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(1)50年前の椋の木 ・牛尾正昭 | |
******************************************** (1)今から五十年余り前、私達、同志社大学ESS部員はこの明徳館の前にある"椋の木"の下に座って 写真を撮りました。丁度、昭和33年卒・(1958年卒)のメンバーです。 この写真は前回も掲載しており、いわば我々のDESSeMailClubの表紙のようなものです。 左から、入江典彦、小口良喜、牛尾正昭、芝野桂太郎、森元さん、前田さん、吉田正晴、花谷 昌平、坂口博康。・・・(敬称略)・・左から4名まではこのDESSeMailClubの会員です。 (2)そして、五十数年後、この同じ椋の木の前で、Homecoming Day 2008/11/9に(1)の写真に 思いを馳せながら、シッターを切りました。この椋の木は樹齢400年とも言われ、別名「長寿 の樹」と言われていますが、我々母校の創立以来、そして、我々が入学して、卒業し、五十数 年経過した今、じっと我々の生き様を見守って来てくれている。この変わらぬ椋の姿に感動致 しました。これからも力強く、母校と我々の生き様を見守ってくれることでしょう。 左から、末澤武司(昭和35年卒)、有本暢宏(昭和35年卒)、小林昌彦(昭和34年卒)、牛尾正昭 (昭33年卒)、小口良喜(昭和33年卒)・・(敬称略) 左から末澤さん、有本さん、小林さんもeMailClubの会員です。 牛尾 正昭 (昭和33年卒) |
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(2)Homecoming Day ・牛尾正昭 | |
******************************************* (敬称略) (1)左から末澤、有本、小林、牛尾、小口。真ん中にアルバイト学生が二人、顔をのぞかせていま すが、小林昌彦さんから「アラン島に消えた愛」の本をプレゼントされ感激していました。 (2)第一回ESS東西合同OBのReunionの会は竹村 侃さんの巧みな開会のスピーチで進行致しまし た。至誠館にて。 (3)「アラン島に消えた愛」の著作者である小林昌彦氏のスピーチ、明徳館にて。 (4)オリンピック選手・朝原宣治の講演「オリンピック−北京から東京へ!?」 (5)卒業生交流レセプション・寒梅館にて。同志社ワインを久しぶりに美味しく頂きました。 同志社ワインの売上金の一部は同志社大学奨学金に充てられるそうです。 左から牛尾、小口、小林、末澤さん。 牛尾 正昭 (昭和33年卒) |
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(3)黒松巌先生の思い出・小口良喜 | |
黒松先生は、ESSとは直接関係がないが、同志社大学での忘れられない恩師の一人であり、先生を 偲びつつ思い出を書いてみたい。 黒松先生は、我々が学生の頃には経済学部教授をされ、工業経済学、経済政策論を担当されて いた。私は、専門課程で先生の工業経済学、経済政策論を学び、特に、工業経済学に興味をおぼ え、先生のゼミに加えて頂いた。先生は、明治39年(1906年)のお生れ故、当時は50歳くらい であったが、もっとお年を召して居られたような印象であった。 先生は、京都帝国大学経済学部を卒業、旧満州国に1938年に創立された建国大学経済学部の助 教授、教授をされた。敗戦後大変苦労されて帰国され、昭和23年から同志社大学経済学部教授に 就任された。 先生は、鹿児島ご出身のせいか古武士のような風貌であったが、お会いすると慈父のような優し い目をされていた。先生のゼミは、アメリカ留学から帰られたばかりの野間俊威先生が助手(後 に教授、現・名誉教授)をされており、一週間交替で、黒松先生のご自宅での演習と野間先生の 教室での演習が行われた。 松ヶ崎の先生のご自宅に行くと、奥様に入れて頂いた美味しいお茶を飲みながら、先生を囲んで 講義を聴き、また、我々学生同士で議論を交した思い出深いゼミであった。先生は、当時、西陣 産業の実態調査もされており、手伝いをしていた友人もいたが、私は、実態調査よりは理論を好 んでこれには参加しなかった。理論構成に実態調査が如何に重要であるかに気がついたのは、ず っと後のことである。 先生は、昭和35年、学位論文『日本工業の構造』で経済学博士の学位をとられた。 今、卒業アルバムを見ると、先生に書いて頂いた漢詩が残っている。「天地我同根也 万物我 一体也巌」と。また、卒業を前にして、先生のご自宅にご挨拶に伺ったとき、先生から「権謀術 数を考えるな人生を堂々と歩め」のお言葉を頂いた。 先生は昭和51年(1976年)11月8日にお亡くなりになった。享年70歳であった。私は、この 頃、テヘラン(イラン)の駐在員として、多忙の毎日を過ごしていた。イランは、第一次石油危 機を契機に急騰した石油価格のお陰で外貨収入が急増し、原材料、消費物資の輸入ラッシュとな った為、私達駐在員も商売大繁盛、日本のメーカーや商社から千客万来、その対応に追われてい た。私達駐在員の忙しい様子が山崎豊子の『不毛地帯』に登場している。そんな或る日、日本か ら送られてきた一週間遅れの日経新聞の訃報欄に先生のお名前があり、愕然とした。今日なら外 国から葬儀に間に合うように帰国するのは、不可能ではないが、当時は考えられないことであっ たし、まして一週間遅れの新聞ではどうしようもなく、彼の地で先生のご冥福を祈り、奥様にお 悔みの手紙を差し上げるしかなかった。 今日では、インターネットあり、携帯電話あり、海外何処からでも通信は即座に可能であるが 、当時は、本社との通信手段は、手紙の他はテレックスだけで、余程の急用以外、国際電話は架 けることはなかった。私達家族も、年に二度ほど親達に電話を架けた。これも電話局へ出かけて 行き一時間ほど待たされて漸く架かるという具合であったが、親は孫達の声を聞いて大変喜んで くれた。新聞も航空便で送られてくる一週間遅れのものであったが、日本からの大切な情報源で あった。そんな時代であった。 黒松先生がお亡くなりになって早や32年が経ち、私たちも後期高齢者前の年齢に達した。今年 11月にゼミの有志が先生の菩提寺、南禅寺に集い、33回忌のお参りをすることにしている。 小口 良喜(昭和33年卒) |
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(4)留学生との交流 ・入江典彦 | |
