学・弾性論・流体力学・分光学・電磁気学・放射能・原子論から、 気象観測・測地学・度量衡などのすぐれた研究がある。
当時の貧弱な設備と、世界の学界についての情報の不足、 産業軍事方面の技術偏重などの時代に、 世界的水準を目ざした研究功績は特筆すべきことであった。

 磁気学については、イギリス人教師の移入をうけついで、 大学在学中から強磁性体における磁気歪みの現象について研究し、 大学院時代の二十一年(一八八八) ニッケル線の磁気がストレスと捩れによって変化するという論文を発表して 欧米の学界の話題を賑わした。
翌年鉄は逆磁性にならないことを唱え、 さらに鉄鋼ニッケル線の捩れによる瞬間電流の論文は、 三十三年(一九〇〇)パリ万国物理学会議に報告されて、 世界的注目をうけ万丈の気を吐いた。

 地震学については二十四年助教授時代、 濃尾大地震直後に地磁気測定を行って等磁気線の変化について発表、 翌年震災予防調査会委員となり、 三十三年岩石の弾性常数の研究、三十八年地球の剛性や地震波伝播の研究、 翌年には余震の研究を発表し、 今日の世界に冠たる日本地震学の基礎を作った。
そのころ東京・ポツダムの重力比較も行った。また測地学委員会・万国度量衡会議委員として国際的に活動した。

 半太郎を最も有名にしたものは原子構造論である。
はじめ原子スペクトル放射研究から原子の世界に近づいたのであるが、 当時世界的にもX線ラジウム発見や、イギリス人トムソンの電子論、 ドイツ人プランクの量子論が出て関心が高まっていた。
半太郎は三十六年(一九〇三)十二月、 世界で初めての原子模型理論をイギリスのフィロソフィカル・マガジンに発表したが、 原子は中心に陽電気を帯びた質量の大きい粒子があり、 その四周に陰電気を帯びた質量の小さい電子がたくさん並んで 土星の環のように同じ速度で回転しているというのであった。

この発表から四か月後一九〇四年三月イギリスのトムソンの原子模型論が出て、 陽電気を帯びた球形の雲のようなものの中に陰電気を帯びた電子が浮いているとした。 一流の大学者で協力者の多いこの説の支持者が多いのに対し、ポアンカレーなど一部の学者以外は長岡説を無視した。  しかし、七年後の一九一一年トムソンの門下ラザフォードの原子核模型の実験や、 一九一三年ボーアの模型研究の結果は、かえって長岡説こそ正当であることが証明されて今日の定説となっている。

今日学ぶ原子模型の元祖は日本人長岡半太郎の考案であることを誇りとしたい。 そしてこの刺激で世界中は、電子運動や崩壊について研究し、 サイクロトロンの発明や中性子・陽子・中間子などの発見へと進み、 ノーベル賞受賞者としてわが湯川 朝永の名が世界の学界の先頭に掲げられるようになったのである。

 分光学については原子スペクトルの研究論文が、大正・昭和にかけて八十も発表されたが、 それ以前にも水銀スペクトルのゼーマン効果・放射スペクトルとその瞬間撮影・ 分光学的微量分析・対物鏡における光の回折理論などの研究を行い、電気光学の産業開発に貢献する所が多い。

 晩年は電波の伝播研究から地球物理学に没頭し、 地震帯・火山帯・地球の形態・氷河などの研究を死の直前まで続けた。

このほか数理物理学では大正のころ、楕円積分の数値表、電流の誘導係数計算表などを案出したし、 いっぽう研究器具装置の試作にも興味をもち、理研の技術者に独自のアイデアを与えて作製させた。
主なものをあげると、 マイクロバログラフ・分光学用電磁石・干渉分光器・水晶棒集光器・ 干渉マリメータープリズム・鋭感マグネトグラフ・高光度分光写真機・ 新カドミウム灯・タングステン振子・シリカグラス振子などがある。

 以上、長岡半太郎の生涯と業績についてのべたが、 このような偉大な世界的学者、大学総長をわが郷土長崎の大村から出したことは、 わたしどもの誇り、いや日本の誇りであると言ってよいであろう。

 なお終わりに郷土の人に対しては、 「常に小成に甘んぜず、無為平凡に陥らず、つねに奮起せよ。」 と戒められていたことを付記しておきたい。

木下義春(県立大村高等学校教諭・大村史談会)

昭和43年10月23日 長崎県立長崎図書館刊行
郷土の先覚者たち ー長崎県人物伝ー より抜粋


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