******************************************* 私は、今、グループ杜とゆうボランテイアグループに所属して東北大学への留学生の色々なお手 伝いをしています。このグループは設立して23年になりますが、私は入会して7年目です。 約60名ぐらい会員がいますが男性は私一人です。 4月と10月に全世界から新留学生がやってきます。4月は約40名ぐらいで10月は100名 ぐらいです。大学からグループ杜へ留学生の国別、到着日別等色々な情報が送られてきます。 ・・・写真の説明・・・ (1)今回、私がお世話した留学生全員。 (2)近くの温泉旅館で温泉を楽しむ。 (3)温泉旅館で暖かい鍋料理を楽しむ。 (4)和服を着て、楽しむ会。 (5)皆さん、日本茶の飲み方、作法を学ぶ。 日本語を前もって勉強してくる学生もいれば、全然しゃべれない学生もいるので、英語が基本的 に会話手段となる。最近の傾向として、韓国の留学生は流暢な日本語をしゃべるが、英語は駄目 だとゆう学生が多い。 ******************************************* 【1】グループ杜による歓迎会の開催・・・・・・・・・・・ ここでグループ杜の活動を留学生に紹介する。 (1)日本語会話クラス・・初級、中級、上級。週1回10週。 (2)杜ルーム・・毎週月曜日と木曜日に12:00~15:00まで、大学にある 留学生交流センターの一部屋で軽食を用意して、学生の色々な相談にのる。 (3)ハッピートーク・・家族ずれの留学生の奥さんを対象にした"日本文 化“の紹介をする。 月2回 月曜日 11:00~13:00 (4)バザー・・・・・・年2回 (5)ランチパーテイ・・年2回 その他の活動としては、個人的なものでは、“温泉に連れて行く、ドライブに行く、ハイキ ング”とか。私は、日本語初級コースとハッピートークを担当しています。 【2】留学生は文部省の奨学金を得てくる学生や、一年間の交換留学生(大学対大学、研究室同 志)などあ ります。交換留学生は殆ど私費留学です。6ヶ月集中的に日本語を勉強する 留学生は、奨学金を貰っている学生です。6ヶ月後には、東北大学の博士課程の試験を 受けます。 【3】東北大学から日本文化の一つとして"囲碁“を教えて欲しいと要請され、家内がたまたま囲 碁やっていたので(日本棋院五段)お引き受けし、毎週金曜日6:30~9:00まで教えてい ます。 この様に、留学生相手に色々することは、基本的に英語で話しますから、ESS時代に頑張った お陰と思っています。今、英語は月2回TIMEを読む会で勉強し、韓国語を毎週土曜日に留学 生から習っています。皆さんに負けないようこれからも頑張ります。(韓国語は、韓国光州の画 友会との交流があるので勉強しています。) 入江 典彦(昭和33年卒) |
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(5)50年前の私・ 鈴木・ウォーレル | |
(1)At senior year of our group of ESS members (Naito,Naoko,Harada,Irie,Kitamura,etc.) (2)Doshisha ESS Nakamura's group (3)1965,August 2・Naoko,ESS members at Nakamura's get-together (Kobayashi,Naoko,?,Harada,Naito) (4)The same group at our year dinner (Kataoka & etc.) (5)Naoko S. Worrel(Suzuki)at senior year infront of the chapel of Doshisha middle school |
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(6)50年後の私・ 鈴木・ウォーレル | |
(6)Ken & Toni cutting the wedding cake which was baked by her friend as a wedding gift (7)Toni & Naoko (8)Naoko's husband, Don D. Worrell & Naoko at their son's house (9)a newly-wed couple, Ken & Toni Worrell (10)・・a new family, relatives, and close friends (11)・・a new family 鈴木・ウォーレル(昭和33年卒) ********************************************** To DEESeMailClub's members, I met my husband in Kyoto in 1959. He was a tourist on his vacation to Japan for 3 weeks. He visited his friend in Tokyo previously before his visit to Kansai area. I took him around in Kyoto as a volunteer-guide. As our scinario in this life, so-called, we fell in love with each other, at first sight. We just had 3 days together. And we corresponded with each other for the next three months. Then, he came back to Kyoto, and we got married on Dec. 4th, 1959 legally, though we had a wedding ceremony followed by a reception on Dec. 6th. We left Japan soon after to USA to reside in a new house in Huntsville, Alabama, where he worked in public relations with the military. Ken , our son, was born in 1960. When NASA was established, Don was transfered to there, where he worked for the famous German rocket sientist, Dr. Wernher Von Braun. Don retired from NASA at the age of 58 almost 30 years ago. He is now 85 years old. When I was 36 years old, Don and I started to take ballroom-dance lessons at a famous studio, Arthur Murray in town. And I became a teacher after two year of training there. However, I started my own studio soon, several years later. Though, prior to that, I taught a free university course to the public, and several adult education classes in city schools in town. I retired from dancing-carear at my studio in 1988 due to my responsibility to my aging parents in Japan, and also my strong desire to search the truth of my personal spiritual experiences by attending the seminars in Japan at the same time. I have been very much interrested in the study of the spiritual world, searching for its truth, ever since I was a young woman due to my very disturbing paranormal experiences in the past. And, finaly, I ran into the only truth, called, "Study of Consciousness," 20 years ago. It is not a religion! And, I have been able to get the answers to my quest, by searching into my deep consciousness through meditation of "Mother's unconditional love and joy within as our essence", so-called, according to "the study of consciousness". I have still a long way to go, though, I have been very happy to learn about myself and the universe in which one lives as a consciousness, according to the study. This is just about all I can describe as my "ikizama" in the past 49 years in USA. Thank you. Naoko Suzuki Worrell |
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(7)英会話親睦会・田島誠次 | |
この会の発端は私が24才で就職した年でした。学年差の大きい会が永く続くにはそれなりのわけが あります。高校でお世話になった英語の先生(井上康夫氏S23英文卒)が実業界に転向されて暫ら くして英会話有志の食事会が生まれました。先生の親しい同志社ESS・OB10名程が集うように なりました。 日比野尚氏(S28卒)、中村恵昭氏(S28卒)、山田浩一氏(S31卒)、原義雄氏(S32卒)、 磯野達郎氏(S34卒)、大田木俊氏(S34卒)、山田秀雄氏(S34卒)、山本耕生氏(S35卒) がレギュラーでした。 ・・・・・・・・・・・・写真説明・・・・・・・・・・・・・・・・ (1)後列左順・・田島Jr. 山田Jr. 北川Jr. 大田木Jr. 井上、中村。 中列左順・・原、山田秀雄、山本、北川、大田木3人、田島。 前列左順・・大田木夫人、山本夫人とJr.、井上夫人、山田夫人。・・於 静山荘 1972.1.15 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (2)後列左順・・山田夫妻、田島家族4人、大田木。 前列左順・・原とJr. 井上夫妻 大田木3人。・・於 静山荘 1981.1.3 |
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(8)英会話親睦会・田島誠次 | |
この会は年に何度か開いていましたが、そのうちに正月15日に集うようにしました。近年は都合を 尋ねて夏に集まります。例会場は宇治・平等院隣りの静山荘です。永い道のりで変化もありました。 日比野氏は日展の大御所書家・日比野光鳳、山田浩一氏はロンドンへ立身移住、山本耕生氏はUS A酒・宝のトップに立って英語駆使。特筆は井田正次氏、高校で井上先生に学び後に就職先はメー シー百貨店、広範囲にバイヤーで活躍、リタイア後は元気溌剌と夫婦で毎回参加です。裏千家とつ ながっていた頃は米人客がありました。子供達が喜んでついてくる間は家族会の様でバイリンガル で楽しんでおりました。 豊かな個性、英会話親派、年長尊敬の共感を持って続くこんな会には年輪のありがたさを思わずに はおれません。 ******************************************** 尚、残念ですが会発足当時の写真がありません。私の学生時代に(発足直前に、)井上康夫氏を囲 んで中村恵昭氏(JTB勤務)・山田浩一氏(丸善洋書店勤務)学生の井原一・神田惣介・三島香 氏等がタカラビャホールにて会食に参加されていました。今は亡き井原さんをしのびつつ。 ******************************************** ・・・・・・・写真説明・・・・・・・・・ (3)後列左順・・磯野夫妻、中村、山田、原、井田、大田木。 1999.1.15 前列左順・・田島、ダイアン(ハワイ)、田島2人、山田夫人、大田木夫人。・・於 静山荘 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (4)後列左順・・田島、井田、原、中村、磯野夫妻、大田木。 前列左順・・井上夫妻。・・於 静山荘 2008.7.30 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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(9)カンツォーネ雑感・田島誠次 | |
発声を習って5年経った。その間大劇場で3回歌わせていただいた。数百人の前に立つと緊張する。 歌詞忘れ、頭真っ白の心配はつきものだ。ラジオの深夜番組で本番に強くなる方法も聴いた。確か に本番は一回のチャンス。平常の力発揮の要領は別として音大声楽コースを歩んだ方々と比べても 無理なこと。私というお粗末君はせめてイタリア語とナポリ語を掴んで歌をとおして気持ちを伝え る目標に代わってしまった。 スポットライトを浴びる魅力、3分を独占する横着な喜びと言えようか。 昭和34年卒・田島誠次 ・・・写真撮影日2008.4.20 於兵庫県立芸術文化センター・・・・ |
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(10)「同志社大好き」杉本妙子 | |
毎年、夏休みにはESSのメンバーの有志で一週間ほど琵琶湖の比良にある福田寺というお寺へ合宿 に行きました。比良の浜で水泳を楽しんだり、近江舞子まで歩いていって、其処でも色々と楽しく 過ごしました。私達の忘れがたい青春の思い出です。 (1)お寺の鐘の前のシーソーの上です。オラドンと私は何時も一緒だったので文さんと北村様にと ても可愛がってもらいました。オラドン・ラッキーと2人を1対で呼ばれました。寺の本堂の仏 像の前でテープレコーダーでダンスしました。仏様も吃驚でしょう。 オラドンの家へ夏休みになると何泊もしてお母様に浦富海岸へ海水浴に連れて頂きました。 オラドンは鳥取のJR駅前の伊達外科医院の御嬢様で寝ていても救急車の患者ピーポーと来て何 回も夜中に起こされます、。私は此の職業は堪らんと思いました。 川端丸太町の伊達医院は親戚で其処に下宿されてました。彼女に弟が居て丸坊主で可愛かった ので私が和尚さんとニックネームを付けました。 其の弟が後継いで居れば駅前に伊達外科病院が有る筈です。鳥取の方有れば教えて下さい。 親友のオラドンは大学卒業して再会を誓って別れて3ヶ月位後でピアノを弾きながらの急死で す。 医者の娘が何故助からなかったかと悔しいです、1番寂しい想い出す。。 (2)オラドンと私は双子みたいに仲良しで同じ柄の服来てます比良懐かしいな〜 顔は皆様はっきり覚えています。 (3)牛尾様若いね・・すき焼ですか??他の方は年下ですか? 当時も名前知らないけど顔は はっきり覚えてます。 (4)オラドンや北村様に逢いたい。 (5)ボートの上で正に青春時代もどりたいな!! 横にブランコがあった。 杉本妙子(昭和34年卒) |
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(11)「同志社大好き」杉本妙子 | |
(1)懐かしいお方ばかり、でも名前忘れた方が多いは。 主人(前列の右から二人目)の向かって左は 北川様でしたか? 向かって右は林様、後ろは長柄 様!(^^)!は皆様覚えています良く話した方ばかりです。北川様は オラドンと私にチョッカイと いゆうか逆らいにばかり来て楽しんでいたようです。 長柄様はクリスマスに自宅へ招待して下さり酒・ご馳走を振舞って下さいました。 男ばかり3人兄弟の真ん中で、とても愉しい家庭でした。杉本も5人兄弟の真ん中で真ん 中に縁があったのですね。大阪の靫公園であったと思いますが其の公園へ連れて下さって、長 柄様にプロポーズされたことがあります。長柄様と主人は二人とも天国へ召され寂しいです。 懐かしい写真に見とれました。 (2)孫・城士(ジョウジ)が春から就職する(株)コーエー(東証1部上場)で任天堂と同じ事をし て合弁会社と思います。お互いに提供してる今流行のゲームソフトや情報通信分野です。 仕事柄玄関のアプローチからホール・廊下・に至るまでデザインやオブジェがセンス有り素敵 でした。 その玄関の前で娘の真弓と写真を撮りました。 杉本妙子(昭和34年卒) |
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(12)クロアチア旅行・久留 孝 | |
(1)ドブロブニク旧市街を望む (2)ドブロブニク旧市街。レンガ色の屋根で統一されている。 (3)ドブロブニクの旧市街を取り巻く城壁の上から (4)ドブロブニクの城壁の一部 (5)クロアチア最大の港町スプリットの青空市場。 ・・・・・(1)〜(8)の説明・今回のクロアチア旅行に就いて・・・・・ 今回クロアチアに入る前にベニスに立寄りましたが、世界中から大勢の観光客でにぎわっている筈 のサンマルコ広場が,何とがらんとして寂しい限りでした。金融恐慌の波が既にベニス迄押し寄せて 来ているのです。お店の人達も全くお客が入って呉れないと嘆くばかり。レストランも人影が少な くて、立ち食いのピザ屋だけが繁盛していました。 さて、クロアチア最南端の世界遺産の街ドブロブニクは、旧市街の周りを約2キロの城壁が取り囲 んで居ます。城壁内の中央に20メートル位の幅のプラッツア通りがあり、その両端に4階建ての同 じ形の建物が並んでいます。屋根は全てレンガ色に統一されていて、建物と建物の間は幅2メート ル程の路地が縦横に走っています。城壁内が一つの街であり又一つの大きな建物の様な造りになっ て居ます。個々の建物の素材の石の色や形や大きさに統一感があり、その見事さ美しさには目を見 張るものがありました。 (写真2枚ご参照) ドブロブニクはスラブ語で、ラテン語ではラグーサと言います。かつてはスラブ人が北側、ローマ 人が南側に住んでいて、その間に水路があったのが、その後その水路がふさがれてプラッツア通り になったとの事です。ガイドブックによりますと、かつてラグーサ共和国はベネチア共和国に実行 支配されていたが、オスマン帝国に貢納金を納める様になり、その結果オスマン朝との交易が認め られたのだそう。 その後17世紀の大地震でラグーサ共和国が崩壊の危機に直面し、ベネチア共和国に国境を侵犯され る事を恐れて、オスマン帝国に国境から北を割譲する事で実質オスマン帝国に国境警備を恃んで、 そこを謂わば緩衝地帯にしたのだそうです。何と言う政治力でしょうか。 ドブロブニクからスプリットに向かう途中に今でもその跡が残っています。それはクロアチアの領 土の中に南北10キロに亘ってボスニア・ヘルツエゴビナ(B&H)の領土が出現しているのです。 (世界地図を見ても余りにも小さい部分なので殆ど気がつく人は居ないと思います。)つまりクロ アチアの領土が陸上では二分されていると言う事なのです。だからドブロブニクからスプリットに バスで行くに当たって私達はクロアチアの出入国、B&Hへの入出国とパスポートのチェックを受け ました。 クロアチア人はスラブ系で、男性は勿論特に若い女性の中には180cmはあろうかと思われる身 長でしかもやせていて足が長く、顔は小さくその彫りが深い、8頭身ならぬ9頭身美人が多い様に思 われました。家内に言わせると「彼女達はファッションモデルサイズ」なのだそうです。 バスに乗ったり青空市場を散策していると買い物客やお店の人達から日本語で「こんにちわ、 おはようございます」と言う声が飛んできたり、「ヤーパン?」と、いかにも「遠くからよく来た ねえ!」と言わんばかりに暖かな人懐こい笑顔で声を掛けられたりしました。クロアチア語がわか らなくても英語や身振りで何とか会話が出来て大変愉快な楽しい気分になった事でした。 ある一日を使ってB&Hの第二の都市モスタール(これも世界遺産に指定されている)に行きました。 モスタールはドブロブニクの海岸線から150km程内陸にあり、そして首都サラエボからは約1 00Km位の所にあります。川を挟んで両側に山がある為に冬でも海から川を伝わって暖かい空気 が流れて来るのだとか。その所為か予想に反して寒くはありませんでした。逆に夏はヨーロッパで 一番暑い町(時として50度になる)としても知られて居るそうです。 Mostとは「橋」を、Mostarは「橋の町」と言う意味なのだそうです。B&Hを東西に二分する形で 流れている川を挟んでいる町です。 写真の橋はこれを象徴する太鼓橋で、ユーゴ内戦迄に4度壊され、4度造りかえられたのです。橋 のたもとに壊された橋の石の破片が置かれていて、そこには「Don't forget 93」と刻まれていま した。(写真ご参 照)1993年9月11日に爆撃を受けてこの橋が破壊されたとの事で、思わず 「もうひとつの911だ」と不思議な符合に慄然とさせられました。 95年に終わったユーゴ内戦の戦闘では建物の75%が破壊され、未だに銃弾の跡が生々しく壊れ たままの状態の建物が沢山ありました。死者は25万人を超え、埋葬する為の墓地が無くなった為 に、町の公園や空き地を急遽墓地にして埋葬したとの事でした。車で通りすぎた町の一角のある 道路は両側が墓地となっており、よく見ると墓と墓の間は殆ど間隔も無いほどにギッシリと建て られていて、しかもすべて新しいのでした。 このモスタールは戦前(ユーゴ内戦)はリゾート地として近隣からの観光客で栄えた所でしたが、 戦後は「祈りの地」となったとの事。 そんな説明を受けている最中にコーランのゆっくりした詠唱が流れてきました。 当然の事ながら今もってオスマントルコの影響が生活のそこかしこに見受けられる様でした。 確かに「墓地の中に町がある」かと思われる様な所を車で走っていると、死者達の魂を強く感じさ せられて、思わず合掌せずにはいられなくなりました。 黄色の市バスが走っているのをあちこちで見かけたのですが、その胴体には既にすすけた日の丸の 旗が描かれており、その下には「From the people of Japan」と書かれて居ました。 ここへ来るまでに受けたイミグレーションの対応が何となく暖かなものに感じられたのは、案外こ の様な地味な貢献の所為なのかも知れないと素朴に単純に思った事でした。 次に、ドブロブニクから5時間のバス旅行で入ったスプリットは、クロアチア最大の港町で矢張り 世界遺産に指定されています。街の中心部には城壁があり、この城壁内では違法に建物を建てて 住み着いている人達が大勢居るので、ドブロブニクの様な統一性はありません。ただ活気があり城 壁の外にある青空市場(写真ご参照)では足の踏み場も無いほどの買い物客でごった返して居ました。 港には対岸のイタリアやギリシャ等との海上交通を担うフェリーが出入りして居り、生活感溢れた 様相を呈して居ました。 クロアチアの首都ザグレブへはフライトの遅れの為に夜に到着したのですが、街灯がガス灯の色を して居り、それが広い通りの奥の奥まで等間隔にポツンポツンと連なっているのです。勿論ネオン などは一切無く、心地よい夜の深さを感じさせられました。昔見た白黒映画の世界に突然に迷い込 んでしまったかと思う様なそんな雰囲気がありました。家内は「そうよね夜はこの位暗くていいの よね。とても落ち着く暗さで素敵ね」と、そのほのかな美しい街の灯を楽しんだのでした。鉄道の 中央駅は半世紀程前の京都駅を思わす様な懐かしい感じで、その周囲はあまり数多くはない車が路 上駐車されていました。 翌朝早速飛び出した街には路面電車が走っており、駅前から街の中心に伸びる道路中央には100 m幅のグリーンベルトが何キロにも亘ってあり、それがそのまま公園になっているのです。日曜日 とあって街の中心部の広場では家族連れが大勢散策して居り、子供達の笑い声が絶え間なく聞こえ て来たり、高校生の合唱団が舞台で歌っていたり、それを聴いている人々の中の何人かの老人達は おどけた様子で踊りだしたり、素朴で暖かい雰囲気を感じたのでした。 (写真は広場で地元の子供達と共に) クロアチア料理はアドリア海で獲れるムール貝や手長エビ等の魚介類と、ラムや子牛の肉料理等 ですが、イタリアの影響を受けて居る事からイタリア風料理が多かったです。いずれも大変美味 しく我々の旅の目的を達成する事が出来ました。 最期まで拙文をお読み頂き恐縮です。 Hvala! (Thank you) 久留 孝・昭和34年卒・(1959年卒) |
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(13)クロアチア旅行・久留 孝 | |
・・・・・・・・・・・・(13)クロアチア旅行・久留 孝・・・・・・・・・・・・・・ (6)ザグレブの市内にて。路面電車の前で妻と地元の子供達と。 (7)モスタールの太鼓橋の麓にある「93年の戦争を忘れるな」と書かれた石 (8)ドブロブニク旧市街の城壁から見た街 ******************************************** ・・・二年前はヨットでセーリング(2007/5月)・・・ (9)リビオ氏のヨットで出発 (10)クロアチアにて、大オマールのスパゲッティを前にゴマンエツ!! ・・・・「ヨットで旅行」・久留 孝・・・・ (9)〜(10)の説明 これら(9)〜(10)の写真は約2年前(2007/5月)にヨットでベニスからクロアチアまでヨットで旅行 したときの写真です。 07年春ベニスの友人のヨットでベニスからクロアチアに行き、温かいクロアチアの人達、美味し い料理、そして美しい光景に惹かれて、是非再度訪問したいとの思いが実現したのです。そこに は世界遺産に指定されるに相応しい街々が存在し、人懐こい現地の人達と接する事が出来て、こ のヨットによる旅が大変楽しいものになりました。このことが、1年後のクロアチア旅行につなが りました。 久留 孝・昭和34年卒・(1959年卒) |
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(14)私の沖縄dive・Shizuko Ouwehand | |
昨夏、本島から「沖縄dive」大好きの友人がやってきて、『世界のダイヴァーが憧れる沖縄の海 中を体験しなくっちゃ...ね!このススム先生は、最近80才の人にも教えているんだから、 大丈夫、大丈夫!」と.ナポは、1994年、バハマでイルカとシュノーケルで遊んでいる時、 ある友人がスキューバをためして、なんだか呼吸事故、パニックに陥り、後遺症おゲットしてし まった.だから、海の底へ行きたいのは山々なれど、ナポはじっと我慢していたのだが、ついに この、黒光りのススム先生に「ぜったいだいじょうぶ!」とにっこりされてイチコロ.昔の、冒 険好きなナポがやおら甦った次第です。 「”マンツーマン”で教えます!」との約束通り、思い荷物を背負ってよっこら水に入るナポばあ さんを、両手で受けてくれて、お手て繋いで、絶対死なないからね!とぶくぶく...「絶対死 なない.安心安心』を何百回くりかえしたことか。。。 案外あっさりと初体験を終えて無事甲板へ.第2、第3は、たしかダブルドロップという名の dive spot. 20メートル、32メートルの水深.深く冷たく静かな...限りない紺青の世界。 。。そして、アニメのようなカラフルな世界...岩陰に身を潜める菜食主義のナースシャーク (写真4)、産まれて間もない銀目鯛の大群(写真5)トンネルもくぐりそれこそ宇宙遊泳。。。 甲板で、感涙とどまらず...3日目.第4、第5ダイヴ.心理セラピストのようなススム先生 は、この段階で、俄然環境運動家の面を発揮.ああやって、沖縄海底の美を満喫させた後、この 日の海底世界は...見渡す限りただ静かな、真っ白の世界(写真無し...) ほんの少し小さな何かがツツーッと動き去る...泣きたい、泣きたい、でも、ここで泣くと呼 吸困難になると、冗談でなく、必死で我慢、みんな静かに、海底からロープを頼りに甲板へ.マ スクをとるのももどかしく、悲しい涙が体中からながれでて。。。あんまり、あんまり。。。 あんなことになるなんて...甲板でしゃくり泣き...それを思い出す今も私の中ではあの涙 がウルウルです。今すぐなんとかしなければ...みんなと一緒に、でもまず自分から..と。 ナポの中では、『波照間プロジェクト』も、新時代の子どもたちも、、まっしろな海底の涙もつ ながって「いま」を叫んでいます。 競争経済に未来はないよ...助け合いの、譲り合いの、やさしい,安心な共同体に戻ろうよ.. .と.1965年に夫と体験した波照間島の結いの暮らし、周りの風景、空、海、畑、家並み、 あるがままの調和の世界...私たちはそこに心のふるさと原風景を見ていました。これを未来 へつなげて行こう・・・みんなと一緒に・・・『時は今・・・」 ・・・・・・・・・・・何処からとも無く聞こえ続けている『時は今・・・」。 楠 静子・Shizuko Ouwehand(昭和34年卒) |
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(15)The Doshisha 第1号・竹村 侃 | |
(Page 4)の下に掲載されているStaff Membersの名前は、字体が明確でありませんので、改めて ここに明示致します。 NO.1 ・・・・・THE DOSHISHA・・・・・ JULY 1957 \10 Doshisha University Campus Newspaper Published by The Doshisha University English Speaking Society. Faculty Advisors: Prof.H.Yanagishima, Prof.S.Dodo, Prof.J.Young Student Staff: Editor・in・Chief・・・・・・・・・・Takashi Kuru・久留 孝 Business Manager・・・・・・・・・Kaoru Mishima・三島由嗣 Campus News Editor・・・・・・・・ Sosuke Kanda・神田惣介 Off Campus News Editor・・・ Kiyohiro Aratani・荒谷清弘 Sports Editor・・・・・・・・・ Kenji Inoue・居上健次 Investigation Editor・・・ Masahiko Kobayashi・小林昌彦 Feature Article Editor・・ Masahiro Uchida・内田真弘 Assistant Editors・・Kato, Takebayashi, Iida, Suezawa, Izumi, 加藤貞一、 竹林達、 飯田かんじん、 末沢武司、 泉英毅, Nagamoto, Yamanaka, Kuroda, Matsuyama. 永本英二, 山中弘一, 黒田隆治, 松山嘉男, ******************************************** ESS英字新聞 The Doshisha 第1号発行について 1875年秋、校祖新島襄先生により「同志社英学校」が開校された。1920年法令により「同志社 大学」に改組された。開校当時全ての授業が英語で行われていた。以来、英語は同志社教育の中 心であった。学生の中には英語によるコミュニケーションに興味を持つものも多くいたという。 1917年に、学生の部活動としての「語学部」が誕生し、間もなくしてESSと改称された。 これが今日のESSの源流である。 第二次世界大戦以前には、ハワイ大学との交流を含め、華々しい活躍があったが、世界大戦中は 部活動も中止せざるを得なかった。 1945年終戦後、ESSはいち早く再建され活発な活動が再開されたと聞く。終戦後の米兵を中心と する進駐軍の駐屯で、Living English に接する機会が出来、これによって部としてのESSの活動 が活発化したのも当然であったと思う。 ESSとは、English Speaking Society だが、ただ英語を喋るだけでなく、真の目的は、「読み、 書き、話す」の三拍子揃った”Workable English”の習得だということを忘れることはなかったと 聞く。ESSをご指導していただいた当時の先生からも、ESS部員たちは「How to speak」だけで なく、「What to speak」についても良く学べというご指導であったと思う。この精神が後のESS の伝統となり、更なる発展の基盤となっていったのである。 当時ESSは、柳島先生を初め、松井七郎先生、ヤング先生、百々先生といった心から同志社を愛す る熱心な指導者に恵まれていたのも、誠に幸いであった。部員はこれらの先生方の指導を受け、 より高い目標を掲げて活動を続けた。上級生は下級生のため、「英書購読」などのクラスを持ち、 指導に当たっていたのである。 1950年代半ば、英語ドラマは学外でも注目されていたし、新聞社主催による英語スピーチ・カン テストでは、常に上位に入賞。当時あった国際学生会議にも多数の部員を送り込んでいたし、英 語ジャーナル誌も発行され、ESSの活動はますます活発になり学内でも注目されるようになった。 そんなある日、ESSの小さな会合が開かれた。何の会であったか記憶は定かでないが、その会合に ご出席の田畑忍先生から、「ESSは良く頑張っているが、同志社にはいまだ英字新聞がないので、 ぜひESSで発刊して欲しいね」といわれた。確かに。当時「同志社七不思議の一つ」と言われて いたが、学内に英字新聞はなかった。 これを聞いて、当時の3回生は、何とかやってみようという気持ちになった。柳島先生からは、 いつもの”Go ahead!” 「やってみろ」と激励を受けた。なんのknow-how も持たないものばか りであったが、英字新聞発行の機運は高まっていった。 新聞発行には予算が要ると言うことで、 ESS運営のCommittee(委員会)で討議して、少しは予算を計上したと思う。 久留孝(当時3回生)を中心に有志が集まり、初の英字新聞発行に取り組むことになった。 そして刷り上った第一号を当時の大下学長と田畑先生へ持参したところ、両先生とも大変お喜び いただいたことを、つい最近のことのように思い出す。もう50年も前のことである。 そして翌1958年、ESS委員会内にジャーナル、ドラマ、社会福祉と共に、英字新聞も部門として 設立され、泉英毅(35年卒)が部長になり、年4回の発刊を目指し活動は続けられた。そのころ の発行部数については、確かな資料を見出せなかった。1959年度部長倉貫克彦(36年卒)が、 ジャーナル誌に、「英字新聞の読者は全学学生の十分の一程度であった」と書いておられること から推量して、およそ5~600部ではなかったかと思う。 以上1957年同志社で初の英字新聞をESSで作成、発刊した経緯を、手元の資料と当時の関係者の ご記憶を基に記述いたしました。またジャーナル誌のOB会「チャイム会」のご協力も頂きました。 皆様のご協力に感謝申し上げます。 (文中のESS部員の敬称略) 文責 竹村 侃(35年卒) ******************************************** ・・・・・・・・・・NEWS PAPER DEPT.のペナント/竹村 侃・・・・・・・・・・・・・・・・ これは、1960年2月ESSを去る時、英字新聞部の後輩たちが呉れたペナントです。その当時のこ とは明確に覚えておりませんが、farewell partyでいただいたものと思います。 私は、当時2回生で英字新聞発刊の仕事をお手伝いしておりました。広告を集めたことや、新聞 一面のキャンパス風景の写真を撮るときにサクラとして向うから歩いてくる役を務めたりしたこ とが懐かしく思い出されます。 今回の原稿をまとめるに当たって、第一号発刊の中心でリーダーシップをとられた久留、神田両 氏に大変なご協力、ご支援を頂きました。お礼を申し上げます。 竹村 侃 |
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(16)Homecoming Day 2008・桑田泰弘 | |
******************************************** 我々、ESSは学年、性別を越えたまさにグロバル言語の英語を一生懸命、今出川で切磋琢磨した仲 間の集まりです。同志社の原点は新島先生が創立された同志社英学校です。関西、関東、北海道、 九州、東北、四国、中国関係なく集うのがESSはもとより他のクラブの人達にも英学校の生徒と してそのまま共通する。。。何を隠そう文字通りの同志社ホームカミングではないでしょうか。 平成20年11月9日に開催された同志社大学Home Coming Dayの写真別の簡単な説明をさせてい ただきます。 桑田泰弘 (昭和40年卒) (1)ESS−Dグループは昨年で8年目ですが同志社ホームカミングを絶好の機会として全国か ら、かってのメンバーが集まり同窓会を開いています。2年前から我がDグループと兄弟の Eグループで合同の集いを実現しています。DとE参加者の合同写真です。 (2)新装成ったクラーク会館の階段でのスナップです。小生の前が36年卒の花岡先輩、後ろが 46年卒の西村君です。 (3)同志社生抜き仲間3人とノートルダム出身の鈴木エッちゃん。エッちゃんと学長,八田さん、 その横の西村君は46年卒の同期生です。八田さんは46年卒の経済学部首席、エッちゃんは 法学部の首席です。 (4)エッちゃんの長男はパイオニアで巴里に駐在です。次男はJicaでアフリカのボツワナ へ行く前に僕を訪ねてくれ海外での成功はどこにあるのでしょうかと訊ねられ、答えまし た。行った国で一杯友達を作ることや。長男とも巴里で2〜3度会ってますし、次男も帰国 後はブリヂストンに勤めアフリカでの経験を生かしています。そんな繋がりでの一葉です。 (5)これはホームカミングの後の烏丸日航ホテルでのDグループReunionのスナップで す。左端が48年卒でDグループで一番若い稲田さん、その横が家内、そして同期の平山君、 右端が43年卒の村田君。村田機械の社長純一さんの弟です。 |
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(17)Homecoming Day 2008・桑田泰弘 | |
(11)DグループReunionに於ける45年卒から48年卒までの仲間達です。 (12)41年42年卒の3人です。京都で調停委員をやっている42年卒の坂本さん、 41年卒で長らく高校教師であった芦苅君そして家内です。 (13)45年卒の岡本、佐藤両君と40年卒桑田のDグループ頭3人組。 (14)詩吟を吟ずる47年卒の森元君と尺八の村田君。 (15)Dグループの龍頭35年卒の上野先輩と46年卒法学部Topのエッちゃん。 |
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(18)Homecoming Day 2008・桑田泰弘 | |
******************************************** (21)学長と中学から同期の西村君、暮れに第九を京都コンサートホールで仲間300人と歌い上 げました。 (22)尺八の村田君。やっと免状をもらいました。名は「東風」です。 (23)アルゼンチン大統領ペロン夫人の「エヴィータ」をマドンナと言うよりマダムで歌う家内。 (24)上野先輩に続く36年卒龍頭の2枚目花岡さんはカンツオーネの名手でした。 ******************************************** この様な学年、性別を越えたまさにグロバル言語の英語を一生懸命今出川で切磋琢磨した仲間の 集まりです。同志社の原点は新島先生が創立された同志社英学校です。関西、関東、北海道、九 州、東北、四国、中国関係なく集うのがESSはもとより他のクラブの人達にも英学校の生徒と してそのまま共通する。。。何を隠そう文字通りの同志社ホームカミングではないでしょうか。 今年は必ず東西同志社ESS合同Reunionを実現致しましょう。西は西方の先輩にご協力 をお願いし、東は東方の先輩のサポートを頂きながら兄弟、鈴木と必ずまっとう致します。 桑田泰弘拝(40年卒) |
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(19)青春とは!!・牛尾正昭 | |
・・・・・・・・・・・・・・・(19)青春とは!!・牛尾正昭・・・・・・・・・・・・・・・・・ 中村友一先輩は私達五十数年前から、同志社大学ESSで色々とご指導頂き、ずっと今日までお世話 頂いた大先輩です。DUESS関西OB&G会、"Salon de 錦"その他、我々の関係同窓会の名誉会長を して頂いてきました。この絶えることのない先輩の熱き情熱を思うとき、サムエル・ウルマンの 「青春」という名の詩が一番相応しいのではないかと、"Salon de 錦"の会合に於いて、私自身そ のサムエル・ウルマンの熱き思いを詠ませて頂き、その場で皆さんに署名をお願いしたものです。 ******************************************** ここにサイン頂いていますのは全て本人の直筆でお願いしたものです。 中村友一(昭和30年卒)、小口良喜(昭和33年卒)、吉田元比古(昭和34年卒)、 岸孝二郎(昭和40年卒)、松山嘉男(昭和35年卒)、居上健次(昭和34年卒)、岩佐誉(昭和42年卒)、 谷口陸平(昭和38年卒)、吉富桂三(昭和34年卒)、横山和子(昭和35年卒)、袖崎俊宏(昭和39年卒)、 田島誠次(昭和34年卒)、梶井弥寿子(昭和33年卒)、花谷昌平(昭和33年卒)、 村上淑子(昭和33年卒)、吉田幸子(昭和47年卒)、高橋允子(昭和33年卒)、永谷靖男(昭和35年卒)、 壹岐幸佐(昭和34年卒)、仁井谷知子(昭和47年卒)、牛尾正昭(昭和33年卒)、 杉本妙子(昭和34年卒)、鈴木綾子(昭和54年卒)、磯野達郎(昭和34年卒)、 大久保 昇(昭和33年卒)、・・・神田惣介(昭和34年卒)以上26名の直筆サインを頂きました。 尚、このサイン頂いた三行目の左から三人目の横山和子さんは"Salon de 錦"・第六回"Salon de 錦"(2002/6/6)より参加されていましたが、誠に残念ですが今年の2月3日、享年70歳で亡くなら れました。心よりご冥福をお祈りしたいと思います。彼女は"Salon de 錦"の初期の頃から、ずっ と参加され、コンピュータをしておられなかったので、いつも彼女の写った写真を毎回、郵送い たしました。その時の彼女からの礼状を懐かしく見ております。 ******************************************** ・・・「青春」という名の詩・・・ サムエル・ウルマンは一八四〇年フランスのアルザス地方に生まれ、十一歳の時に両親と共に合衆 国のニューオーリンズに移住しました。彼は南北戦争にも従軍して二度負傷し、一九二四年バーミ ンガムで八四年の生涯を終わらせました。彼はユダヤ人であり、生涯に亘って敬虔なユダヤ教徒で ありました。 そして、社会的弱者であった孤児、女性、黒人、労働者を救済する運動に生涯を捧げました。 この「青春」の詩を日本に伝えたのは戦後、連合軍の最高司令官であったマッカーサー元帥である と言われています。彼は執務室の壁にYouthを掲げ、日々愛誦したそうです。 聞くところによると、メキシコ市でこのサムエル・ウルマンの「青春」の掛軸が売られているそう です。どの土産物店でも売られているとのことで、その「青春」の詩の一番上に ・・・・・・・・・・・・「How to Stqy Young」とあるそうです。 尚、私は、この詩を訳するときに出来るだけ平易な言葉を使わしていただきました。それは漢字を 目で見て、その意味を読み取るのではなく、耳から聞いて簡単にその意味を理解しやすい言葉にし ました。例えば、ある人は「怯懦(きょうだ)を退ける勇気と、安易を振り捨てる冒険心」と訳して いますが、私は「臆病を退ける勇気と、安易を振り捨てる冒険心」としました。 それから「時には、二十歳の青年よりも、むしろ七十歳の人にその青春は存する。」と意訳しまし たが、元のサムエル・ウルマンの詩では直訳すると、「時には、二十歳の青年よりも、むしろ六十 歳の人にその青春は存する。」となっています。それは私達の生まれた年よりも約百年前ですか ら、その当時の六十歳は今の七十から八十歳に相当するものと解釈しました。我々eMailClubのメ ンバーは全部と言っていいほど七十歳を超えております!!・・・我々に向かってこの詩が詠まれた ものと解釈しています。 牛尾 正昭(昭和33年卒)・・73歳 |
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(20)編集後記・牛尾正昭 | |
******************************************** 我々の五十数年前の至誠館S1の教室入口の右側に掲示されていたESS掲示板です。下段にあります のは我々Sophomoreの時のグルーブリーダーの名前です。左から、安部・太地・斉藤・花谷・坂 口・牛尾 ・吉田・館・森元・小口・入江・梶井・不明・大久保・計14名です。 今回、この写真を掲載するについて、大きさはこの掲載した大きさの1/4の大きさの写真を複写し て掲載したものです。下記の説明文は原版を虫眼鏡で見ながら、それらを読み取り、説明文として 掲載したものです。この掲示板を撮影した日は、新入生が入学してきた直後の4月の中頃と思われ ます。 ・・・掲示板の説明・・・ ************ポスター左から(1)〜(4)の説明****************** (1)・ポスター (2)・ポスター (Welcome Party for fresfmen) (文さんのクラス) Place:Grill Tourist 3年・金(シナリオPicnic) Date:28th.Apr (Sat.) 2年・火(英会話) Time:3.00p.m.〜6.00p.m. 1年・月(英会話) Expense: \150.− 参加自由・来週 ******************* ******************* (3)・ポスター (4)・ポスター ESS (Discussion Meetingis 〔英語発音矯正クラブ〕 is to be held as follows) 講師:佐伯 治氏 Date:28th(SAT)of Apr. 期日:4月30日(月)より開講 Time:2nd,3rd period 場所:T-25.8.00〜9.30AM Place:M2 尚、定員超過のため新たに1クラス(火金) Title:Two Big Party System を設けクラス分け致しますので受講する方 Charman. Mr.Kitamura は全員いつもの通りお集まり下さい。 −−−−−−−−−−−−−−− 28日(土)12.00PM.全員S1に集合のこと。 Date:30th(MON)of Apr. Time:1st,6th period Place:412 Title:Two Big Party System, Death Penalty Charman. Mr.Bun ******************************************** 以上が私達の五十数年前のESS掲示板ですが、登校すると朝、昼食時には必ず至誠館S1に来て、そ れぞれその日のグループ活動予定を見て、行動致しました。 ・・・・・・・・・・・・・我々にとって一番必要な掲示板でした。・・・・・・・・・・・・・ ******************************************** ・・・・・・・・・・・・(20)編集後記・牛尾 正昭・・・・・・・・・・・・・・・ DESSeMailClubのメンバーは29名、既に古希を迎えております。 古希とは中国唐代の詩人「杜甫」の「曲江詩」の詩句にある「人生七十古来稀なり」に由来する。 とありますが、メンバー全員が古希を超えております。 私達はこれらの掲載した五十数年前に思いを馳せながら、今現在の我々の生き様をお互いに確認 するページであります。 このDESSeMailClubのホームページを六年前に第一回を発行して、既に五回更新して来ました。 今回で六回目の更新になります。従ってDESSeMailClubのホームページの題名は・・・ ・・・・・・・・・・・・・DESSeMailClub/6 (同志社大学ESSeMailClub)・・となります。 今回のホームページの更新は今までのものを総括する形で、少し時間をかけて編集致しました。 お待ちいただいている皆さんには色々とご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。 このeMailClubのメンバーは昭和31年卒〜昭和35年卒の29名で構成されていますが、このホーム ページは今までのeMailClubの枠を超えて、同じDESS部員の皆さんに対しても、このホームペー ジを仲介として、お互いに交友、交信を広げたいと考えております。 今回は鈴木・ウォーレルさん(昭和33年卒)、桑田泰弘さん(昭和40年卒)にもご投稿頂き有り難う御 座いました。鈴木・ウォーレルさんはアメリカのアラバマ州に在住しておられ、彼女のコンピュー タは英語でしかインプット出来ず、英文による投稿となりました。 今後とも皆さんのご協力を宜しくお願い申し上げます。 牛尾正昭(昭和33年卒) |
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